三跪九叩頭 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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三跪九叩頭の礼

<三跪九叩頭の礼>


三跪九叩頭は,中国の清朝において,臣下が皇帝に謁見する際に行われていた儀礼である。


前近代の東アジア世界では,中国を中心として,中華思想華夷思想)にもとづく冊封体制が形成されていた。この体制のもとでは,中国の皇帝を主君,周辺国の首長を臣下とする君臣関係が設定され,中国は周辺国にその地の支配者としての地位を認めて冊封を行い,一方,周辺国は中国へと使節を派遣して朝貢を行うという仕組みが築かれた。

このような体制を背景として,周辺国の使節が中国に朝貢して主君たる皇帝に謁見する際にはきわめて高度な敬意を示す儀礼が要求されたが,清の時代にそのような儀礼として使用されたのが三跪九叩頭の礼である。この儀礼は,皇帝に向かって三回ひざまずき,一回ひざまずくごとに三回頭を地につけるというもので,三度ひざまずいて(三跪)九度頭を叩きつける(叩頭)ことからこのように呼ばれた。


近代までの東アジアにおいてはこのような制度がさまざまな変化を経験しながらも継続してきたが,18世紀末から19世紀にヨーロッパ諸国が中国に対して本格的な進出を行うのにともなって,中国とヨーロッパ諸国との間で軋轢が起こるようになった。

1793年,イギリスから使節として派遣されたジョージ・マカートニーは熱河に滞在していた乾隆帝に対して謁見を申し入れたが,この際,これを朝貢として扱って三跪九叩頭の礼を要求する中国と,西欧的な外交の慣例にならおうとするイギリスとの間で論争が起こった。結局,ここは乾隆帝が度量の広さを示して恩恵的に三跪九叩頭を免除してイギリス式の儀礼を容認したが,これは国際関係の変更を認めたものではなく,会見においてイギリスの求めていた貿易や国交についての要求は一蹴された。

その後,1816年には,ウィリアム・アマーストが再びイギリスから使節として派遣されて,北京で嘉慶帝に謁見を試みた。しかし,今度は嘉慶帝があくまで三跪九叩頭の実施を求めて譲歩しようとしなかった結果,アマーストはそのまま退去させられることになった。


乾隆帝とマカートニー

<乾隆帝とマカートニー>


このような貿易や国際関係をめぐる軋轢は,結局,19世紀半ばに中国とイギリスとの軍事衝突へとつながった。

19世紀半ばに中国とイギリスなどの西洋諸国との間では,アヘン戦争,つづいてアロー戦争が起こり,これらの戦争に敗北した中国は条約を結んで西洋の外交体制へと組み込まれていった。そして,アロー戦争後の天津条約北京条約では,中国はヨーロッパ諸国に対する朝貢国としての扱いを改めることが定められ,皇帝に謁見する際には西洋式の儀礼を使用することに変更された。

こうして,中国の冊封体制を象徴する儀礼であった三跪九叩頭は,西洋の衝撃によってその体制が動揺し崩壊していくのにともなって廃れていった。