林則徐 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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林則徐

<林則徐>


林則徐(1785~1850年)は,中国の清代後期の政治家である。


林則徐は,清代の後期に入る頃,乾隆帝の治世末期の1785年に,福建省で下級の知識人の家に生まれた。子どもの頃から勉強に励み,熱心に学んだ。

少年時代には学業で優れた成績を修めるとともに,学者や官僚と交流するなかで社会情勢についても学んだ。そして,1811年,27歳のときには科挙の進士科に及第し,官吏の道に入った。


則徐は,初めに首都・北京の翰林院(中央政庁)につとめた後,30代後半から江南など各地で地方官を歴任する。ここで彼は行政の改革や民政の安定に取り組んで,財政・治安・土木などの事業で優れた成果を上げた。その仕事ぶりは有能かつ清廉で,政府からも民衆からも高い信用を得た。そして,1837年には湖北・湖南の両省を統括する湖広総督に任じられた。

当時の中国では,イギリス人の密輸するアヘンの流入が深刻な社会問題になっていたが,則徐は湖広総督としてアヘンの取締りに取り組み,また政府に対してアヘン厳禁策を提言した。その意見は皇帝の道光帝の採用するところとなり,1838年には皇帝からアヘン問題に対応するための欽差大臣に任命されて,貿易の拠点である広州へと派遣される。広州に到着した林則徐はすぐに対策に着手し,アヘンの吸引や販売を禁止するとともに,イギリスの船に積まれていたアヘンを没収して処分した。

ところが,1840年,アヘンの取締りに反発したイギリスは武力の行使を開始し,アヘン戦争が起こることになった。則徐は広州の沿岸の防備をかため,また海外の情報を収集するなど対策につとめたが,イギリスが広州を避けて北上すると,清朝政府は動揺して講和の方針へと傾き,彼は責任を負わされて解任された。


アヘンを処分させる林則徐

<アヘンを処分させる林則徐>


アヘン戦争

<アヘン戦争>


その後,則徐は,辺境の地である新疆(東トルキスタン)のイリ地方へと送られるなど処分を受けたが,以後も彼は任地で行政や民政の改善に尽力して優れた統治を行った。1849年,病のために引退して故郷の福建に帰ったが,まもなく広西省で上帝会の勢力による太平天国の乱が起こって広がると,政府から対応を要請され,病身をおして広西省へと向かったが,その途上で病死した。

林則徐は,近代に入って清朝が動揺するなかで,内政においてはその改革に取り組み,対外的には列強の進出への対応を試みることで,危機に対して信念をもって正面から立ち向かった。優れて開明的かつ高潔な人物であり,私欲を捨てて国と民のために尽くし続け,政府からは高く認められ,人々からは強く慕われた。アヘン問題への対応はイギリスの軍事力の前に挫折させられたが,内政を改革し外国に対応して国と人々を守ろうとする姿勢は,中国にも日本にも影響を与えることになった。