アメンホテプ4世(イクナートン) | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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アメンホテプ4世

<アメンホテプ4世>


アメンホテプ4世イクナートン)(前14世紀)は,古代エジプト新王国時代第18王朝の王である。


アメンホテプ4世は,前14世紀前半頃,古代エジプト王国新王国時代の第18王朝において,王(ファラオ)の子として誕生した。

前16世紀に第18王朝が始まって以降,王国は順調な発展を遂げ,北はシリア・パレスティナ,南はヌビアへと支配領域を拡大したが,そのような発展の結果として,王権が強まる一方で,首都テーベの神であったアモンアメン)神の権威が高まり,その神官たちの勢力も伸長した。このため,王権の強化を進める王にとってテーベの神官たちは厄介な存在になり,両者の間には軋轢が生じるようになってきた。

アメンホテプはこのような情勢のなかで王子として成長したが,そのなかで太陽神アトンアテン)の信仰を身につけ育んでいった。


前1364年頃,アメンホテプ4世は王として即位する。以後,彼は神官団との対立を背景に,絶対的王権の実現を目指して,アマルナ改革とも称される一連の大胆な改革を展開していった。

彼は,それまでのアモン神やその他のエジプトの伝統的な神々にかえて,太陽神アトンの信仰を打ち出した。しだいに政策は急進化し,アトンは唯一絶対の神とされてその信仰が強制され,アモンなど他の神々の信仰は禁止されるようになった。

また,アトン神の信仰の拠点となる新たな都をつくることを企図して,テーベとメンフィスの中間あたりに位置するアマルナテル・エル・アマルナ)に新都を建設してアケトアテン(アトンの地平線)と命名し,まもなくここに遷都した。この頃には,自己の名をアモンに由来するアメンホテプからアトンの名を含むイクナートンへと改名することも行っている。

そのほか,彼は文化の指導にも熱心で新たな方向性の文化を創出を試み,そのなかで美術においては従来の理想主義的な様式にかわって写実主義風のアマルナ美術が生まれた。


アメンホテプ4世とその家族

<アトンを信仰するアメンホテプ4世とその家族>


これらの改革は神官勢力を抑えることには一応の効果を上げ,また新たな信仰は他民族にも開かれた普遍的な宗教となる可能性を秘めていた。しかし,強引で現実を見ない政策は,神官のみならず,伝統的な神々に慣れ親しんできた民衆からの反発を受け,また対外的にはシリア・パレスティナに対する消極的姿勢のために現地の勢力が離反し,ヒッタイトが影響力を拡大していった。結局,内外の動揺を前に改革は後退を余儀なくさせられ,失意のなかで王は1347年頃に死去した。そして,死後まもなく,従来の信仰への復帰とアマルナからメンフィスへの再遷都が決定され,アトンの信仰は廃止されてアメンホテプは王名表からも抹消された。

こうして,エジプト史上未曾有の興味深く画期的な改革は無残な挫折に終わった。アメンホテプ4世は,きわめて稀有な,強烈な個性と思想をもつ王であった。彼とその改革は記録から消されたが,エジプト人の心に忘れがたい記憶を刻むことになった。