<グレゴリウス7世>
グレゴリウス7世(1020年頃~1085年)は,11世紀後半のローマ教皇である。
グレゴリウス7世は,元の名はヒルデブラントといい,1020年頃にイタリア中北部のトスカナ地方で,比較的貧しい市民の家に生まれた。子どもの頃からローマに出て修道院に入り,勉学に励んで頭角を現していった。
1045年に教皇グレゴリウス6世が即位するとその側近として取り立てられたが,まもなくそのグレゴリウス6世が廃位されたことで彼もローマを離れる。しかし,1049年にレオ9世が教皇になると彼は再び登用され,以後,約25年間,8代の教皇のもとで,教皇庁の要職について活躍し教会改革を推進した。そして,1073年には,ついに彼自身が教皇に選出されてグレゴリウス7世と名乗り,表舞台へと登場することになった。
教皇の地位についたグレゴリウス7世は,自身の理想の実現をかたく決意して,教会改革に大胆かつ積極的に取り組んでいく。
まず,教会の内部において,聖職者の妻帯禁止や聖職売買の禁止を徹底し,教会の綱紀粛正を進めた。さらに,1075年には布告を発表して,教皇の至上権を主張するとともに,世俗の人間による聖職者の叙任を明確に否定した。
この結果,帝国教会政策をとる神聖ローマ皇帝のハインリヒ4世との間で対立が起こって叙任権闘争が開始された。1076年,皇帝が教皇の廃位を決定すると,教皇は逆に皇帝の破門を宣告し,翌年には追いつめられた皇帝が教皇を訪ねて許しを乞うという「カノッサの屈辱」事件が起こって,教皇は勝ち誇りながら破門を解いた。こうして皇帝を見事に屈服させて,彼は教皇権の威光と優位をヨーロッパ中に見せつけた。
<カノッサの屈辱>
しかし,まもなくハインリヒの反撃が開始され,皇帝は教皇の廃位を再び宣言するとともにイタリアへと進攻し,グレゴリウスはローマで包囲された。1085年,教皇の救援要請を受けたロベール・ギスカール率いるノルマン人軍団がローマに突入してグレゴリウスは救出されたものの,その際にノルマン人たちがローマで破壊と略奪を繰り広げたことから彼らを招き入れたグレゴリウスに非難が集まり,彼はノルマン人たちとともに南イタリアのサレルノへと移り,そこでまもなく死去した。最期の言葉は,「私は,正義を愛し,不正を憎んだがゆえに,こうして流浪の身で死ぬ」というものであった。
こうして,グレゴリウスは,最後に皇帝による反撃を受けて敗北した。しかし,彼によって開始された叙任権闘争を通じて,教皇権は皇帝権による統制から解放されて伸長していった。グレゴリウスは,強い意志をもち,目的のためなら手段を問わずに政策や策略を実行する人物で,「聖なる悪魔」とも呼ばれた。彼が聖人であったのか,悪人であったのか,また彼の改革が正しかったのか間違っていたのか,それはわからないが,彼によって教皇と皇帝の関係,そして世俗と宗教の関係は確実に変化していくことになった。