「垓下の戦い」 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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項羽

<項羽>

劉邦

<劉邦>

垓下の戦いは,前202年,中国・安徽省に位置する垓下の地で,楚王・項羽と漢王・劉邦との間で行われた決戦である。

項羽と劉邦

中国では前221年に秦によって天下統一が果たされて強大な帝国が成立したが,始皇帝の死の翌年の前209年に陳勝・呉広の乱が勃発すると,これを契機として各地で秦の支配に対する反乱が起こった。そのなかで,楚の名門の項羽や江蘇省の農民出身の劉邦もそれぞれ旗揚げし,秦に対する戦いに加わった。

しだいに反乱軍は項羽を中心に組織化され,相互に連携しながら秦軍との戦いを遂行していった。そして前206年には,まず劉邦が先んじて秦の都の咸陽に入城し,一歩遅れて項羽がつづき,これによって秦は滅ぼされた。

楚漢戦争

この後は項羽の主導のもとで体制づくりが行われ,かつての楚の王族が名目的に皇帝として擁立されたうえで18人の王が各地に立てられたが,項羽は自身を西楚の覇王として覇権を掌握することをはかり,一方で劉邦は冷遇されて陝西省南部の僻地である漢の王とされた。しかし,まもなく劉邦は項羽に反旗を翻し,以後,楚の項羽と漢の劉邦との間で天下をめぐる戦いが展開されることになった。

この楚漢戦争は長きにわたって繰り広げられた末に,ついに前203年に両者の間で和議が結ばれ,項羽と劉邦が天下を二分することが定められた。これを受けて項羽は自身の本拠への帰還を開始したが,ここで劉邦は参謀の進言によって約束を反故にして項羽の軍を背後から襲い,再び戦端が開かれた。

垓下の戦い

そして前202年,現在の安徽省にあたる垓下の地において,両軍の間で決戦が行われた。楚軍は緒戦こそ優位に戦ったものの,漢の大軍の前に劣勢へと転じ,漢軍によって包囲され追い詰められた。

夜が来ると,項羽の陣営には四方を囲む敵陣から楚の歌が聞こえてきたが,これにより項羽は自身の地盤である楚までも劉邦の勢力下に入ったことを知って驚愕した。そして絶望のなかで酒宴を開くと,ひとつの詩を詠んで,そのなかで愛馬の騅,虞美人,そして自身の運命を嘆いた。

項羽は夜闇にまぎれて兵とともに囲みを突破して逃れることに成功したが,その後,漢の追手に対して見事な勇戦ぶりを見せた末に,自ら首をはねて自害して果てる。こうして,楚漢戦争は劉邦の勝利に帰し,漢王朝が開始されることになった。