「巫蠱の乱」 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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漢・武帝

<漢・武帝>

巫蠱の乱(ふこのらん)は,中国・漢の武帝の治世の晩年に,巫蠱(ふこ)と呼ばれる呪術の疑惑をめぐり,武帝や皇太子を巻き込んで首都で行われた争乱である。

背景

中国の漢の時代には,占いや呪いなどの神秘的なものが民間から宮廷まで広く信じられており,そのなかに巫蠱(ふこ)と呼ばれる呪術があった。これは,木製の人形を土の中に埋めて儀式を行うことによって,対象となる人間を呪い殺すという呪術である。

漢の武帝の時代には特にこの巫蠱が流行し,特定の人物に呪いをかけるためにしばしば行われた。巫蠱を行ったことが発覚すると罪とされて厳しく罰されたが,実際には政敵を失脚させるなどの目的で巫蠱の疑惑がかけられることも多く,不確かな疑惑で処分される例もあった。

このような時代背景のもとで,漢の武帝の治世の晩年に,巫蠱をめぐって武帝や皇太子などを巻き込む大事件が起こった。

江充と皇太子

武帝の時代の家臣の一人に,江充という者がいた。この江充は率直なもの言いで知られ,相手の地位や事情にかまうことなく不正を告発することから武帝の信任を受け,監察の任務を任されて宮廷や役人たちに対する弾劾を行っていた。こうして武帝の時代,江充は政界で力を振るい,役人から皇族にまで広く恐れられるようになった。

しかし,武帝が高齢になり病に臥せるようになってくると,武帝に依存してきた江充は今後の自身の立場について不安を抱くようになった。最大の問題は,武帝の長男にして皇太子である劉拠との関係が悪いことである。かつて江充が皇太子の軽微な規則違反をことさらに取り上げて告発したこともあって,彼は皇太子から嫌われていた。このまま皇太子が武帝の後を継いで即位すれば,自分の身が危険になる。そう思った江充は,皇太子を廃することを目論むようになった。

巫蠱の乱

ここで江充は,巫蠱を利用して皇太子を陥れるための策略を思いついた。前91年,彼は武帝への上奏を行い,武帝の病が重くなっているのは皇太子が秘かに巫蠱による呪詛を行っているためであると訴えた。武帝はそれを聞いて驚きながら調査を命じたところ,はたして皇太子の宮殿から人形などの巫蠱を裏付ける証拠が発見された。江充が仕組んでおいたのである。

その情報を知った皇太子は江充の陰謀によって自身が追い詰められたことを悟り,もはや戦うよりほかはないと覚悟して先手を打って挙兵し,江充を襲ってこれを斬った。しかし,この皇太子の行動を反乱と見なした武帝はすぐさま鎮圧を命じて軍を出動させ,この結果,首都長安において,皇帝側と皇太子側に分かれて戦闘が行われるという異常事態になった。結局,5日間にわたる戦闘の末に皇太子の軍が敗れ,皇太子自身は逃れたもののまもなく発見されて死に,彼の母・后・子たちもみな死刑に処せられた。

こうして,漢王朝を揺るがした一大争乱は終わった。しかし,この後まもなくして,皇太子の巫蠱の疑惑は江充の陰謀による冤罪であることが明らかになった。武帝は直ちに江充の遺族らを誅殺した。しかし皇太子はもはや戻らず,老身の武帝は無実の長男を誤解によって死に追いやったことを悔やみ続けることになった。