<太平天国の首都・天京(現在の南京)>
「天京事変」(「天京事件」)は,中国における太平天国の乱の最中の1856年,太平天国の首都・天京(南京)において,太平天国の指導者の間で争いが起こった事件である。
太平天国の成立
広東省出身の洪秀全によって結成された拝上帝会は,1851年に広西省で蜂起を開始して太平天国の樹立を宣言した。
太平天国の勢力は,清政府の軍と戦いを繰り広げるとともに体制の整備を進め,天王・洪秀全を中心に,東王・楊秀清,西王・蕭朝貴,南王・馮雲山,北王・韋昌輝,翼王・石達開の各王を置く体制を築いた。
太平天国軍は北上して勢力を拡大していき,その途上で西王・蕭朝貴と南王・馮雲山が戦死する損失もあったが,1853年には江南の中心都市である南京を陥落させ,これを天京と改称として都とした。
太平天国内部における対立
こうして太平天国は天京を首都として理想の国家の建設を推進していったが,その内部においては権力をめぐる対立が表面化するようになった。
太平天国の諸王のうち,東王・楊秀清は,天父(上帝/神)の言葉を受け取って伝える「天父下凡」という特別な能力を行使し,また軍事や行政にも非凡な才能を発揮したために,とりわけ大きな指導力をもつにいたったが,しだいにその専横は激しくなった。
このため,他の王である北王・韋昌輝と翼王・石達開,そして天王・洪秀全は,楊秀清に対して反感を抱くようになっていた。
「天京事変」
このような状況を背景に,1856年,太平天国の首都・天京を舞台に,諸王の間で衝突が起こった。
1856年9月,北王・韋昌輝は,東王・楊秀清の王府に対する襲撃を行い,楊秀清を殺害するとともにその配下を皆殺しにした。さらに,つづいて,今度は北王・韋昌輝と翼王・石達開の間で対立が起こり,両者による戦闘が行われ,石達開が勝利して韋昌輝を処刑した。太平天国内部において天京を舞台に繰り広げられたこれらの事件は,「天京事変」(「天京事件」)と呼ばれる。
この「天京事変」の結果,太平天国の初期からの指導者の二人が失われて体制は崩れ,また人心は揺らいだ。こうして,建国から5年がたった太平天国は,大きく動揺することになった。