「ワーテル・ヘーゼン」(「ヴァッサー・ゴイセン」) | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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ワーテル・ヘーゼン(ヴァッサー・ゴイセン)

<スペイン艦隊と戦うワーテル・ヘーゼン>

ワーテル・ヘーゼン」(「ヴァッサー・ゴイセン」)は,16世紀後半からスペインとオランダの間で展開されたオランダ独立戦争において,海上を拠点としてスペインとの戦闘を展開したオランダの勢力である。

ハプスブルク家のネーデルラント支配

現在のオランダ・ベルギー・ルクセンブルクの地にあたるネーデルラント地方は,15世紀後半からハプスブルク家の支配下に入った。

ネーデルラントは,16世紀前半にスペイン王および神聖ローマ皇帝の地位にあったカルロス1世カール5世)によって統治された後,16世紀後半にはスペイン王となったフェリペ2世へと継承される。

このスペイン王フェリペ2世は,中央集権化や信仰の統一を目指し,ネーデルラントに対して課税の強化やカトリックの強制などの厳しい統治を行った。

「ヘーゼン」の形成

このようなフェリペ2世の強圧的な政治に対して,ネーデルラントでは貴族たちを中心にスペイン王に反発する勢力が形成されていった。

1566年,スペインの統治に反発する貴族たちは,連帯してカトリックの強制の中止などを求める請願を行った。この際,国王側の側近は彼らのことを,「乞食」を意味する「ヘーゼン」(ドイツ語では「ゴイセン」)と侮蔑的に呼んだが,これが由来となって,スペイン王に反抗する勢力は「ヘーゼン」(「ゴイセン」)と呼ばれることになった。そのなかにはカルヴァン派のプロテスタントが多かったことから,後にはカルヴァン派のことを指すようにもなっていく。

スペイン側はこの請願を受けて一時的に譲歩を示したものの,まもなくしてネーデルラント各地でスペインへの反発を背景とする暴動が起こったのを契機に姿勢を転換し,反スペイン派貴族の財産没収や処刑を行うなど激しい弾圧を開始した。

オランダ独立戦争と「ワーテル・ヘーゼン」

1568年,反スペイン派貴族を中心とするゴイセンたちは,有力貴族オラニエ公ウィレムを指導者としてスペイン王に対する戦闘を開始し,これによってオランダ独立戦争八十年戦争)が開始された。

ウィレムたちは,不利な陸上での戦いを避けて海を拠点とし,海上で略奪などのゲリラ的活動を展開してスペインに立ち向かった。このため,彼らは,海(水)のヘーゼンということで「ワーテル・ヘーゼン」(「ヴァッサー・ゴイセン」)と呼ばれるようになる。

ワーテル・ヘーゼンは,沿岸部の都市を獲得しながらしだいに勢力を拡大し,ネーデルラントの北部の諸州を勢力下に入れていった。そして,さらに長期にわたる戦いを遂行して,ネーデルラント連邦共和国(オランダ)の独立を実現することになった。