パラグアイ戦争(三国同盟戦争)[パラグアイ・ウルグアイ・アルゼンチン・ブラジル] | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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パラグアイ戦争

<パラグアイ戦争>

パラグアイ戦争三国同盟戦争)は,19世紀後半の南米で,パラグアイとアルゼンチン・ブラジル・ウルグアイ3国との間で行われた戦争である。

南アメリカ南部の国際関係

南米諸国は19世紀前半にスペインやポルトガルからの独立を達成したが,独立の直後から近隣諸国間の紛争がしばしば起こるようになった。

独立運動の結果,南米大陸の南部ではアルゼンチンウルグアイパラグアイが,東部ではブラジルが成立した。このうち,アルゼンチンとブラジルは大国で,間にはさまれた小国のウルグアイとパラグアイは常にその影響力と脅威にさらされることになった。

ウルグアイは,そもそもアルゼンチンとブラジルの領有争いの結果として独立することになった国であり,独立後も両国の強い干渉を受け続けた。一方のパラグアイは,アルゼンチンとブラジルからの干渉を避けるようにつとめたものの,絶えず両国の圧迫を受け,それを背景に軍事力の強化を進めていった。

ウルグアイ内戦

ウルグアイの国内では,19世紀前半から保守派のブランコ党と自由主義派のコロラド党という二つの勢力が対立していたが,19世紀後半に入ると両勢力の間で内戦が展開されることになった。

1863年,ウルグアイ国内では,ブランコ党が政権を掌握していたが,これに対してコロラド党の勢力が攻撃を仕掛け,内戦が開始された。このウルグアイ内戦に対して周辺諸国は介入に動き,ブラジルとアルゼンチンはコロラド党の勢力を支援し,一方,パラグアイは要請を受けてブランコ党の政権の側についた。

パラグアイ戦争の開始

1864年,ブラジルがウルグアイへの侵攻を開始すると,対抗するパラグアイは強硬姿勢をとってブラジルに対して開戦した。さらにパラグアイは,ウルグアイに向かう際に領内通過を拒否されたことから,アルゼンチンに対しても宣戦した。こうして,ウルグアイの問題を契機に,まずパラグアイとブラジル・アルゼンチンの間で戦端が開かれた。

ところで,焦点となったウルグアイの内戦は,ブラジルとアルゼンチンの支援するコロラド党が勝利して政権を獲得する結果に終わった。こうしてウルグアイでコロラド党が政権を握った結果,ウルグアイの政府は親ブラジル・反パラグアイの立場に転じ,1865年,ウルグアイはブラジル・アルゼンチンとの間で三国同盟を結んでパラグアイに対して宣戦した。

以上の経緯により,結局,パラグアイは,ブラジル・アルゼンチン・ウルグアイという周囲の3国に対して単独で戦うことになったのである。この戦争を,パラグアイ戦争,または三国同盟戦争と呼ぶ。

パラグアイ戦争の結果

パラグアイ軍は,勇敢かつ精強で,10倍以上の人口や経済力を持つ敵を相手にしながら,緒戦で勝利をおさめるなど,奮闘を見せた。しかし,圧倒的な戦力差を背景にしだいに劣勢に転じていき,1869年には首都アスンシオンが陥落した。それでもなお,パラグアイ側は多大な犠牲を出しながら決死の抗戦を続け,1870年に指導者が死亡してようやく戦いが終わった。

この無謀かつ悲惨な戦争の結果,パラグアイは,なんと国民の6割もの死者を出して人口は半分以下へと激減し,4分の1ほどの領土を奪われ,残された国土も荒廃した。こうして,パラグアイ戦争の結果,パラグアイは甚大な打撃を受け,国の社会と経済に深刻な影響を残すことになった。