「イピランガの叫び」[ブラジル] | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

東大・一橋・外語大・早慶など難関校を中心とする大学受験の世界史の対策・学習を支援するためのサイトです。

イピランガの叫び

<イピランガの叫び>

イピランガの叫び」は,1822年,ポルトガルの植民地だったブラジルにおいて,ドン・ペドロ(ペドロ1世)が発した独立の宣言を指す言葉である。

ポルトガルによるブラジルの植民地支配

16世紀初め頃からポルトガルの植民地となったブラジルでは,16世紀半ばからは砂糖の生産で,17世紀末からは金の発見などによって経済的に成長し,人口も増加していった。

しかし,外国との自由貿易が制限されるなど,本国によって従属的な地位に置かれる状況は変わることなく継続した。このため,18世紀頃からは,現地生まれの白人であるクリオーリョの階層を中心に,本国の支配に対する反感が高まっていった。

ナポレオン戦争とブラジルの地位の変化

そのようななか,19世紀初めにヨーロッパではナポレオン戦争が勃発し,ポルトガルはイギリスと同盟していたことから,1807年にフランス軍による侵入を受けた。このとき,ポルトガル王室は,南米大陸にわたってブラジルへと避難した。

これ以後しばらくの間,ポルトガル王室はブラジルに滞在し,リオ・デ・ジャネイロに首都が置かれることになった。この間に,ブラジルが外国との間で自由貿易を行うことが認められ,本国と対等の地位を持つことも認められた。

ポルトガルの解放とブラジルの再植民地化の動き

本国ポルトガルは,イギリスの支援を得て1811年にフランス軍を撤退させて独立を回復したが,以後,イギリスの強い影響下に置かれることになった。このようなイギリスの支配へ反発から,1820年にはポルトガルで革命が起こり,まもなく新たな議会が樹立された。

ポルトガル王室はナポレオン戦争終結後もブラジルに留まっていたが,本国で革命により成立した新議会からの要請を受けて,国王ジョアン6世は,王子のドン・ペドロをブラジルに残し,本国へと帰還した。

こうして国王を迎えたポルトガル本国政府は,本国の利益を優先して,もとのように本国を中心とし,ブラジルを従属的な地位に置く体制へと戻すための政策を進めていった。

ブラジルのポルトガルからの独立

このような本国の姿勢に対して,クリオーリョを中心とするブラジル現地の人々は激しく反発し,独立を主張する世論が高まっていった。

現地のクリオーリョたちは,ブラジルに残ったポルトガル王子ドン・ペドロに希望を託し,彼にブラジルに留まることを懇願した。これを受けて,ドン・ペドロは決意を固め,本国からの帰還命令を拒絶し,1822年9月7日には,サン・パウロ郊外のイピランガ川のほとりにおいて人々を前に「独立か死か」と叫んで,ポルトガルからの独立を訴えた。

この後,ドン・ペドロはブラジル皇帝ペドロ1世として即位し,ブラジル帝国を正式に成立させた。こうして,ドン・ペドロの「イピランガの叫び」を機に,ブラジルはポルトガルからの独立を達成することになった。