東大世界史2014年第1問 過去問題・解答・解説 | 大学受験の世界史のフォーラム ― 東大・一橋・外語大・早慶など大学入試の世界史のために ―

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東大東京大学)2014年第1問の過去問題と,東大世界史講師(管理人)が作成した解答解説です。

問題

19世紀のロシアは,不凍港の獲得などを目指して,隣接するさまざまな地域に勢力を拡大しようと試みた。こうした動きは,イギリスなど他の列強との間に摩擦を引きおこすこともあった。

以上のことを踏まえて,ウィーン会議から19世紀末までの時期,ロシアの対外政策がユーラシア各地の国際情勢にもたらした変化について,西欧列強の対応にも注意しながら,20行以内で論じなさい。

アフガニスタン   イリ地方

沿海州   クリミア戦争

トルコマンチャーイ条約   ベルリン会議

ポーランド   旅順











解答

「19世紀前半にはロシアは西欧列強と協調してウィーン体制の維持につとめる一方で中東方面での南下政策を展開したが,自由主義・ナショナリズムの高揚や列強間の対立のために体制は動揺していく。

フランス七月革命二月革命の影響を受けてポーランドやドイツで革命が起こるとオーストリアと連携して鎮圧を行ったもののウィーン体制は崩壊に向かった。カフカス方面ではカージャール朝とトルコマンチャーイ条約を結んで進出を進めるとイギリスも同様の条約を締結し,バルカン方面ではエジプト・トルコ戦争などに乗じて南下をはかるもイギリスの外交で阻止されるなど,南下をめぐりイギリスとの対立を深めた。

19世紀後半には英仏とのクリミア戦争を契機に列強との協調の崩壊も決定的になり,以後は東方も含むユーラシア各地でイギリスとの対立を繰り広げた。

バルカンでは露土戦争で勢力拡大を狙うもイギリスなどの反発を受けビスマルクの仲介によるベルリン会議で抑制された。西トルキスタンでは3ハン国を支配下に入れ,東トルキスタンではイリ地方を占領した後イリ条約で国境を有利に定めたが,対するイギリスはインド防衛のためアフガニスタンを保護国化した。極東では清とのアイグン条約北京条約沿海州などを獲得してウラジヴォストークを建設し,19世紀末には旅順大連を租借するなど中国東北部を勢力圏として進出を進めたが,これは日本とイギリスの警戒を招いて日英の接近を促した。」

解説

総論

答案の構成

問題の指定する範囲を確認すると,「ウィーン会議から19世紀末」と時間的には短めに設定されている一方で,「ユーラシア各地」というように空間的には広く幅がとられているこのような,いわば横長の範囲指定の場合は,地域別に整理するアプローチがとりやすいし,本問でも確かに有効である。しかし,本問では「国際情勢の変化」が問いの核心となっており,国際情勢の変化は地域というよりも時間によって起こるものなので,時系列の意識も必ず持たないといけない。時系列による整理と地域別の整理の両方を組み合わせることで,立体的な答案が構成できるようになる。

時系列による区分は,「19世紀前半」と「19世紀後半」の2つにすることが,妥当かつ現実的だろう。本当のことを言うならば,19世紀の国際関係全般を扱う場合は,19世紀末にドイツを中心とした国際関係の変動が起こる関係で,「19世紀前半」・「19世紀後半」・「19世紀末」に3区分したほうが精密な議論ができる。しかし,本問のようにロシアを基準として国際情勢をとらえる場合は,19世紀末に区切りを追加してもそれほど大きな効果は得られないし,答案が複雑になってしまう。受験生が入試の現場で書ける答案として,19世紀前半・後半のシンプルな2区分をおすすめしたい。

19世紀前半

総論

1814年から1815年にかけて開催されたウィーン会議の結果,ヨーロッパでは正統主義勢力均衡を基本原則として列強の協調により体制と秩序の維持をはかるウィーン体制が成立したが,ロシアはこの体制において中心的な役割を担う国家の一つとなった。

ロシアは,神聖同盟を提唱し,四国同盟の構成国にもなり,自由主義やナショナリズムの運動の抑圧を行うなど,オーストリアなどの列強と協調しながら体制の維持につとめた。しかし,自由主義・ナショナリズムの運動の高まりによって体制は動揺し,19世紀半ばには崩壊することになった

また一方で,ロシアはバルカン半島やカフカス地方など,中東方面を中心に南下政策を展開したこれはイギリスなどの西欧列強との対立をもたらすことになり,列強との協調関係も崩れていくことになった。

ヨーロッパ

ロシアは18世紀後半にプロイセン・オーストリアとともに行ったポーランド分割によりすでに旧ポーランド領の東部を領有していたが,さらにウィーン会議の結果,ナポレオンが樹立したワルシャワ大公国の大部分をポーランド立憲王国として再編して皇帝がその王位を兼ね,この王国を事実上の支配下に置いた。19世紀前半,ロシアが支配下に置いたポーランドや,そのほかドイツやイタリアなどでは,独立や統一を求めて自由主義・ナショナリズムの運動が高揚した。ウィーン体制の維持をはかるロシアは,オーストリアなどともにこのような運動の抑圧をはかったが,体制はしだいに動揺し,そして崩壊していった

1830年にフランス七月革命が起こると,その影響を受けてポーランドやドイツ・イタリアでも革命の動きが起こった。ロシアは,ポーランド立憲王国の蜂起軍を鎮圧するなど,オーストリアなどともにこのような運動を鎮圧したが,ウィーン体制は動揺した

さらに,1848年にフランス二月革命が起こると,その影響を受けて,ドイツ各地での三月革命やハンガリーの蜂起などの諸革命が起こった。ここでも,ロシアはハンガリーの革命を鎮圧するなどオーストリアと連携して運動の抑圧をはかったが,一連の革命によってウィーン体制の崩壊は決定的になった

カフカス地方

ロシアは19世紀初めからグルジアやアルメニアを併合するなどカフカス方面への南下を進めており,カージャール朝イランにも勝利して進出を進めた。一方,イギリスもインド植民地の安全をはかる意図もあってロシアと対抗しながら進出を進めた

ロシアは,すでに19世紀初めにイランとの戦争で勝利していたが,さらに1820年代後半の戦争でもイランに勝利した。この結果,ロシアは1828年にカージャール朝との間にトルコマンチャーイ条約を結び,アルメニアの大部分などの領土を獲得したほか,治外法権の承認や関税自主権の喪失を認めさせ,イランへの影響力を拡大していった

これに対して,イギリスも同様の不平等条約を締結して特権を獲得し,イラン進出を進めた

バルカン半島

19世紀,ロシアはオスマン帝国の民族・宗教の問題を利用しながら黒海方面への南下をはかったイギリスやオーストリアはそのようなロシアの動きに反発し,特にイギリスはロシアの南下を抑えるための外交を展開した

1821年にギリシア独立戦争が起こると,ロシアは当初は正統主義の立場もあって消極的な姿勢を見せたが,エジプト軍がオスマン帝国側について参戦したことを受けて,1827年,英仏とともにギリシア側について介入した。1828年にはロシアはオスマン帝国に対して正式に宣戦し,翌年,アドリアノープル条約を結んで黒海沿岸の領土割譲やギリシアの自立などを認めさせた。これに対してイギリスは,ロシアの影響力拡大を懸念して,改めて1830年にロンドン会議を開催し,自らの主導でギリシアの完全独立を承認した

1830年代には,第1次エジプト・トルコ戦争でオスマン帝国が危機に陥ると,ロシアはオスマン帝国とウンキャル=スケレッシ条約を締結して相互援助を約束し,この際にボスフォラス・ダーダネルス両海峡に関する特権を獲得した。しかし,第2次エジプト・トルコ戦争後,イギリスがロンドン会議を開催して戦後処理を主導し,ロンドン四国条約や五国海峡協定が締結された結果,両海峡に関するロシアの特権は否定された

19世紀後半

総論

1848年の諸革命によって自由主義とナショナリズムの抑圧をはかるウィーン体制は崩壊していたが,さらに,1853年からのクリミア戦争を契機として列強の協調体制の崩壊も決定的になった

クリミア戦争に敗れたロシアは,中東だけではなく,中央アジアなど,より東方での南下にも力を入れるようになったが,これに対してイギリスは東方においてもロシアの南下の阻止をはかった。こうして,19世紀後半,ユーラシア各地において,南下をはかるロシアとその阻止を狙うイギリスとの間で対立が展開されることになった

バルカン半島

19世紀後半も,ロシアは,オスマン帝国の民族問題・宗教問題を利用してバルカン方面における影響力を拡大することを狙った。しかし,これは同じようにオスマン帝国領内のキリスト教徒の保護権を主張するフランスとの衝突を生み,またイギリスやオーストリアもロシアの勢力拡大に反発して対抗することになった

1853年,露仏間の聖地管理権をめぐる対立を背景として,ロシアがギリシア正教徒の保護権を主張してオスマン帝国領に攻め込んだことからクリミア戦争が起こり,ロシアはトルコに対して優勢に戦いを進めた。これに対して,英仏はオスマン帝国側について参戦してロシアを破り,パリ条約によって黒海の中立化などを定め,ロシアの南下政策を阻止した

1870年代後半には,ボスニア・ヘルツェゴヴィナでの蜂起を契機としたオスマン帝国領内の反乱に乗じて,ロシアがオスマン帝国に宣戦して露土戦争が起こりロシアはこれに勝利してサン=ステファノ条約によってセルビア・モンテネグロ・ルーマニアの独立やブルガリアの自治国化を認めさせるなど,バルカン方面での勢力を拡大した。しかし,イギリスやオーストリアがロシアに有利な取り決めに反発し,ドイツのビスマルクの仲介で開催されたベルリン会議の結果,サン=ステファノ条約の内容は修正され,ロシアの勢力拡大は抑制されることになった

トルキスタン・アフガニスタン

ロシアはクリミア戦争で敗北した後,中央アジアなど,より東方への進出に力を入れるようになったが,そこでもイギリスが南下政策に対抗した

西トルキスタン(中央アジア西部)では,ロシアはタシケントを征服してトルキスタン総督府を設置した後,1868年にブハラ=ハン国を,1873年にはヒヴァ=ハン国を保護国化し,さらに1876年にはコーカンド=ハン国を併合し,こうして1860年代から70年代にかけてウズベク族の3ハン国を支配下に入れていった

東トルキスタン(中央アジア東部)は,18世紀半ば以来「新疆」として清朝の支配下にあったが,1860年代からのムスリムの反乱に乗じて,ロシアは1871年にイリ地方を占領するイリ事件を起こした。清朝が反乱を鎮圧した後,1881年にロシアは清とイリ条約を締結し,イリ地方は返還したが,国境を有利に定め,貿易の利権も獲得した

一方,イギリスはロシアの南下政策に対抗し,またインドを防衛する意図もあって,アフガニスタンを確保することをはかった。1838年の第1次アフガン戦争には失敗していたが,1878年からの第2次アフガン戦争では軍事的には苦しんだもののアフガニスタンを保護国化することには成功した

極東

極東では,19世紀半ば以降,イギリスやフランスなどの西欧列強が海路によって中国へと進出していたが,領土の接するロシアは陸路で中国東北方面への南下を進め,不凍港の獲得もはかったイギリスは極東においてもロシアに対抗し,そして後にはロシアを共通の敵として利害の一致した日本と接近していくことになる

19世紀半ば以降,ロシアは総督ムラヴィヨフのもとで極東での領土拡張の動きを積極化し,1858年にはアロー戦争に乗じて清朝とアイグン条約を結び国境を修正して領土を広げ,また1860年の北京条約沿海州を獲得するとこの地に港市ウラジヴォストークを建設し,これを極東経営の拠点とした

19世紀末には他の列強と競争しながら中国分割を進め,旅順大連を租借し東清鉄道の敷設権を獲得するなど中国東北部を勢力圏としてこの地域への進出を進めたこのようなロシアの進出はイギリスの警戒を招いたほか,朝鮮や満洲への進出を進める日本との対立を激化させたが,こうした状況が日英の接近を促し,20世紀初めに成立する日英同盟の背景となった。