老夫婦の日常を追ったドキュメンタリーだ。
1960年代に買った300坪の土地に家を建て、庭を雑木林と畑にして暮らす90歳と86歳の夫婦。
庭でさまざまな野菜や果物が採れる。
毎日、毎日続く庭仕事。
そんな生活の各所に散りばめらた言葉が沁みる。
少しずつ少しずつ時間をかけて続けていくと、いろんなものが見えてくる。
有名建築家の言葉もある。
長く生きれば生きるほど、人生は美しくなる。
フランク・ライド・ライト
高度経済成長期、日本のあちこちに作られた集合住宅。敗戦後の日本で、住宅再建の力になりたいと建築家となった修一(夫)は、愛知県の高蔵寺ニュータウンの計画に参加する。修一の描いた計画は、自然と街が一体になった当時まったく新しいものだった。しかし、限られた土地にできるだけたくさんの人が住めることを優先する世の中の流れは、当初の計画を進めることを許さなかった。当時の同僚が、できたものを見ると残念ですという言葉が印象に残る。
修一は、反抗を示すように、高蔵寺ニュータウンに300坪の土地を買う。庭を雑木林にしたかったと語る。
それから40年。
野菜づくりは、土作りから。枯葉を集めて堆肥を作る姿や、収穫する姿が淡々と描かれる。
肉や魚は、栄まで買い出しに行く。昔から通い続けている八百屋や魚屋だ。
夫にいいものを食べさせれば、まわりまわって自分の生活が良くなる、そう思って、夫ために食事を作ってきたそうだ。なんだか古い考えのようだけど、ずっと続けてきて、ぶれたことがないように思える。
なぜ、続けられるのか。
続けられるということは、好きなことなんだろうと語るシーンがあった。様々な選択としてきたけれど、本当に嫌なことなら続かないだろうと。
こういう生活をしたいとは思わないけど、この夫婦のように日々の生活に満足して暮らしたいとは思った。
夫がなくなった後、畑や木々はどうなるのか?
雑木林の管理方法や作物の作り方ではなく、雑木林がなぜ必要なのか、畑を耕す意義とは何か、思いを受け継ぐ人がいなければ、あっという間に廃れてしまうだろう。
それは、どんな仕事でも同じかもしれない。人を育てるのは単に技術の継承だけでは足りないんだ。残された老婦人が、ひとり、畑に枯葉を撒いたり、収穫物の下ごしらえをする姿を観て思った。