の続きです
# 神殺し ―覚醒の序章―
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## 第八章 ―孤狼、出陣す―
### 一 ―一週間の残像―
訓練場の床に、汗が落ちた。
一滴ではなかった。
滴り落ちる、という表現が正確だった。
ミレーヌの前髪の先から、顎の先から、
絶え間なく汗が床の木材に吸い込まれていった。
それでも動きは止まらなかった。
打ち込み台に向かって、掌底。
肘打ち。
膝蹴り。
足払いの動作。
また掌底。
また肘打ち。
繰り返す。
繰り返す。
繰り返す。
一つの動きを百回やれば次に進む。
次の動きを百回やれば、また最初に戻る。
終わりのない循環の中で、
ミレーヌは自分の体に叩き込み続けていた。
あの夜から、一週間が経っていた。
ミレーヌの脳裏には、まだあの光景が焼きついていた。
ホイッスルと同時に瞬きをして、
目を開けたらフレデリックが目の前にいた。
あの瞬間の感覚。
体が先に動いて距離を取った、あの感覚。
それを何度も何度も、頭の中で再生した。
分析した。
あの時フレデリックがどこから来たのかを、
軌跡を逆算しようとした。
しかし逆算できる材料が何もなかった。
打ち込み台に踏み込んだ。
裂帛の気合いと共に、肘が台に叩き込まれた。
鈍い衝撃音が訓練場に響いた。
台がわずかに傾いた。
金属の補強が入った打ち込み台が、だ。
ミレーヌはそれを見もせずに次の動作へ移った。
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訓練場には、何人かの警察官がいた。
本来は自分の訓練をしに来た者たちだった。
しかし今は誰も自分の訓練をしていなかった。
壁際に張り付いて、ミレーヌを見ていた。
近づけなかった、というのが正確だった。
ミレーヌの周囲に、何か目に見えないものがあった。
圧、と呼ぶべきものだった。
ただ訓練しているだけなのに、
その空間に近づくことを体が拒んでいた。
獣の縄張りに踏み込もうとした時に感じる、
あの原始的な警告に近かった。
若い警官のひとりが、隣の先輩に小声で囁いた。
「……ミレーヌさん、今日も来てる」
「今週ずっとだ」先輩は囁き返した。
「朝一番に来て、最後まで残ってる」
「何があったんですか、一週間前」
「知らないのか」先輩は少し声を落とした。
「あの夜、署の地下で手合わせがあった。
ミレーヌさんが負けた」
若い警官は目を丸くした。
「ミレーヌさんが?誰に?」
「あの若者だ。一週間前に連行されてきた、例の」
若い警官はまた目を丸くした。
返す言葉が見つからないようだった。
二人はしばらく黙ってミレーヌを見ていた。
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打ち込み台を離れ、
ミレーヌは今度は移動しながらの連続動作に入った。
走りながら低く潜り込み、仮想の相手の懐に飛び込む。
重心を捉えて崩す動き。
関節を取る動き。
そこから立ち上がって即座に次の相手に向かう動き。
全て、フレデリックとの手合わせで
通用しなかった技の連鎖だった。
なぜ通用しなかったのか。
速度が足りなかったのか。
角度が悪かったのか。
重心の移し方に無駄があったのか。
全部だ、とミレーヌは思った。
全部足りなかった。
しかし全部を足しても、まだ届かない気がした。
技術の問題ではなく、
もっと根本的なところで何かが違う気がした。
それが何かを掴もうとして、
一週間経っても掴めなかった。
ミレーヌは動きを止めず、
その苛立ちを全て動作に変換した。
打ち込む。踏み込む。崩す。繰り返す。
汗が床に落ちる音が、
静まり返った訓練場に規則的に響いた。
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壁際の先輩警官が、また小声で言った。
「……綺麗だな」
「え?」若い警官が聞き返した。
「怖いけど、綺麗だ」先輩は静かに言った。
「ああいう動きができる人間を、俺は他に知らない」
若い警官も、改めてミレーヌを見た。
確かに、と思った。
鬼気迫る、という言葉がこれほど似合う人間を、
自分は見たことがないと思った。
額から汗が流れ、呼吸は荒く、全身に疲労の色がある。
それでも動きに乱れがなかった。
いや、動くほどに
動きが研ぎ澄まされていくように見えた。
消耗するほどに余分なものが削れていき、
核心だけが残っていくような。
美しい、と思った。
しかし美しいとだけ言うのも正確ではなかった。
恐ろしいものを見ている感覚が確かにあって、
それと同時に目が離せなかった。
炎を見ているのに近い、と若い警官は思った。
近づけば燃える。しかし目を逸らせない。
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ミレーヌは動きを止めた。
止めた、
というより、ある瞬間に自然に動きが終わった。
一定のところまで来て、体がそれを判断した。
深く息を吸い込んだ。
胸いっぱいに空気を満たして、ゆっくりと吐き出した。
体は疲弊していた。
筋肉が重く、指先が痺れていた。
しかし頭は冷えていた。
まだ届かない。
一週間訓練して、その答えは変わらなかった。
近づいた実感もなかった。
しかしそれでも、ミレーヌは止まるつもりがなかった。
届かなくても、近づき続けることを諦めない。
それがミレーヌというに人間の、
変えようのない性分だった。
タオルを手に取り、顔の汗を拭いた。
そのとき、訓練場の扉が勢いよく開いた。
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### 二 ―グリフォン出没―
「ミレーヌさん!」
飛び込んできたのは、若い警官だった。
息を切らせ、顔が上気していた。
普段の署内では見ない、
緊張と興奮が混じり合ったような表情をしていた。
「どうした」
ミレーヌはタオルを首にかけながら言った。
「郊外です。ルノ村という村に魔獣が出ました」
警官は報告した。
「情報によるとグリフォンです。
村人からの通報を受けて、
近くにいた冒険者のパーティーが
討伐に向かったそうですが」
「倒せなかったか」
「全員撤退。二名が重傷です」
ミレーヌは一瞬だけ目を閉じた。
グリフォン。
鷲の頭と翼、ライオンの胴体を持つ大型の魔獣。
飛行能力と地上での突進力を兼ね備え、
爪と嘴による攻撃力は並みの魔獣を大きく上回る。
熟練の冒険者でも複数人で当たる相手だ。
それを討伐に出たパーティーが退けられた。
「規模は」
「単体です。
ただ成体の大型個体の可能性があります」
「村への被害は」
「今のところ建物への被害のみで、死者はいません。
ただ村人が避難しきれていない可能性があります」
「軍への連絡は」
「はい。念のため魔法師団との共同作戦になりました」
警官は続けた。
「ミレーヌさんには現場指揮官を
お願いしたいとのことです。
警察側は五十名を動員します」
ミレーヌは頷いた。
タオルを壁に掛け、上着を手に取った。
「魔法師団は」
「師団長が直接来られるそうです」
ミレーヌの手が、一瞬だけ止まった。
それから上着を着ながら、ひとつ息を吐いた。
「……そうか」
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### 三 ―師団長の記憶―
着替えをしながら、
ミレーヌは師団長のことを考えた。
何度か会ったことがある。
最初に会ったのは、近衛部隊に入って間もない頃だった。
場所は王宮の回廊だった。
ミレーヌは任務の帰りに廊下を歩いていた。
向こうから来る人影を認識した瞬間、
体が勝手に警戒態勢に入った。
訓練された反射だった。
しかしその直後、ミレーヌは困惑した。
近づいてきたのは、どう見ても幼い少女だった。
十歳かそこら、と見えた。
栗色の髪を肩より少し下で揃えており、
大きな翡翠色の瞳が印象的だった。
服装は魔法師団の制服だったが、
体に対して少し大きく、
着られているような印象があった。
ミレーヌは警戒を解いた。
王宮の中だから関係者の子供だろうと判断した。
その瞬間、体の警戒が再び跳ね上がった。
幼く見える少女が、
ミレーヌを見て目を輝かせていたからだ。
そしてその瞳から発せられる気配が、
幼い子供のものではなかった。
「あなたが孤狼ミレーヌさんですね!」
少女は駆け寄ってきて、ミレーヌの両手を掴んだ。
「ずっとお会いしたかった!噂は聞いていました!
一度手合わせしていただけますか!是非!ぜひぜひ!」
ミレーヌは言葉に詰まった。
この国の魔法師団の師団長は、
戦略級の魔法を単独で行使できる数少ない使い手であり、
その魔法は国家管理の対象になっていると聞いていた。
師団長の魔法は本人の同意なく使用を制限されており、
おいそれと手合わせを申し込める
相手ではないとも聞いていた。
それがなぜ今、自分の両手を掴んで
上目遣いで懇願しているのか。
ミレーヌは恐怖を感じた。
強者への恐怖ではなかった。
未知のものへの、動物的な警戒だった。
この存在は、見た目と中身が根本的に乖離している。
その乖離が生み出す違和感が、
ミレーヌの本能を揺さぶっていた。
「……師団長殿」
「エリィでいいです!
師団長って呼ばれると業務感が出て
テンションが下がります!」
それがエリィ・ヴァルトシュタイン、
魔法師団師団長との最初の出会いだった。
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以来、何度か手合わせをした。
エリィの戦略級魔法は国家管理の
対象になっているため、
実際の手合わせでは使用できなかった。
しかし魔法を封じた状態でも、
エリィは十分すぎるほど強かった。
補助魔法による身体強化と、
細かい精密魔法の組み合わせは、
純粋な体術だけで戦う
ミレーヌとの相性が非常に悪かった。
勝ったり負けたりした。
ミレーヌが体術で制圧すれば、
エリィは悔しそうに笑いながらリベンジを要求した。
エリィが魔法の連打でミレーヌを追い詰めれば、
ミレーヌは無表情のまま一言「もう一度」と言った。
どちらも諦めなかった。
その繰り返しの中で、
ミレーヌはエリィに対して
奇妙な親近感を覚えるようになっていた。
見た目の幼さへの違和感は消えなかったが、
戦いに向かう時のエリィの目は、
ミレーヌが鏡の中に見る自分の目と、
どこか似ていた。
本物を求めている目だった。
今回の現場指揮官への指名も、
エリィの意向がある可能性が高い。
ミレーヌはそう読んでいた。
共同作戦の名目で、一緒に動ける機会を作った。
エリィなら十分にやりかねないことだった。
ミレーヌは小さく溜め息をついた。
嫌いではない。
ただ、あのテンションに対応するには、
それなりの心の準備が要った。
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### 四 ―集結―
署の前庭に、五十名の警察官が整列していた。
全員がブラスターライフルを携行し、
個人用バリアジェネレーターを腰に装着していた。
ブラスターライフルは魔力を圧縮して射出する
対魔獣用の装備で、通常の銃火器よりも
魔獣の外皮に対する貫通力が高かった。
個人用バリアは展開時に体の周囲に薄い魔力膜を張り、
衝撃と魔力攻撃を一定まで緩和する。
グリフォンの爪や嘴の一撃を完全に防ぐには
出力が足りないが、致命傷を減らすことはできた。
整列した五十名の表情は、
緊張と覚悟が入り混じっていた。
グリフォンの危険性は全員が知っていた。
熟練の冒険者パーティーが退けられたという情報も、
すでに全員の耳に入っていた。
ミレーヌは最前列の前に立ち、
全員の顔を一度ざっと見渡した。
怯えている者もいた。
しかし前に出ようとしている者たちだった。
怯えながらも立っている、
それで十分だとミレーヌは思った。
魔法師団の一隊が到着したのは、その直後だった。
三十名の魔法使いが整然と行進してきた。
全員が師団の制服に身を包み、
それぞれの得意魔法に対応した装備を携えていた。
火属性、風属性、土属性。
グリフォンに対しては風と土の組み合わせが
有効とされていた。
三十名の構成は、
その知識に基づいて組まれているようだった。
魔法師団の一隊の後ろに、小さな人影があった。
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「ミレーヌさーん!」
師団の隊列から飛び出してきた幼い少女が、
駆け足でミレーヌに向かってきた。
エリィ・ヴァルトシュタイン魔法師団師団長。
見た目は十歳前後。実年齢は不明。
師団長に就任した経緯も詳細は不明。
しかしその実力は国内でも指折りの水準にあり、
戦略級魔法を単独で行使できる
数少ない使い手の一人だった。
この国で師団長と正面から対峙できる者は
片手で数えるほどしかいない。
エリィはミレーヌの前で止まり、
翡翠色の目を輝かせた。
「久しぶりです!一緒にお出かけできるの嬉しいです!
グリフォンですね!大型ですね!楽しみです!」
「楽しみは語弊がある」ミレーヌは言った。
「被害が出ている」
「あっ、そうでした、すみません」
エリィは一瞬しゅんとしたが、すぐに顔を上げた。
「でも一緒に動けるのは嬉しいです!
前回の続きもしたいですし!」
「任務が終わったら考える」
「約束ですよ!」
ミレーヌは小さく頷き、
エリィから視線を外して全体を見渡した。
警察五十名。魔法師団三十名。計八十名の合同部隊。
指揮はミレーヌが担う。
頭の中で作戦の骨子を組み立て始めた。
グリフォンの生態。
ルノ村の地形。
魔法師団の魔法の射程と効果範囲。
警察側の装備の特性。
連携の取り方。
考えながら、
ふとミレーヌの脳裏に一つの顔が浮かんだ。
フレデリック。
先週の手合わせの光景。
訓練場の中央で自然体のまま立っていた男。
ミレーヌの全ての攻撃が届かなかった男。
この場にあの男がいたら。
エリィが対峙した時に、どうなるか。
ミレーヌは想像した。
エリィが目を輝かせて
「手合わせしてください!」と飛びついていく光景。
フレデリックが困ったような、
若干迷惑そうな顔をしながら
「気が進まない」と言う光景。
ミレーヌは気づいたら、
口の端がかすかに上がっていた。
思い出し笑いだった。
珍しいことだった。
自分が任務前に笑みを浮かべるなど、
いつ以来のことか覚えていなかった。
隣でエリィが目ざとく気づいた。
「ミレーヌさん、笑ってる!珍しい!
何かいいことありましたか!?」
「何でもない」ミレーヌは表情を戻した。
「出発する。全員、整列を崩すな」
エリィはまだ何か言いたそうだったが、
ミレーヌが前に歩き出すのを見てそれを飲み込んだ。
師団の隊列に戻りながら、
しかし翡翠色の目はまだミレーヌを見ていた。
孤狼が笑った。
それはエリィにとって、
グリフォン討伐と同じくらい、
いやもしかするとそれ以上に、珍しい出来事だった。
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合同部隊は、ルノ村へ向けて出発した。
夕暮れが近かった。空の端が赤く染まり始めていた。
その赤い空のどこかに、翼を持つ影がいる。
ミレーヌは前を向いたまま歩いた。
頭の中ではすでに、戦場が組み上がり始めていた。
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**(第八章・了)**