第二百八十四弾「 神殺し ―覚醒の序章―」の続きです

 

 

# 神殺し ―覚醒の序章―

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## 第三章 ―独房の男―

 トノパ第三警察署の尋問室は、狭かった。

 四方を石造りの壁に囲まれ、
窓ひとつない部屋の中央に、
鉄製のテーブルと椅子が向かい合わせに置かれていた。
天井から吊るされた魔力灯が青白い光を落とし、
影を鋭く刻んでいた。

 フレデリックはその椅子に、行儀よく座っていた。

 向かいに座った警察官
――バンクスと名札にあった――は、
三十代半ばの、四角い顎を持つ男だった。
目つきは鋭く、腕を組んで、
いかにも職業的な威圧感を醸し出していた。

「もう一度聞く」バンクスは言った。

「お前は何の権利があって、
あの二人に暴力を振るった」

「権利の話をするなら」フレデリックは答えた。

「俺の食料品を壊された。被害者だ」

「店内で暴れていた人間に
一方的に暴力を振るったのは事実だろう」

「止めた。店が壊れていた。
止める人間が誰もいなかった。
だから俺が止めた。それだけの話だ」

「法律上、それは私刑に当たる可能性がある」

「可能性がある、というのは、
そうではない可能性もある、ということだ」

 バンクスの眉間に皺が寄った。

「屁理屈を言うな」

「事実を言っている」

 フレデリックの声は穏やかだった。
怒っているわけでも、焦っているわけでも、
媚びているわけでもなかった。
ただ淡々と、問いに答えているだけだった。
それがバンクスには却って引っかかった。
こういう手合いは取り調べの経験上、
二種類に分類される。
本当に何も考えていない者か、
あるいは底の知れない者か。

「名前は」

「フレデリック」

「苗字は」

「マクミラン」

 バンクスは手元の書類に書き込みながら、
目だけを上げた。

「職業は」

「特になし」

「旅人か」

「そんなところだ」

「住所は」

「今は宿に泊まっている。
三丁目の『眠れる猫亭』だ」

「身分証明書は」

 フレデリックは懐を探った。
薄い革の手帳を取り出してテーブルに置いた。
バンクスはそれを手に取り、開き、しばらく眺めた。
形式上は問題のない、旅人の身分証だった。
発行地は王都から遠く離れた西の港町になっていた。

 バンクスは手帳を閉じてテーブルに戻した。

「近衛部隊の選抜試験に来たのか」

「違う。たまたま通りかかっただけだ」

「たまたま通りかかって、あの二人を」
バンクスは言葉を切った。
「制圧した、と」

「止めた、と言っている」

「言葉遊びだ」

「言葉は正確に使うべきだと思っている」

 また沈黙。

 バンクスは腕を組み直し、
じっとフレデリックを見た。
この若者は何者だ。
あの二人——ドルガとブレイズは、
どちらも今年の試験への参加者として
署内でも名前が出ていた実力者だ。
その二人を、目撃証言によれば数秒で片付けた。
しかも一見したところ、何ら特別な武装もなく。

 バンクスには判断がつかなかった。

「しばらく署内で待機してもらう」

 フレデリックは頷いた。

「弁償の話はどうなる」

「被害の届け出は受け付ける。
それとこれとは別の話だ」

「分かった」

 フレデリックはそれ以上何も言わなかった。

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 独房は尋問室よりさらに狭かったが、
フレデリックは気にしなかった。
数千年生きていれば、
これより遥かに不快な場所で
夜を明かした経験が無数にある。
藁の匂いのする粗末な寝台に腰を下ろし、
壁に背を預けて目を閉じた。

 腹が減った、と思った。

 肉まんの最後の一口は飲み込んだが、
それだけでは夕食にはほど遠い。
じゃがいもも、干し肉も、卵も、全滅した。
パンも泥まみれだった。

 夕食が遠のいた原因を作った二人は
今頃どうしているだろうか、とフレデリックは考えた。
あの二人なら、少し眠れば回復するだろう。
多少は頑丈に出来ていた。

 独房の外から、署内の雑多な音が聞こえてきた。
書類を捌く音。
誰かの怒鳴り声。
電話の呼び出し音。
今夜もトノパのどこかでトラブルが起きているのだろう。

試験が終わるまではこの状態が続くに違いなかった。

 フレデリックはまた目を閉じた。

 待つことには慣れている。
数千年という時間は、
待つことへの耐性を否応なく育てた。

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## 第四章 ―元軍人の訪問―

 トノパ第三警察署の受付窓口に、
一人の男が現れたのは夜も深まってからのことだった。

 身長は六尺に届くかという大柄で、肩幅が広く
、首が太く、どこから見ても只者ではない体格だった。
しかし顔には年齢相応の皺と疲労が刻まれており、
眼差しには荒くれ者のそれとは明らかに異なる、
静かで篤実な光があった。
歳は五十を少し超えたあたりだろうか。

 ガルドだった。

 「赤熊亭」の主人にして元軍人。
妻を署に残してきたことが少し気になったが、
あのまま家に帰ることは到底できなかった。
せっかく騒動を収めてくれた若者が
不当に連行されていく。
その光景が、頭から離れなかった。

 軍にいた頃から、
ガルドは不正義に対して
黙っていられない性分だった。

 そしてそれは、
五十を過ぎた今も変わっていなかった。

 受付の若い警官に声をかけ、
今夜の騒動に関係する人物として名前を告げ、
話を聞いてもらえる人間を呼んでほしいと伝えた。
待つこと十分。
廊下の向こうから足音が近づいてきた。

 ガルドは何気なくその方向を見た。

 そして目を細めた。

 背は高くないが、歩き方が違った。
一歩一歩に無駄がなく、重心が安定していて、
周囲を自然に把握しながら移動している。
訓練を積んだ者特有の、あの歩き方。

 顔が見えた。

 三十前後の女性だった。
癖のある黒髪を後ろで束ね、
スーツの上に制服のコートを羽織っていた。
目は大きく、印象は凛としていた。
胸のバッジが刑事であることを示している。

 ガルドは一瞬固まり、それから破顔した。

「……ミレーヌか?」

 女性は足を止めた。
ガルドを見て、目を見開いた。

「……ガルドさん?」

 次の瞬間には、二人の間に笑い声があった。

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 ミレーヌ・クロスフォード。

 ガルドが軍に在籍していた晩年、
新兵として入隊してきた女性だった。
当時から腕が立ち、頭が切れ、何より根性があった。
ガルドが指導した新兵の中で、
間違いなく五指に入る逸材だった。
軍を退役する際、
ガルドは彼女の行く末を
ひそかに楽しみにしていたのだが、
まさかトノパ第三警察署で再会するとは
思っていなかった。

 二人は署の廊下の端に移動し、
立ったまま言葉を交わした。

「いつ除隊したんだ」ガルドが尋ねた。

「六年前です。近衛部隊に入って、三年勤めて、
それから警察に転じました」
ミレーヌは答えた。

「ガルドさんは?店をやっているって
噂で聞いていましたが」

「ああ、裏通りで居酒屋をやってる。
妻と二人でな」ガルドは苦笑いした。

「今夜、
その店がひどいことになってしまったんだが」

「それが今夜の件に関係するんですか?」

「関係どころか、本題だ」

 ガルドは腕を組み直し、
今夜の出来事を順を追って話した。
試験目当ての荒くれ者たちが店で暴れ始めたこと。
警察への通報が間に合わず、
誰も止められる者がいなかったこと。
そこへ一人の若者が通りかかり、
飛んできたテーブルの破片で
食料品を台無しにされたこと。
そして――。

「その若者が店に入って、
数秒で二人を外に放り出した」

 ミレーヌの眉がわずかに上がった。

「数秒で?」

「俺も見ていた。店の外から。本当に数秒だった。
二人がほぼ同時に空を飛んで、地面に叩きつけられた。
若者が出てきたときには、もうそれだけで終わっていた」

 ミレーヌは静かに考えていた。

「その若者が、今ここに?」

「警察が来た時、
二人を掴み上げて弁償を要求していたところを
連行された。
見ていた野次馬たちはざわついていたが、
警官は構わず連れて行ったそうだ」
ガルドは苦い表情をした。

「俺はすぐ後を追ってここに来た。
その若者を助けてやりたい。
身元引受人にでもなれるなら、そうしたい」

 ミレーヌはしばらく黙っていた。

「暴れていた二人というのは、
名前は分かりますか」

「ドルガと、ブレイズと名乗っていたと、
うちの常連が言っていた」

 ミレーヌの目が、かすかに反応した。

 ガルドはその表情を見た。

「心当たりがあるか?」

「……少し、確認したいことがあります」
ミレーヌは言った。

「ガルドさん、少し待っていてもらえますか。
その若者に話を聞いてきます」

「頼む」

 ガルドは頷いた。

 ミレーヌは廊下を歩き始めた。
その足取りには、
先ほどとは少し違う色が混じっていた。

 職業的な興味と、それを超えた何か。

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## 第五章 ―独房の対話―

 独房の前に立ったミレーヌは、
鉄格子越しに中を見た。

 青白い灯りの下、
寝台に腰を下ろして壁に背を預けている若者がいた。
目は閉じていたが、
眠っているわけではないことは分かった。
気配が、眠っている者のそれとは違った。
外の足音を聞いて、すでに意識を向けていた。

 訓練された者の気配だ、とミレーヌは思った。

 しかしそれだけでは説明がつかないものが、
この若者にはあった。
どこか、深さが違った。
何年、何十年訓練を積んでも、
そう簡単には身につかないような。

「フレデリック・マクミランさん?」

 若者は目を開けた。
薄い琥珀色の目が、ミレーヌを見た。

「そうだ」

「刑事のミレーヌ・クロスフォードです。
少し話を聞かせてもらえますか」

 フレデリックは立ち上がった。
鉄格子に近づいてミレーヌと向き合った。

「構わない。
ただ、さっきの警官と同じ話をするなら
時間の無駄だと思うが」

「同じ話はしません」ミレーヌは言った。

「今夜の件の経緯は、
信頼できる目撃者から聞きました。
正直に言えば、
あなたを釈放する方向で動くつもりでいます」

 フレデリックはかすかに目を細めた。

「信頼できる目撃者とは」

「ガルドという人物です。
あなたが助けた店の主人で、
今も署の外で待っています」

 フレデリックはしばらく何も言わなかった。

 それから静かに言った。

「……余計な気を遣わせた」

「あの方はそうは思っていないようですよ」
ミレーヌはわずかに微笑んだ。

「当然のことをしたまでだ、と言いそうな人です」

「そうかもしれない」

「いくつか聞かせてください」
ミレーヌは姿勢を戻した。

「今夜の件の状況確認です」

「どうぞ」

 ミレーヌは事実確認を手短に行った。
フレデリックは簡潔に答えた。
話の内容はガルドから聞いたものと完全に一致していた。

余計な誇張も、言い訳もなかった。
ただ起きたことを起きた通りに述べる、
それだけだった。

「近衛部隊の選抜試験に参加するために
トノパに来たのですか?」

「いや」フレデリックは首を横に振った。

「旅の途中で偶然寄っただけだ」

 ミレーヌは表情を変えずに続けた。

「冒険者ですか。それとも軍人、格闘家?」

「そういう仕事はしていない」

「では、何をして旅をしているんですか」

 フレデリックは少し考えてから答えた。

「あちこち見て回っている。それだけだ」

「それで生計は?」

「何とかなっている」

 ミレーヌは一拍置いた。

「あなたは非常に強い。それは間違いない。
では、何故そんなに強いんですか。
どこで、誰に習ったんですか」

 フレデリックは少しの間、答えなかった。

 それから言った。

「生まれつきだろう。
誰かに習った記憶は……もう、あまりない」

「あまり、ない?」

「昔のことは、忘れることも多い」

 ミレーヌはそれを聞いて、
何かを考える表情をした。
問いを変えた。

「今夜暴れていた二人の名前、ドルガとブレイズ。
聞いたことはありますか」

「ない。今日初めて見た」

「そうですか」

 ミレーヌは内心で何かを整理していた。

 ドルガとブレイズ。その二つの名前は、
この時期のトノパを知る軍関係者の間では知られていた。

毎年、試験の前になると始まるあの賭け
——正式には存在しないが、実質的に黙認されている、
今年の近衛部隊合格者予想——の有力候補として、
その名前は上位に挙がっていた。

 ミレーヌ自身は参加していなかった。
ガルドの薫陶を受けて育ったせいか、
勝ち負けを金銭で弄ぶような行為は、
どうにも性に合わなかった。
ただ話題としては耳に入っていた。
今年の本命はドルガかブレイズか、などという声を。

 その二人を、数秒で無力化した。

 武器もなく。
特別な装備もなく。
肉まんを飲み込んでから店に入り、
数秒後に二人を外へ放り出した。

 ミレーヌは鉄格子の向こうの若者を改めて見た。

 背は自分とさほど変わらない。
体格も、特別に恵まれているわけではない。
どこをどう見ても、
ドルガのような圧倒的な体躯はなかった。
それでいて、あの二人を制圧した。

 これが技術だけで説明できるものだろうか。

 ミレーヌの中で、何かが疼いた。

 それは刑事としての職業的感覚ではなく、
かつて近衛部隊で剣を握っていた頃の
自分が反応している感覚だった。

「ひとつ、お願いがあるのですが」

「聞こう」

「私と、手合わせをしてもらえませんか」
ミレーヌは真っすぐにフレデリックを見た。

「素手で、構いません。
ただ、あなたがどれほどの人間なのか確認したい」

 フレデリックは目を細めた。

「俺を尋問しに来た刑事が、
手合わせを申し込んでいるのか」

「今は刑事ですが、もとは近衛部隊にいました。
腕には自信があります」ミレーヌは言った。

「それに正直に言えば、
職務上の関心というよりも、純粋な興味です」

 フレデリックは少し考えた。

「怪我をしても知らない」

「それは同意の上です」

「……気が進まない」

「釈放に協力します」ミレーヌは言った。

「ガルドさんが身元引受人を申し出ています。
私が後押しすれば、手続きは早くなる。
反対に、私が何もしなければ、
今夜ここで夜を明かすことになります」

 フレデリックは表情を変えなかった。

 少しの間、本当に少しの間だけ、
何かを考えるように目を伏せた。

 それから言った。

「……釈放の後でいい。ここでやるつもりか」

「署の中に訓練場があります。今夜は空いています」

「身元引受人の話を先に済ませてから、でいい」

「分かりました」ミレーヌは頷いた。

「では少し待っていてください。手続きを進めます」

 ミレーヌが踵を返しかけたとき、
フレデリックが静かに言った。

「ひとつ聞いていいか」

「どうぞ」

「あの二人——ドルガとブレイズ。
あの名前を聞いて、お前は表情が変わった。
何か知っているのか」

 ミレーヌは立ち止まった。
振り返り、しばらくフレデリックを見た。

 それから答えた。

「今年の近衛部隊選抜試験の、
有力候補として名前が挙がっていた人物です。
非公式の話ですが」

「なるほど」フレデリックは少し間を置いた。

「だから俺に興味を持った」

「それが全てではありませんが、否定もしません」

 ミレーヌは今度こそ廊下を歩き始めた。

 その背中に、フレデリックの声が追いかけてきた。

「もし俺が試験に落ちるレベルだったら、
どうするつもりだった」

 ミレーヌは歩きながら、振り返らずに答えた。

「それはないと分かっていたので、
考えていませんでした」

 廊下に、短い静寂があった。

 それからフレデリックの、
かすかな笑い声のようなものが聞こえた。
数千年ぶりに聞く自分自身の笑い声に、
フレデリック本人が一番驚いていたが、
それを知る者はここにはいなかった。

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 ガルドが署の外の階段に腰を下ろして待っていると、
しばらくしてミレーヌが出てきた。

「手続きを進めます」ミレーヌは言った。

「身元引受人、正式にお願いできますか」

「もちろんだ」ガルドは立ち上がった。

「あの若者はどんな人間だった」

 ミレーヌは少し考えてから答えた。

「正直なところ、よく分かりません」

「よく分からない?」

「底が見えないんです」
ミレーヌは空を見上げた。

「強いのは確かです。
ドルガとブレイズを相手にしたのが信じられないほど。
でもそれ以上に、
何か……深いところが見えない気がして」

 ガルドは黙って聞いていた。

「ガルドさん、
あの若者と話したとき、何か感じましたか」

 ガルドは少し考えた。

「感じた、というか」彼は言葉を選んだ。

「こういう言い方は変かもしれないが……
あの若者の目は、若者の目じゃない気がした」

「目、ですか」

「軍にいた頃、たくさんの人間を見てきた。
若い兵士も、百戦錬磨の古兵も。
あの若者の目は、
何十年も戦い続けてきた古兵に近かった。
それでいて、肉まんを食いながら歩いていたんだが」

 ガルドは苦笑した。

 ミレーヌも、かすかに笑った。

「面白い人ですね」

「ああ」ガルドは頷いた。

「だから、ほっておけなかった」

 夜空に、星が出ていた。

 トノパの裏通りのどこかで、
まだ怒鳴り声がしていた。
試験の熱は冷めていなかった。
街はまだ眠れないでいた。

 しかし、少なくともこの警察署の一角では、
静かな夜が進んでいた。

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**(第五章・了)**