【ネタバレあり】

これで物語シリーズも一つの区切りとしての結末を迎えた感じです。続刊がまだありますし、「続・終物語」なんてのもありますが、個人的にはこれはアニメ化しない方がいいような気がしたり。。。(でもこれがないと「花物語」で忍野扇がなぜ男子になっているのかや、神原駿河が、母、臥煙遠江の夢を突然よく見るようになったのかが分からないんですが)

 

忍野扇は阿良々木暦が生み出した怪異だったとは。。。分からなかった。。。

「くらやみ」ではないとは思っていた。めっちゃそっちへミスリードさせるような発言が多すぎて。でも、阿良々木暦ってちょっと理解できないところがあるとは個人的に感じていた。根本の「傷物語」でとった行動が特に。泣き喚きながら懇願するキスショットを自分の身を犠牲にして助けてしまったのは分かる。「友達はいらない。人間強度が下がるから」なんて考えを持ってるところから自暴自棄に、美しい吸血鬼に魅せられて、思わずとってしまった行動として。しかし、人間を食べるキスショットを目にして狂いそうなくらい過ちを犯してしまったと後悔し、羽川に諭されて自分の過ちの責任を取るためにキスショットを倒すことを決意する。が、倒す直前にキスショットは殺されることを望んでいると気付いてしまい、殺すのを辞めてしまう。同情し、動揺し、躊躇するのは分かるが、見た目人間と変わらず、知性があり、感情を持つが人間とは相容れない吸血鬼、そして本人は死にたがっているのに。混乱していたのであろうが、忍野メメに「皆が幸せになる方法を教えてくれ」なんてとんでもないことを言う。流石に忍野メメも珍しくストレートな辛辣な言葉「そんなのあるわけないじゃん。馬鹿じゃないの?」と言い捨てる。それでも、尚且つ忍野メメがしょうがなく提案する「皆が不幸になる方法」を選択してしまうという。。。この阿良々木暦の行動は理解し難かった。異常な選択だと思った。だから、ここから自分は間違った選択をしたのではないかという自己批判が始まったのだろう。けれど最終的には自由の身となったキスショットが再び阿良々木暦の影の中に縛られるという選択をし、共に生きるいう考えに至らせたのだから、阿良々木暦は正しかった、というか「皆が幸せになる」ところまで導いて物語は完結した。

(斧乃木余接の「幸せにならないから勘弁してください、幸せになろうとなんかしないから、どうか許して下さい、どうか見逃してくださいと言っているようにも──」。「不幸なくらいで許されると思うな。ハッピーエンドを目指すべきだ」や八九寺真宵の「阿良々木さんみたいに、手に余るものや身に余るものを求めた場合は、そのやりかたでは無理でしょうね。──成功するしかないんじゃないですか?」という台詞は、こういう結末を目指すべきだという意味だったんですね)

 

それにしても西尾維新はどこまで伏線として用意して、どこから後からの発想でつなぎ合わせたのかが分からないですね。つなぎ合わせる発想、アイデアが豊かそうで。例えば蝸牛がナメクジの近縁種で三竦みからナメクジは蛇を抑え込めるから八九寺真宵は北白蛇神社の神様になれる、とか多分こじつけでしょう。しかし、こじつけにしては綺麗にまとまっていて。。。たしかあとがきに書いてあったと思うんですが、最初「化物語」だけで終わるかもしれなかったと。春休み、ゴールデンウィークについては化物語で触れられているので「傷物語」「猫物語(黒)」はざっくりと頭に物語があったとは思いますが、セカンドシーズン以降はアニメ化されて勢い付いて書いた感じでしょう。だからセカンドシーズン以降から伏線を張っていってるとは思うんですが。。。ナメクジの件も「鬼物語」ではリュックサックを背負っていない八九寺真宵をナメクジに見立て、ナメクジはカタツムリの貝が退化したものという話が出てくるし、「恋物語」で貝木が千石撫子を蛇神から戻すのに蛞蝓豆腐という怪異もどきを用いている。なので「鬼物語」から伏線を張っていってる可能性はあるんだけど、神様になるためにそれ相応の資格、条件があるという話は出てなくて「終物語(下)」で〝地獄から戻るという奇跡を起こしているから″とか条件的な話が出てくる。当初臥煙さんはキスショットを神に据えようとしていたが千石撫子が神様になってしまった。キスショットは怪異の王だから蛇だろうがなんだろうが抑え込めるだろうけど、千石撫子が神様になれるんなら誰でもなれそうな気がする。しかし千石撫子も自分の中にクチナワさんを作り出していたからすんなりと蛇神化できたとも考えられる。そして「暦物語」では忍野扇が今の北白蛇神社は別の場所から移動して作られたもので、そぐわない場所に移したがために(つまり海蛇・水蛇の神様を山に移したがために)よくないものが集まるエアスポットになってしまったということをほのめかす話、つまり相応する条件的な話が出てくる。うーん、考え出すとより一層、どこから伏線で、どこから後で話を膨らませたのか分からなくなりますね。。。「化物語」からずーっと「浪白公園」の読み方が分からないというのを引っ張っていて、キスショットが南極から飛んで着いたのが「白沱」を祀った沱白神社があった湖で現在の「浪白公園」のある場所だったとかのあたりも。。。

(観直すと、読み返すと、千石撫子は相応しくなかったから暴走したという説明がありましたね)

 

ちなみに忍野扇が「くらやみ」とミスリードさせる発言が多かったと書きましたが、これも単にミスリードさせるためだけの発言じゃないところも面白い。忍野扇は「くらやみ」を模していたわけですから、言ってることに嘘偽りはない。このあたりも西尾維新らしいというか。小説、物語でよく使われる「ミスリード」という手法に対して挑戦しているというか遊んでいるというか。一般的に「ミスリード」はいくつかの意味に捉えられる微妙な表現、言い方を用いたり、偶然やタイミングによって読み違い、深読みをさせたりするものですが、発言は曖昧でなく嘘でもなく且つミスリードとしても成立することに挑戦したような印象です。

 

アニメで印象的だったのは、まず暦を抱えて座るキスショット、というか忍野忍。これはやはりヴィジュアルとして見たいところですもんね。いい絵面でした。

「くらやみ」に呑まれる前の扇ちゃんの「お疲れ様でした」が凄く軽い感じのトーンで、バイトを上がる女の子が言う感じで、それがなんとも忍野扇らしかったというか。小説に「軽やかに」とか書かれてるわけでもないので、声優さんのアドリブというか演技というか解釈なんでしょうけど、すごいな、と。

そして物語の最後として一番好きな暦と忍のやりとり。「お前が今日を生きてくれるなら。。。」。このシーンの忍の真っ赤に広がるドレス、母のように暦を抱き、そして吸血鬼の翼で覆うさま。小説には全くそんな情景描写はなく、"臥煙さんは、僕のそばに立つ金髪金眼の幼女──ならぬ妖女に、声をかけた。"としか書かれていない。なのでアニメオリジナルの演出だけど、妖艶で美しく、感動的だった。

 

この後に刊行されている「物語」のアニメ化はあるのかなぁ。「続・終物語」の老倉育は西尾維新のサービス精神によってちょっと引いてしまうぐらい別キャラとして書かれてるからあんまりアニメで見たくないけど、「結物語」の阿良々木暦と老倉育のやりとりは見たい。戦場ヶ原ひたぎと老倉育のオーディオコメンタリーのノリそのままな感じで面白かったので。「もしも、三十路を過ぎてもお互い独身だったら。。。」のあとの締めの台詞が最高です。

 

追記:

オーディオコメンタリー聞きました。羽川翼☓忍野扇。

相変わらず、忍野扇は「巨乳」いじりの毒舌を展開していましたが、この巨乳に対する執着心は阿良々木暦の執着心の裏返しなんだと思うと、どんだけ!と思います。。。

 

ちなみにエンディングの卒業写真が放映時とBlu-ray版で違ってました。