ちょっと今日の記事はまわりくどく、長いです。ご了承を。

あの3・11の地震から今日で2ヶ月。

長かったようで、早かったようで・・・何とも言えない感じなのですが、

まだまだ避難所暮らしの方々は、つらい状況を強いられています。



ボランティアの人数が少ないことや、さらには、被災地以外の人々も

心理的にも元通りになってきて喜ばしいことではありますが、

世の中はヘルプする気持ちが薄れているような感じだと聞きました。

最初の寄付の意気込みや援助する気持ちも、以前とは少しずつ違っているそうです。



そんなことを書いている私も、普通の生活に戻ってきているので、

あのときの、心境ではないことは確かです。元気になりましたし、

私なりに、津波で亡くなった方々の意味もなんとなく整理がつきました。



なので、そのことへの悲しみに飲み込まれたりはもうなくなりました。

それは、時間が解決したのではなくて、今回のこの大震災のことで

考えて考えて、祈って祈って…出た答えゆえ、今回のことで学ばせていただきました。



ボランティアに関しては、体を差し出すことができる人は

体を差し出しボランティアすればいいし、それができない人は、

金銭的な支援を長く行っていけばいいし・・・

最初の決意と変わらず今後も自分のできることをしたいと思っています。



こんなことを書いたら、誤解を受けるかもしれませんが、

そしてきつい言い方になってしまうかもですが、

寄付するのも、ボランティアするのも、100%他者を思ってやっているか?

と言ったら、そうでないことに気づいていない人が多いような気がします。

(上から目線でごめんなさい。決してそういう気持ちではありません^^;)

それは、他者からの賞賛を受けたい、という気持ちと言うことではなくてね。



以前、当ブログへのコメントで、寄付をしている自分が

なぜ寄付をしているかわからなくなってきた、と書いてありました。

つまり、助けたくて寄付しているのか自分のために寄付しているのか



それは、言葉を変えれば、何かをやらなければ落ち着かない自分を

落ち着かせるためにやっているのか?それとも他の人への愛なのか?・・・

わからなくなること結構あると思うのです。



私は、むしろその感情を持っている人のほうが好感をもてます。

なぜなら、「100%私は人のためにやっている」と思い込んでいる人は、

その行為が、自分の欲望を満たしているということに全く気づいていないから

結局、その行為の本当の動機うんぬんは、極論今はどうでもいいのだと思います。

ただ、助けを差し伸べている行為そのものに価値があると私は思います。



視点を自分に向けるとわかりやすいのですが、ボランティアは、

「誰かのために何かをしたい」という自分の「欲」を満たしているんですよね。

私が避難所の人々に淹れたてのおいしい珈琲を飲んで欲しい、と思ったのは、

一見、他の人のためにやっているように見えますでしょうが、結局は、

おいしい珈琲を飲んで欲しい」という「私の欲望(願い)」を

満たしていることになる
。とどのつまりはその行為ですら、

自分のためにやっていることになるわけです。



もうちょっとわかりやすい実際の例えで言いますと、

私、両親が生きている間に家を建ててあげたいという目標があります。

ある人はそういうことを聞くと、「なんて優しい娘さん!」とかって

評価をするかもしれませんが、両親に家を建てたいという「私の欲望」を

満たしたいだけ。両親が新しい家で心地よい生活を送って欲しい、

というその「私の願い」を果たしたいだけ。



家を建ててあげるも、自分の身を差し出して

ボランティアに行くのも、結果としては愛の行為ですもんね。



言いたいこと、なんとなく意味わかります?



なので、私はボランティアで自分の身を差し出している人々に感謝の気持ちは

とてもありますが、それを「すごい」とか「偉い」とかは全く思いません

感謝の気持ちしかありませんです。冷たくてごめんなさいなんですが。



そして、ボランティアで活動されている人たちは、他者への愛の気持ちがベースで、

自分のためにやらせていただいているのですから。こんな書き方怪しいですが、

他の方のために奉仕させていただいていることが、結局は

自分の徳を積ませてもらっている、自分の魂磨き、

自分のためにやっている
、ということ。



なので、実際に身を差し出せる人も、そうじゃない人も、

寄付できる人も、そうできない人も、結局は自分視点で考えてみると、

どうしたらいいかが見えてくると思うのです。



自分のために寄付しようが、人のために寄付しようが、

結局最後は自分のためになっている、もし、何もしないということを選択するならば、

それはそれで何もしなかったことが、どういうことをもたらすのかを

身をもって経験するだけのこと。それが人生の学びのような気もするのです。



・・・ってなんか、エラソーにすみません(^∀^;)

ごめんなさい。熱く語るとエラソーに見えますね。

ホント、そういう意味ではなくて、私の思想といいますか、

ちょっと思うことを書きたくなりました。もちろん、これらは100万とある

思想や考え方の一つですから、情報は取捨選択してくださいまし。



で、しつこくも続けます(笑)

私たちって、結構、人のためのように思っているかもですが、

自己中心的であることに気づいていない場合も多いこともある。



震災からまだたったの2ヶ月です。

仮設住宅すごい勢いで建てているようですが、

全然追いついていないようです。長く援助する気持ち、

数年スパンで考えて、自分のためにさせていただけることを

自分のためにやれたらいいですね。それが強いては

自分のためにもなり、他者のためになることならば、

一粒で二度おいしい!(by グリコ・・・みたいな・笑)



今日の記事、長々と書いてしまいましたが、いいたいことは、

寄付であれボランティアであれ、托鉢(たくはつ)と同じ。

托鉢は僧侶の修行でもありますが、周りの人々に与える精神を教えるものでもあります。

つまり、寄付させていただける、援助させていただける、という、結局

自分のためになっている、ということが言いたかったのでした。

短く書けよ!って感じです(^∀^;)ハハ



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では、今日も一日健やかにお過ごしくださいませ。




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