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 前回の続きから。午前中に、かたりべ満茶乃さんの話を聞き、午後は源氏物語の舞台である六条院巡りをしました。


 当時の鴨川は今よりも広く、約1キロほどの幅があった。高低差がそれを物語っています。

 五条大橋の上から撮影。


正保2年(1645年)の擬宝珠


 江戸時代後期に築かれた堤防。以前の鴨川は今よりも高い位置にあった。


 現在は高瀬川の方が鴨川より高い位置にあるので、高瀬川が鴨川に流れ落ちる形になっている。しかし当時は逆でした。水門を伝って鴨川から高瀬川に水が注ぎ込まれていた。


 水門の跡


 当時、使われていた五条大橋の柱です。平安神宮にもある。


 高瀬川は当時から変わらない高さ。角倉了以が堀った人工の川だが、自然に流れていた川も利用されたのではないかと推測されている。全て一から掘り進めた事業ではない。


 下のレンガは明治時代に造られたものです。


 江戸時代〜明治時代に至るまで川を掘り下げるなどの工事の記録が見当たらないことから、明治時代以前も同じ高さだったのではないかと言われています。


 高瀬川沿いを歩いて、東側に向かいます。ここから東側は平安京。


 当然ながら平安京の方が高い位置にある。


 この道を歩いたのは初めて。


 路地裏にお地蔵さんがいるのは京都ならでは。年々減っています。


 この高低差に注目するのが、土地巡りの楽しさの一つ。


 この辺りは源氏物語の舞台でもある。残念ながら平安時代の名残りらしきものはないに等しい。あるとしたら高低差や道、川くらいなものです。


 この道は丁度、御土居の上にあたります。


 この辺りの御土居はカーブを描いている。今もその名残りとして道が曲がっています。


 諸説ありますが、夕顔はこの辺りに住んでいた。四条に近いので、当時は市場があったはず。周辺は大変賑わっていましたが、源融はそれを、あまり快くは思っていなかった。その為、源氏物語ではこの地域の描写はそれなりの表現になっています。紫式部が光源氏に成り切って書いただけですが……。

 恵まれた人間が庶民目線で物事を見ることができないのは平安時代も現代も同じです。


 史実を元にして書いたならば、この道を夕顔や光源氏が歩いていた可能性がある。



崇親院跡

 何らかの疾患に罹るなどで思うように生活することができなくなった人たちを収容した場所です。平安時代より以前につくられており、現在で言うところの福祉施設にあたる。福祉の概念があったとは思えないので、隔離病棟と言った方が適切かもしれない。

 長らく歴史に出てこなかったが、江戸時代辺りにまた現れます。六条村と聞いてピンと来る人がいるかもしれない。江戸時代になると六条院跡に被差別部落の人たちが住むようになりましたが、この元となるのが崇親院なのではないかと論文で発表した人がいます。



 籬の森(まがきのもり)が見えます。籬の森は河原院の島にあったとされています。しかし河原院は、現在の籬の森より東側にあったと推定されているので、河原院の島にあったはずの籬の森が、この地にあるのは不自然になる。籬の森ではない可能性があります。

 現在、籬の森と呼ばれている森は、鴨川の中州(島)にあった森かもしれません。

 河原院の場所もよく分かっていないので、立て看板に書いてある通りに、ここが籬の森の可能性も勿論あります。


 源氏物語は史実かのように扱われることがあるが、実はフィクションです。ただ全てを史実ではないと言ってのけることはできません。何故なら史実と絡めて書いてあるからです。

 この五条大橋一帯も源氏物語の舞台。


 籬の森はすぐ近くにある。道路の向こう側は鴨川。手前の橋の下を流れる川は高瀬川。当時はこの辺りは全て鴨川であって、高瀬川は鴨川の中洲(島)を縦断して流れていた川の名残りではないかと推測されている。


 ここが籬の森。立て看板には河原院跡と書いてある。

 案内した人が「全然違う。知識がない。私の方が質が高い」などと、他の人たちの研究に対して誹謗中傷しまくっていたのが気になった。この人は自分の考えこそが正しいと思い込んでおり、随分と視野が狭い人に感じられた。ブラタモリでタモリさんを案内したことのある人です。


 光源氏邸宅「六条院」のモデルの一つが河原院。光源氏も誰なのか諸説ある。夕顔が一夜を明かした某院というのは、河原院をモデルにしたのではと言われている。といったように何もかもが分かっておらず、推測の域を出ていない。そもそも源氏物語自体がフィクションです。源氏物語に出てくる六条院も架空の建物。

 これを踏まえると、誹謗中傷に走る姿は非常に滑稽に思えてきます。まだ何も確定してはいない。


 元歌舞練場。源氏物語の舞台となった場所は遊郭の跡地でもあります。橋本の歌舞練場は何年か前に壊されてしまったが、こちらは残されてある。



 片方の門が近年見つかりました。以前、来た時はなかったと思います。


 歩行者優先だと言うのに、偉そうに走行する車の多さに驚かされます。佐川急便の配達員はいつか人を跳ね飛ばすだろう。


 極楽寺の境内を見ると、傾斜しているのが分かります。これも鴨川の名残りです。この付近は源氏物語でいうところの冬の町にあたります。


 当時の鴨川は遺体が数千もあった場所です。現代人とは感覚が異なるとは言え、とても住みたいとは思えない場所だった。川の水が澄んでいるはずもなく、小鳥がさえざるよりカラスが鳴いていることの方が多かったでしょう。その場所に河原院を建てたのは何の理由があったのか。源氏物語の舞台をこの地に選んだのは何故だったのか。


 源氏物語は悲恋を描いたものであり、招かれた女性は遊郭の女性のような酷い扱いを受けており、その殆どが不幸になっている。

 今回、案内してくれた人が「最後に笑ったのは明石の上」と断定していた。10人いれば10通りの考え方があるはず。この人はその考え方ができてはいないようだった。これでは職場の看護師たちと同じではないか。

 遊郭の話に及んだ時は、全く関係のない従軍慰安婦の話をし始めたのだが、「どう考えても従軍慰安婦は存在した」と言い切っていた。根拠は非常に浅く、「現在とは異なり、強制的に働かされた人ばかりであり、断ることはできなかった。助けてくれる人もいなかった」というものだった。

 この程度の考えで物事を断定的に捉えるところがある人だった。強制的に働かされた人もいれば、自らの意思で働いた人もいるはず。家族のために仕方なく働いた人もいたでしょう。物事を1か0でしか捉えることができない人は、自分の意見以外に対して「この考え方が正しいに決まっている。このように考えるのが常識」などと自分の殻に閉じ籠って誹謗中傷を繰り広げるのだから堪らない。そもそも朝日新聞が捏造報道をしたことは確定事項ではなかったか。

 この手の人の説明はシンプルで分かりやすいので、考える力のない人にはウケるのでしょう。何の疑いもなく信じる人たちがいる。


 源氏物語は人間模様が複雑に入り組んでいる内容となっています。ぜひ想像力を働かせながら読んで欲しいと思います。あまり他人の意見に振り回されないで欲しいです。