「眷村黑話」と楊德昌(エドワード・ヤン) | 台湾華語と台湾語、 ときどき台湾ひとり旅

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台湾の中国語に見られる独特の語彙(特にスラング)は、大きく分けて次の三つです。

 

1)台湾語由来の語彙(恰北北、二二六六、亀毛、雞婆、霧煞煞、西北雨etc) 

2)日本語由来の語彙(黒輪、運將,便當,阿沙力、看板etc)

3)古い語彙の残存(邮差)

 

これら以外に「眷村黑話」由来のスラングがあることはあまり知られていません。このブログでもたくさん紹介してきましたが、挂(死ぬ)、屌(かっこいい)、馬子(スケ、オンナ、カノジョ)、罩(フォローする)、扁(ボコボコにする)、太保(不良少年)、哈拉(話す)、条子(サツ)などなどです。

 

今日は、では「眷村黑話」とは何かということについてもう1度、もう少し詳しく見ていきましょう。


 

「眷村黑話」とは何か

 

台湾の「眷村(juàncūn)」というのは、狭義では1945年以降大陸から移住してきた国民党軍兵士とその家族のために政府が準備した居住区のこと。広義では栄民や眷属が勝手に作った違法建築物群も含めます。そして「黑話(hēihuà)」とは隠語のこと。多くは反社会的集団の隠語を指します。

 

「眷村黑話」とは50年代以降台湾の「眷村」を中心に流行した隠語のことです。その多くは中国東北地方の言語、「土匪」と言われる反社会的武装集団の隠語が起源。60年代、眷村に暮らす外省人第ニ世代の少年達、特に「太保幇」と言われる不良少年たちの間では、仲間言葉として深く浸透していたと思われます。


ちなみに「眷村黑話」の一部が現在まで残っている理由は、外省人(眷村出身)芸能人、王偉忠、盛竹如、張雨生などがテレビで使ったからと言われています。ではなぜ、当時、外省人第ニ世代の間で「眷村黑話」が流行したのでしょうか。



「眷村黑話」が流行した理由

  

60年代の台湾は、白色テロの恐怖や228事件後深刻化した「省籍矛盾」等による社会不安が蔓延していた時代。さらに故郷大陸への帰還が絶望的になり、そのことによる親世代の焦燥感、精神的不安定を敏感に感じ取っていたのが外省人第2世代の若者たちでした。彼らは自分の居場所を求め、「幫派」――太保幫(不良グループ)に所属し徒党を組んだのです。

 

この「幫派文化」のマーカーの一つが「眷村黑話」でした。ある意味、「眷村黒話」は当時の少年達のアイデンティティを支える「言語」だったのかもしれません。本省人には自分のことば=「台湾語」がありました。でも外省人第二世代にはそれに匹敵するものはなかったから…。


台湾映画『牯嶺街少年殺人事件』ではこの「眷村黑話」がふんだんに使われています。映画の中で少年たちは、互いの絆を確かめ合うかのように「髒話(汚いことば)」を連発し「眷村黑話」を交わし合うのです。




    「眷村黑話」と         楊德昌(エドワード・ヤン)


台湾映画『牯嶺街少年殺人事件』(1991年台湾/監督:楊德昌(エドワード・ヤン)/2017年デジタルリマスター版が公開)は、1961年に台湾で実際に起きた少年による殺人事件をモチーフにして、当時の台湾社会をリアルに描いた映画です。

 

監督の楊德昌(エドワード・ヤン)は太保幫の正式な構成員ではなかったものの、その周辺にはいたはず、と言われています。太保幫の少年たちは「流氓(やくざ)」ではなく、毎日学校にも通い、教官に管理されている存在でしたので(『寶島一村』p275)、正式な構成員ではない学生とも接触が多く影響力が大きかったと思われます。(『再見楊德昌』p212)。

 

このような状況がよくわかる字幕が、『牯嶺街少年殺人事件』で出てきます。

 

然而,在這一代成長的過程裡,卻發現正生活中對前途的未知與惶恐之中。這些少年在這種不安的氣氛裡,往往以組織幫派,來壯大自己幼小薄弱的生存意志。

(しかしながら、この世代は成長の過程において、自分たちの前途の不透明さとその未来に対する懼れの中で生きていることに気づく。少年たちはこのような不安に満ちた空気の中で徒党を組み、幼くか弱い自分の存在を大きく強く見せようとしていたのだ。)

 (映画字幕より/訳はたまり、以下同)



 

    「空白の歴史」に        目を向けようとした楊德昌

 

台湾の60年代は暗く苦しく、「皆が故意に忘れようとしている年代」でした。楊德昌は「当時の社会状況を綿密に考証、研究した」上で細部に至るまで丁寧に描くことによって(『聯合文學』2016年11月号p54)、その「空白の歴史」に目を向けようとしたと思われます。

 

監督はシナリオを非常に重要視しており、一字たりとも勝手に変えることは許されなかった。(中略)彼にとって一字一字全てに意味があった。

(『再見楊德昌』p376/【小四】役、張震のインタビュー)

 

 

青春の1ページとしての「眷村黑話」


 太保幇(不良グループ)の周辺にいた外省人2世にとっても、「眷村黑話」の思い出は確かに青春の1ページと言えるものです。もちろん明るく曇りのない青春ではないですが…。楊德昌も60年代当時使っていたというのは周囲の人の証言からわかります。【小四】役の張震はインタビューの中で次のように答えています。

 

映画撮影時、若い俳優陣に教えるため、毎日のようにプロデューサー(余為彦)や眷村太保幇【卡五】役の徐明(1950年生まれ)などと「眷村黑話」を使って会話をしていた。楽しそうだった。(『再見楊德昌』p376~)

 

眷村出身の作家、朱天心の『想我們眷村的兄弟們』にもこのような表現があります。

 

隨即每個人把積壓老舊的髒話、獸性大發的存貨出清,深喉嚨一樣的口上得到了快感;

(すぐに皆、長年押さえ込んでいた汚いスラングと粗野な一面を、たまっていた在庫を一気に一掃するかのように口にのぼらせて快感を得たのだった;)




忘れられつつある、「眷村黑話」

                       

しかし「眷村黑話」は、80年代末『牯嶺街少年殺人事件』の撮影当時でさえ、若い出演者たちが聞いたこともないような語彙も多かったそうです。現在まで残っているスラングも、言葉は知っていてもその起源を知る台湾人は決して多くはありません。「眷村黑話」そのものを知らない台湾人も多く、忘れられつつある一つの言語現象かもしれません。

 

現在、歴史に埋もれ、消えつつある眷村の文化を、台湾の歴史の一部として紹介・保存していこうとする動きもありますが、「眷村黑話」にはあまり関心が払われていません。個人的には非常に残念なことだと思っています。