「ワンス・アポン・ア・タイム・チャイナ」シリーズは売国奴である僕の大好きな映画。特に2作目の「天地大乱」は大傑作で、何十回も見ている。

清朝は英国の外圧に屈し、ある種の人々の不満は高まる。特に自分は神だと名乗る男が白蓮教を興していて教団の信者たちは英国領事館を取り囲み「外圧に屈する政府」に不満を叫ぶ。

主人公の武術家ウォン・フェイフォン(黄飛鴻 ジェット・リー)は、のちに辛亥革命を起こす孫文を守って、清朝提督と彼に結託した白蓮教と戦う。

孫文らを匿う清朝提督に英国領事が殺される。カルト教団”白蓮教”に乗り込んで戦おうとするフェイフォンと孫文を支援する男トン。白蓮教祖を信じて彼らを殺そうとして狂う多くの信者たちに襲撃されんとするシーン。

フェイフォンとトンは、洗脳された中国人たちとまともに戦えない。中には幼い子供もいる。

「愚かな…偶像に命を捧げてる…こんな国を救えるのか?どこへ行けばいい?逃げられない」とトンは苦悩する。

それを見たフェイフォンは、大笑いして「風神が我に宿った。余は神なるぞ称えるが良い。人の心を奪い、神の怒りをかった偽者の神は成敗してやる」と叫び、カルト教団教祖と戦う。

教祖に勝って「神は偽者だったのか!」と嘆き悲しむ信者たちを見て「仏より自分を頼るのだ」とつぶやく。
現・岩手県下閉伊郡山田町船越の漁師が仲間と一緒に吉里吉里(きりきり、上閉伊郡大槌町吉里吉里)から帰る途中の事。夜遅くに海岸沿いの四十八坂のあたりを通る時に小川の前に女が立っていた。よく見ると自分の妻であった。

しかし、この夜中にこのような寂しいところに来るはずもなく、「さては化け物だな?」と思い、魚切包丁で女を後から刺し貫くと悲しい声を出して死んだ。化物ならば、すぐに正体を現すだろうと見ていると、死骸はいっこうに妻の姿のままだった。

さすが不安になって死骸を仲間に託して自分は急いで自宅に戻った。すると妻は無事でいたが、「あまりにあなたの帰りが遅いので寝てしまったが、恐ろしい夢を見た」と言った。漁師は「どんな夢だ?」と聞くと、妻は「山道で得体の知れぬ者に脅かされて、命をとられるのでは?と思うと目覚めた」と答えた。

漁師が再び四十八坂に引き返すと、仲間たちは「しばらくはそのままだったが、そのうちに死骸は狐になった」と言った。

柳田国男「遠野物語100話目」
柏市の大津川河口でセシウム汚染値が上昇していると聞き、ヤジウマ的な興味がわいちゃったので、その要因を探ってみようと思った。興味を持った理由は、大津川の源流が僕の住む鎌ケ谷市だったからで、大津川の流路を地図で調べてみると少し気になることがあったからだ。

まず、大津川に関してwikipediaに詳しく書いてあったので、それを多少修正して流用する。

「大津川は利根川水系の小川。千葉県鎌ケ谷市内の湧水が源で、南初富三丁目や串崎新田、初富などから集まった水が鎌ケ谷市粟野の北部小学校付近で集まって柏市側の北方向に流れる。途中、多くの支流から流れてきた水などを合わせながら手賀沼に注ぐ。水源付近には初富駅や新鎌ヶ谷駅があり、そこから海上自衛隊下総基地や東武野田線とほぼ平行に流れる。松戸市高柳新田の方から流れてきた支流と合流し、その後、太くなる。そして、さらに増尾城址公園方面から流れてきた水も合わせ、増尾から国道16号線近くにある戸張住居跡付近でさらに川幅は広がり、手賀沼へ注いでいる。2005年3月28日に旧沼南町が柏市へ編入される前は、柏市と沼南町の市町境となっていた」

大津川は利根川水系のドブ川だが、鎌ケ谷市から手賀沼までのかなりの距離が流路となっている。約8キロの長さがあるらしい。利根川水系というのは大津川の水が手賀沼経由で利根川に流出するからだ。

wikipediaにあるように鎌ケ谷からの水は松戸市高柳新田からの支流と合流するのだが、その水源は廃棄物処理場の”松戸クリーンセンター”である。ここには昨年の原発事故によって汚染された廃棄物の灰を固形化したものがたくさん積み上げられ保管されている。僕はここの放射能灰が降雨によって流れ出して大津川に流出したのではないかと考えたのだ。

東武野田線の高柳で降車して松戸クリーンセンターに向う。iPhoneの地図を頼りに炎天下の中を歩いて行く。これがなかなか遠い。こういう施設は遠くて不便なところにあると相場が決まっているが、それにしても遠い。途中で巨大な鉄塔があった。この鉄塔はかなり離れた高柳駅ホームからも見えるほどに巨大だ。鉄塔前には建物があって、その看板には「東京電力 東葛支社東葛制御所高柳開閉所」 と書かれていた。

巨大な鉄塔が見えなくなるまで何度も振り返り見ながら歩く。勾配がある土地らしく何となく山登りのような感じで疲れる。最近は外出することも少なくなってきたから疲れやすいのだろう。情けないことだ。しばらく歩いて行くと突然住宅地に出た。小奇麗な住宅がみっちりと建ち並んでいるが、人の姿がなくゴーストタウンのような雰囲気だ。真夏の炎天下に外を歩いている僕がおかしいのかもしれないけどね。

住宅地を進むと大きな池が現れた。調整池のようだ。今は水が抜かれて中央に川のような流れの筋がある。その先を見ると巨大な煙突が聳え立っている。その下には大きな工場のような建物がある。松戸クリーンセンターだ。クリーンセンターの周りにはセンターを囲むように大小の住宅が密集している。「こんなところに放射能灰が置かれているのか?」と思うとぞっとした。

吹き出る汗を手のひらで拭いながら施設まで歩いて行く。すると目の前を老人が数人クリーンセンター横の施設に入っていくのが見えた。何だろう?と思ってその施設前の看板を見ると「年金積立還元融資 松戸市 六実高柳老人福祉センター」と書いてある。

あとから聞いたのだが、松戸市が作った老人たちの福祉施設なのだ。クリーンセンターの廃棄物焼却の際の蒸気熱を利用してパイプの中の水を温めた温水プールもあるらしい。放射能灰が置かれた横の施設に老人たちが集うというのは、なんだか怖い。

再度、調整池の方に歩いて全体像を確認する。老人福祉センターの脇にドブ川のような流れがあって調整池へ向っているので、視認はできないが、この奥が水源に間違いがないようだ。今は流れもなく調整池中央辺りで1メートル幅ほどの水溜りがある。調整池の中はほとんどが雑草である。

気のせいかもしれないが、この周辺に電気を帯びたような奇妙な圧迫感を感じた。炎天下の中をかなり歩いたので軽い日射病(熱中症)になっていたのかもしれないが、不思議な感覚だった。

調整池の下流には小さな公園があるので、そこから調整池とクリーンセンター全体を撮影しようと思った。公園には即席で立てられたような看板があって「クリーンセンター柏緩衝緑地 放射線量測定値一覧表(平成24年7月27日測定)」と書かれていた。その下には「上記の測定結果に基づき、0.23μSv/hを目安として、除染作業を実施していきます」と書かれており、非常に気になるところ。

この日は、写真撮影だけして帰宅したが、軽い日射病(熱中症というのはお粗末過ぎる名称だと思うので僕は日射病という)なのか頭がボーっとしてフラフラするので早足で高柳駅に引き返した。

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

それから1週間も経ってしまった昨日、電話で松戸クリーンセンターの担当者に聞いたところ「クリーンセンターに積み上げられている放射能灰は飛散しないように固められている。その保管にはブルーシートを敷いた上に貨物用パレットの置き、その上に固形化された放射能灰を置いて全体をブルーシートで何重にもグルグル巻きにし、さらに周囲を”フレキシブルコンテナ(土のう)”で囲っている」と言う事だった。

「大津川に関しては、隣の調整池も含めて柏市の管轄なので柏市に聞いてほしい」と言う事だった。
写真を見ればお分かりかと思うが、隣なんだよw

忘れていた事があった。クリーンセンターの排水は大津川に廃棄せずに下水道に落とすということであった。これは重要である。大津川を汚染する可能性はないということだった。

$..............消雲堂の安全対策

松戸クリーンセンターと調整池

$..............消雲堂の安全対策

クリーンセンター横の老人福祉施設
「嘘を誠にする」世説新語より

曹操は自分が暗殺される事を恐れて常に「私は予感力に優れているので、誰かが暗殺を企てれば私には必ずわかる」と言っていた。しかし、みな「嘘に決まっている」と陰口を言った。

曹操はある日、一人の小者を呼び「刀を懐に忍ばせて私に近づけ。私は胸騒ぎがすると言ってお前を捕らえさせる」と言った。つまり小物を使って自分の予感力を周知させようとしたのだ。曹操はさらに「お前には後で褒美をやるから、捕らえられても私の差し金である事は黙っているように」と小者に耳打ちした。

翌日、曹操は「胸騒ぎがする」と言うや、かの小者を捕らえさせて懐を調べさせ、刀が見つかると、その場で側近に「斬り殺せ」と命じて小者を殺してしまった。

それ以降、家臣たちは曹操の予感を信じて誰も謀反を企てる事はなかった。



「曹操の詭計(きけい)」

曹操は「私が寝ているときには近づいてはならぬ。自分で気づかずに睡眠中に人を殺してしまうから」と常々言うのですが、あるとき曹操が眠ったふりをしていると側近が曹操に布団をかけてやった。曹操はすぐにその側近を斬り殺した。以来、曹操の就寝中は誰も近づこうとしなかった。

曹操とはそういう人間である。
故 池田晶子さんの「人間自身」(新潮社 ISBN978-4-10-400109-5)を”水源”読書の合間に目を通した。なぜ、この本が近くにあったのかは不明。

ニュースで北朝鮮が核実験を行った模様、今後の動きが懸念されると報道された後、何事もなかったかのように、競馬のニュースや、スポーツ、娯楽のニュースが続く。まさにそんなふうに、人々の意識がなってしまっているのに違いない。ミサイルが飛んでくるのも、景気も競馬もケータイも全部同じ、同一平面状の出来事と認識されているのである。

あるいは、紛争や戦争で大勢の人が死ぬという出来事は、常にテレビの中の出来事、テレビの中の他人の災難である。災難というのは、常に他人の災難である。自分に災難が降ってくるということはあり得ない。自分は決して災難には遭わないと、こう認識しているものと思われるーーーーー(以上、同書”災難の心得”から)

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

遭難騒ぎを見ても、池田さんは同じように感じている。台風で荒れた海で泳ぐ、荒れた山へわざわざ登りに行く・・・しかも年配者がである。たぶん自分だけはそのような災難に遭うはずがないと思っていて、災難に遭遇するのはいつも他人であり、自分は災難に遭わないし死なないと思っているからだと言う。

そして「他人の災難、他人の死を自分の災難、自分の死として置き返れないというのは驚くべきことだ」のはすべてメディアのせいだと書く。

自分は、他人の災難や死を報じる画面のこちら側にいて、常に安全な場所にいる。安全な場所で他人の災難や死を見物していられるからだ。他人の災難や生死も画面上では”お笑い番組(バラエティ)”と同一平面である。全然、リアリティがないし、すぐに忘れてしまう。自分と災難、死とは安全に死ぬまで無縁であり、死ぬのもずうっと先のことと錯覚してしまうのである。

必ずというのは必ずなのだから、先のことではないし、いつどのように死ぬかも関係ない。生きているまさにここに死は存在しているという根源の事実である。生のあるところに死はある。生きているということは、常に必ず危険なことのはずなのである・・・。こう思うと、他人の災難がとても他人事とは思えなくなると池田さんは書くのだが・・・。

平成を迎えてから日本は阪神淡路大震災、新潟県中越沖地震に柏崎刈羽原発事故、東日本大震災や電力会社の原発事故・・・といくつもの大きな災難に遭遇したが、その災難に遭遇したのは日本人の一部であり、災難を他人事としか捉えられないこの国の責任者たちは、数々の隠蔽やケチな保身がまかり通して、脱原発デモをあざ笑いながら、あれほど日本に痛手を与えた原発を再稼動してしまった。

原発再稼動を決めた責任者や経済の大物たちは、いつでも国外に脱出できる準備をしているに違いない。彼らは災難や人間としての死は他人事なのだ。