高校生から見た人生
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得られたもの

同じ場所をぐるぐる回って

同じ道を同じように歩んで


あの時と似たものを得て

あの時と似たように失って


最終的に

私は何を学び

何を得たんだろう


一歩踏み出せば不安で怯え

一歩後退されば後悔に飲み込まれそうになって


結局は一歩も歩けずに

此処に居るだけなのかな


最後の最後まで

私が得られたものが分からない


何か大事なものだといいなって

ふと風に思うこともあった

Wish

人は誰しも願いを一つは持ってる

それは強い思いだったり、約束だったりするかもしれない

私も願いを持ってる

そう、皆と同じように


強く願い続ければ

きっといつかどんなカタチでも叶うと信じ続けた

だからどんなに辛い時だって耐えて自分が壊れそうでも耐え続けた


そうやって生きてきた


叶わない願いは必ずあるっていうことも知ってた

私じゃ叶えられない思いも見た


だけど私は信じて疑わなかった

純粋な思いはたとえ叶わなくても

いつか報われる日がやってくる

それが別のカタチでもきっと報われるって


そう思わないと私は自分で自分を潰してしまうから

死ぬことより辛いこと

私はどうやら存在感が薄いみたい

たまに、と言っちゃうにはあまりにも多いけど

私の発言、存在が無視されることがある


それはわざとやってるような悪意を感じない

本当に"見えてない"、"聞こえてない"ようなそんな感じさえする


思うんだけど

もし死ぬことより辛いことがあるとするなら

自分の存在がなかったことになることなんじゃないかな


誰にも見えない、誰にも聞こえない、誰にも存在を肯定されない

そんな空気のような、幽霊のような存在

薄すぎて見えないような存在


それってすっごく悲しいと私は思うんだ


なら今の私は?

それは、私だって誰にも見えてないような状況は

悲しくない、辛くないと言ったら嘘になる


でもそれは心の奥底で求めていたことで

自分がいつ死んでもいいようにって数年前に祈ってたこと


もし私が死んでも誰の記憶にも濃い記憶がなければ

悲しむ人はいなくて済む、そんなことを私は小学生の頃から考えてた


でもそういう逃げにも似た考えを持っていた自分が嫌いでもあった

表面的にはなんともないフリをして

内面で物凄く泣いてた自分が嫌だった、大ッ嫌いだった


そんな弱くて情けない自分がとても愛しくて大好きでもあった

自分で自分をよく抱きしめてたっけ・・・


でもね、いつからか

私は気付かない間に祈ってた

"私が人間として誰もがそれぞれ持っている才能すら全部捨てても

 私の存在を消さないで"ってね

叶うか叶わないかなんて分からない

どこにも確証なんてないけど、きっと大丈夫


世界には強く祈り続ければ

邪な祈りじゃなく、純粋なものだったら

きっと叶うって信じてるから


死ぬことよりも辛いようなことを架すような

そんなに神様は残酷じゃないことを祈りたい

孤独とか寂しさ

孤独とか寂しさとか

私はあんまり分からない

いや、毎日が楽しくて無縁なんだよ~、って話じゃなくて

むしろ逆だったから


私は仲間に入れてもらえず一人で遊んでいた保育園時代を送り

窓際でボーっとしていた小学生時代

家に閉じこもり音楽に明け暮れた中学生時代を経てここにいる


だからなのかな、どこからが孤独で

どこからが寂しさなのかがハッキリと自分の中で線引き出来ないでいる

それ以前に私に寂しさって感覚があるのかな・・・

そこもいまいち分かんない


同い年を含むその上の人全てに対し極度の人見知りをして

自分より小さい子供には物凄く打ち解け易い

そんな自分を嫌って生きてきた


中学に入るまでは同年代との関係すら薄っぺらなものだった

学校だと必要な時以外全くと言ってもいいほど口も利かなかった

つまり異性との関わりもなかった、一部例外はあったけど


そういうことなので、物心もついてない頃の初恋以来、恋らしい恋もしてない

仮にも思春期なのにも関わらず

恋愛感情が抜け落ちたのは保育園の年長辺り

それから小学の六年間過ごしても戻りはしなかった


中学も二年となったある日、

私はネットで知り合った人に告白された

正直私は困った

だって私にはそういう感情が戻ってないのに

あっちは真剣に言ってきてる

どうすればいいんだろう、と少し考えて

この人と話してるのは楽しいからOKしてみよう、とかいう安易過ぎる気持ちでOKした


でも二週間で別れました

内心、もしかしたらこれで私の感情が戻るかも、なんて

そんな浅はかな期待もなかったわけじゃない


別れてからその人からの連絡はぷっつり途絶えた

いつまで経っても返事が来ないメールボックスを開きながら

私はふと思った

もしかしたら孤独っていうのは

周りに誰もいないことよりも

誰からも相手にされないほうが辛いのかも、と

特に後者について私は結構昔に体験していた



幼かったからという理由で無理矢理解釈していた保育園時代の感覚、

誰からも相手にされず、一人で遊ぶしかなかったあの時


あれはもしかしたら本当の孤独を、いや本当じゃなくて

私にとって一番辛い孤独のカタチを示してくれてたのかもしれない


そしてその時に感じた胸の痛さこそ、寂しさなのかもしれない

あれから11年経った今、私はそう思った

徒然なるままに   死

友人と話をしていた。

最初こそは明るい話題だった。

ゲームのこと、学校のこと。

突然、その友人は言う。

「あぁ、そういえば来週お祖父ちゃんの三回忌じゃん」


その時私は硬直した。

彼女が言った三回忌という言葉を聞いたとき

私の頭の中に祖母や伯母の死の姿が一瞬にしてフラッシュバックしてきたのだ。

堪えきれなくなって彼女の前で泣いた。

死を目の前にした恐怖を思い出して。

今は亡き祖母、伯母、そして二人の祖父を思い出して。

いや、祖父は私の物心つく前に亡くなっているから会ったことはない。

だけどなんとなく、祖父がいつも見守ってくれている、そんな気がしていた。



思えば死ってなんなんだろう。

そんな疑問が浮かんできた。

死といえば考えられるのは肉体の死。

私達が死を指す状態、生命活動の停止。


私はその他に二つ思いついた。

それは存在の死。

つまり人々の記憶から消えた人。


もしその人の肉体が朽ちてしまっても

人々の記憶にある限りそこにその人は生きている、とよく言われている。

無論私も同意見だ。


昔はそんなの奇麗事だと思っていた。

すぐ近くに死を感じるまでは。


勿論、それは祖母の死であり、伯母の死でもあった。


それ以来私も人々は心に生き続けることが出来ると感じ、

そして私にもそんな風に誰かの心に生き続けられるかを考えた。


答えは出てこなかった。

徒然なるままに    満足・不満足

最近ふと、生きるってなんだろう、って思い始めた。

この全てが自分に満足のいくものじゃない世界の中で

私は一体何者なんだろう。

いや、それよりもなんで私はここで生きているんだろう。

思考を深めた。



気付けば必ず皆がなんらかのことに不満足している。

それは人間関係であったり、自分の思いとは裏腹な動きをしてしまったりなど様々だ。


私は自分が何者であるかを探し、それが未だに見つからないことに不満足している。

そして様々なところを探しても見つからない『答え』を求めて私は動いた。

どんどん不満足は溜まっていった。



いつの間にかその不満足に満足してしまっている自分がいる。

そして気付く、この不満足が私が生きていく上での糧になっていることに。

誰もが満足することなどあり得ない、

そんなことにすら気付くことが出来ないほど私は必死だったのだ。

今思えばそれは恥ずかしいことでもなんでもなかった。

しかし、当時の私にとって、何故だか無駄な浪費をしたように思えていたたまれなかった。


誰もが満足を得ないから駆け引きがあり、協力がある。

不満足がある限り、私は生きられる―――。