Even
「言い分」ってのはそれぞれにある。
当事者の数だけ存在する。
だからそこに
// 正当性 //や// 遵守すべき共通ルール //なんてものは一切無い。
義務も、何らかの裁きを受ける謂れも無い。
誰もが「責任無く」持つことが出来る。
しかしながら、
言い分の「通し方」となると、そうはいかない。
正当性も、守らねばならないルールも、義務もある。
ヘタを打てば、裁きや応報もある。
考えや言い分を持つことは勝手である。
だが、それを通すとなると勝手では済まない。
前者には責任なんぞ無いが、
後者には責任が発生する。
責任が発生する物事は、共通のルールに縛られねば収拾がつかない。
国際法ってのが正にそれに相当する。
国家にはそれぞれの思惑があり、紛争に及ぶ場合もそれぞれの言い分がある。
当事国以外の国々は、それらの「言い分」については、裁くどころか正当性の是非を問うことさえ出来ないのだ。
何故ならば、動機や目的ってヤツはコンセンサスなんて取りようが無いのだから。
しかし、その言い分の通し方には「共通のルール」を設けるべきだ。
捕虜を殺さない、民間人を殺さない、大量破壊兵器を使用しない、等々。
騎士道でも、武士道でも構わない。
要は「道」に関するコンセンサスだ。
言い分を通すための方法を云々することには意味はあるが、
間違った行為に対して言い分を云々する、なんてのはクズだ。
大義や正義なんてものも、結局は「言い分」に過ぎない。
通し方を間違えば、糞以下のシロモノだ。
だから俺は、
結果こそ大事だと言いたい。
「どんな通し方をしたのかが大事」だと。
言い分なんてどうでもいい。
そこにはハッキリとした結果が横たわっているのだから
それを直視しさえすればよい。
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