決意
単なる長い「覚え書き」をしたためる。
スルーするが吉。
あれは15歳の時。
某密教系の坊主(親類縁者)にこんなことを言われた。
「隠す意味が無いからハッキリ言うが、
オマエは30で死ぬよ。
それまで大事に生きることだな。
そしてその時を迎えたら、真剣に死ぬことだ。」
と。
別にショックとかは無かったな。
信じなかったとかではなく、平静に受け止めた。
「そんなもんか」と。
受け止めたと云うよりは、受け流したという方が正しい。
そもそも、十代の俺にとって、
『30歳』なんてのは鬼も腹抱えて笑う程の未来。
15年後の自分がどうなのか、なんて想像する気さえ起きなかった。
そもそも十代の俺は、典型的な「不可知論者」だった。
死どころか、「己が"生きている"と云うこと」さえ
「ホ ン ト か よ ?」と疑っていた。
目に見える風景はすべて錯覚で、
油断したらテレビの砂嵐の様にバラバラに崩れ去るかも、
と思っていた。
ただし、それが「虚しい」とは感じていなかった。
生も死も信じていなかった以上、
「虚しさを感じる為に必要となる相対的価値観」を持ちあわせていなかったのだから。
何も信じないなら、価値なんてものが生じる訳が無い。
まぁそんな俺も、
身近な友人の死とか、恋とか愛とか
構築やら破壊やら、
音楽を通じて「生む」と云う体験をして、ようやく
生とか死ってものはあるのかもしれない、と
十代が終わる頃までに思い始めたのだった。
二十代に入り、
「止めどない思考」にリミッターをかけることをおぼえ、
躁鬱は影を潜め、ゆっくりと喋るようになり、
他人の話をよく聴くようになり、
大声で笑うようになった。
すっかり丸くなり、身体も丸みを帯びた(笑)
心も体も惜しげもなく使い、
後悔の欠片も無い全力投球の二十代を送った。
そして1998年の5月に
それは起きた。
そう、俺は確かに死んだ。
「あぁ、これのことか」とすぐに気付いた。
そして、真剣に死に向き合った。
余力は残さなかった。
そう、俺は確かにあの年に死んだ。
30歳で死んだ。
とは言え、今コレを書いている俺は幽霊の類いでは無いのだから
あの時キッチリ死んで、
その後、生まれ変わった、とでも言っておこうか。
まぁ控えめに云っても、
うん。。。「光の見えない生」ではあったが。
さて、ここでやっと決意の話だ。
あの時、
死を迎えるにあたって
「やっておこう」としたことがあったのだ。
ところが、色々な事情(運命のイタズラ)で果たせなかった。
そのまま、機会を逸し、果たすことも叶わず
記憶からも抜け落ちつつあったのだが、
「アレから15年後の5月」を迎えるにあたり、
俺の中で
【機は熟した】感がバリバリなのだ。
いろんな状況が「変化の時」を告げている。
運命が、鬨の声を上げている。
そんな訳で
あと15年も生きる気は無いが、
節目と残りの闘いへの印を刻む時が来た。
言ったからにはやらねばなるまい。
くだらないことかもしれないが、
俺にとっては重要なことだ。
今こそ、納得を。
そして、未来を見つめる為に。。。
Android携帯からの投稿
スルーするが吉。
あれは15歳の時。
某密教系の坊主(親類縁者)にこんなことを言われた。
「隠す意味が無いからハッキリ言うが、
オマエは30で死ぬよ。
それまで大事に生きることだな。
そしてその時を迎えたら、真剣に死ぬことだ。」
と。
別にショックとかは無かったな。
信じなかったとかではなく、平静に受け止めた。
「そんなもんか」と。
受け止めたと云うよりは、受け流したという方が正しい。
そもそも、十代の俺にとって、
『30歳』なんてのは鬼も腹抱えて笑う程の未来。
15年後の自分がどうなのか、なんて想像する気さえ起きなかった。
そもそも十代の俺は、典型的な「不可知論者」だった。
死どころか、「己が"生きている"と云うこと」さえ
「ホ ン ト か よ ?」と疑っていた。
目に見える風景はすべて錯覚で、
油断したらテレビの砂嵐の様にバラバラに崩れ去るかも、
と思っていた。
ただし、それが「虚しい」とは感じていなかった。
生も死も信じていなかった以上、
「虚しさを感じる為に必要となる相対的価値観」を持ちあわせていなかったのだから。
何も信じないなら、価値なんてものが生じる訳が無い。
まぁそんな俺も、
身近な友人の死とか、恋とか愛とか
構築やら破壊やら、
音楽を通じて「生む」と云う体験をして、ようやく
生とか死ってものはあるのかもしれない、と
十代が終わる頃までに思い始めたのだった。
二十代に入り、
「止めどない思考」にリミッターをかけることをおぼえ、
躁鬱は影を潜め、ゆっくりと喋るようになり、
他人の話をよく聴くようになり、
大声で笑うようになった。
すっかり丸くなり、身体も丸みを帯びた(笑)
心も体も惜しげもなく使い、
後悔の欠片も無い全力投球の二十代を送った。
そして1998年の5月に
それは起きた。
そう、俺は確かに死んだ。
「あぁ、これのことか」とすぐに気付いた。
そして、真剣に死に向き合った。
余力は残さなかった。
そう、俺は確かにあの年に死んだ。
30歳で死んだ。
とは言え、今コレを書いている俺は幽霊の類いでは無いのだから
あの時キッチリ死んで、
その後、生まれ変わった、とでも言っておこうか。
まぁ控えめに云っても、
うん。。。「光の見えない生」ではあったが。
さて、ここでやっと決意の話だ。
あの時、
死を迎えるにあたって
「やっておこう」としたことがあったのだ。
ところが、色々な事情(運命のイタズラ)で果たせなかった。
そのまま、機会を逸し、果たすことも叶わず
記憶からも抜け落ちつつあったのだが、
「アレから15年後の5月」を迎えるにあたり、
俺の中で
【機は熟した】感がバリバリなのだ。
いろんな状況が「変化の時」を告げている。
運命が、鬨の声を上げている。
そんな訳で
あと15年も生きる気は無いが、
節目と残りの闘いへの印を刻む時が来た。
言ったからにはやらねばなるまい。
くだらないことかもしれないが、
俺にとっては重要なことだ。
今こそ、納得を。
そして、未来を見つめる為に。。。
Android携帯からの投稿
オッカムの剃刀
そうね。
純粋な欲求ってのは
最も真実に近いと思う。
しかしながら、
欲求にもっともな理由を付加したり
欲求から何かを推測しようとする行為は概ね、
最も「真実から遠ざかる」と言わざるをえない。
真実は目の前に転がっていて
確かにそれを目の当たりにしている筈なのに、
あなたは何故
それを敢えて跨ぎ(またぎ)超えて
真実から外れた他の何かを探そうとするのか。
がっかりだ。
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