【奥州探題史】第23回 奥州探題・斯波家兼の登場 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

斯波(しば)
足利一門の中でも吉良氏に並ぶ名門である。
さらに南朝との戦いにおいて、斯波氏は北陸を担当した。

斯波高経(たかつね)家兼(いえかね)兄弟は、
燈明寺(とうみょうじ)(なわて)において、南朝の首領・
新田義貞を討ち取る大殊勲をあげている。
 *1) 義貞の敗北については、下の過去ブログを参照ください。
 北畠顕家編ー第25回 義貞、空しくなりぬ。

また斯波高経の長子・家長は、当時、鎮守府大将軍として
奥州を統治していた北畠顕家(あきいえ)を抑えるため、
奥州管領(かんれい)として奥州入りしている。
 *2) 詳しくは、下の過去ブログを参照ください。
 北畠顕家編ー第9回 鎮守府大将軍 対 奥羽管領

家長は、顕家を国府・多賀城から南の霊山(りょうぜん)
追い落とすなど敢闘するが、顕家自ら率いる奥州上洛軍に
利根川の戦いで敗れ、鎌倉において自刃したのである。
 *3) 利根川の戦いは、下の過去ブログを参照ください。
 北畠顕家編ー第15回 利根川の会戦

このような戦歴をもつ足利一門であるからこそ、
文治派の直義派、武断派の尊氏派の両派閥から
一目置かれたのは当然の事であった。

だが、斯波一族が京近くで勢力を拡大することを
恐れた
足利尊氏は、斯波家兼の若狭[福井]守護職を解任し、
統治の乱れが生じ始めた奥州への探題職を任命した

これを斯波氏勢力を分断する謀略と見た
斯波高経は尊氏に反感を覚えたために南朝へ帰順し、
尊氏と敵対する足利直冬陣営に参加したのである。

一方、斯波家兼は、兄・高経と異なり、
尊氏の方針に従うべく、長男・直持(ただもち)、次男・兼頼(かねより)
伴って奥州入りを果たした。


        斯波家兼像 (宮城県 中新田城址にて)


このうち次男・兼頼は、幼少の時に従兄弟・家長に従って
奥州に下向しているから、約20年ぶりの奥州入りであった。

多賀国府に入った家兼は主だった郎党を引き連れ、
一宮の塩釜(しおがま)神社
「天下安全、兇徒対治ノ事」を祈願した。

奥州に蔓延(はびこ)る兇徒。
それは北畠顕信を始めとする南朝残党軍、
奥州探題職を狙う石塔(いしどう)畠山氏
そして、同探題職を務める吉良氏であった。

斯波家兼を待ち受ける”敵”は多かった。

文和4年(1355) 4月15日、家兼は奥州探題として、
足利将軍の命に従い、施行の命を下した。
それは観応の擾乱(じょうらん)において、尊氏派として戦い、
敗北した留守(るす)の救済命令であった。

だが、この命を実施する前に
斯波家兼は急死するのである。
すぐに長男・直持が跡を継いだが、
まさに波乱を予感させる斯波氏の奥州入りであった。

次回、「奥州・羽州探題の並立」を書きます。