【奥州探題史】第24回 奥州探題・羽州探題の並立 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

斯波家兼の死は突然であったが、
彼の嫡男・直持(ただもち)が奥州探題職を継ぎ、
速やかな対応を行った。

まず彼は、父が行おうとしていた
留守氏の領地回復から手をつけた。

留守氏は、奥州の名門であったが、
先の観応の擾乱(じょうらん)において、
直義派吉良氏と対立していた畠山氏に味方した。

その頃、武断派の頭目は高師直(もろなお)であり、
尊氏はまだ表立って争いに加わっていなかった。
そのため直義派が優勢だったのである。

その情勢は、奥州でも反映された。
奥州諸将は直義派の吉良氏に肩入れしたため、
畠山・留守氏は岩切(いわきり)に追い詰められ敗北する。
詳しくは、次の回のブログを参照ください。
【奥州探題史】第12回 岩切(いわきり)城の戦い

斯波直持は、この留守氏に目を付けた。
彼は同じ奥州探題職である吉良氏に対抗するため
奥州において影響力のある留守氏を味方につけたかった。

留守氏は、後に尊氏が鎌倉に下向した直義を討伐する際、
尊氏派として参戦し、功があった
その事もあり、旧領の一部回復を果たしたのである。

さらに直持は、奥州探題職を巡る他の3家
(吉良氏、畠山氏、石塔氏)と異なる動きを見せる。
彼は奥州探題職の本分を第一とした。

すなわち彼は、足利幕府の安定した統治に寄与するため、
南朝残存勢力が陸奥国府・多賀城に
侵略できない体勢を構築する
ことに注力した。

この時点で南奥州の諸国人衆(伊達氏相馬氏)は、
一時的にせよ北朝に帰順していた。
すると対策が必要な方面は北と西になる。

まず北方面は、太平洋沿いは葛西氏が押さえていた。
そこで奥羽山脈北上高地に挟まれた奥六郡[岩手内陸部]
からの侵攻に対する手を打つ必要がある。

斯波氏は、大崎平野を領有していた河内(かわち)四頭(よんとう)と呼称された
渋谷大掾(だいじょう)四方田(よもだ)泉田(いずみだ)氏の
4国人衆の懐柔に努めた。

直持は奥州探題として陸奥統治を行うに当り、
河内四頭に便宜(べんぎ)を図ることで
彼らを斯波氏勢力に組み込むことに成功する。

次に出羽からの侵入に対しては、
弟の兼頼(かねより)羽州探題として山形に派遣した。
『正平の一統』における南朝の多賀城奪還は、
出羽南朝勢力によるものであっただけに重視したのである。
詳しくは、下のブログを参照ください。
【奥州探題史】第16回 南朝、多賀城奪還

京より連れてきた斯波家郎党を兼頼に預け、
当地の南朝勢力慰撫(いぶ)に当らせたのである。
兼頼は、南朝勢力の拠点となっていた藤島城
攻め落とし、羽州鎮撫を果てして行くのである。

多賀城防衛_配置図
                図 多賀城の防衛

奥州は斯波氏を中心とした新たな時代が開きつつあった。

次回、『足利尊氏の死』について書きます。