奥州が新たな時代の幕開けを迎えた頃、
中央政権においても大きな時代の変化が起きようとしていた。
足利尊氏が病に伏したのである。
尊氏は、弟・直義との内乱を終わらせ、
そのまま鎌倉に滞在し、東国運営に専念した。
彼は3男・基氏(もとうじ)に東国統治を委ねたかったのである。
京で政権運営を行っている嫡子・義詮(よしあきら)は、
千寿王と名乗っていた幼少時から
尊氏の代理を務め続けていた。
鎌倉幕府が滅亡する際には、
尊氏の名代として新田軍に合流し、
足利家に大きな功績をもたらした。
その後、尊氏が京で政権運営を行ってからは、
鎌倉にて足利家当主代理として
成年になるまで駐在していた。
だが、幼かった義詮に統治を行えるわけがなく、
必然的に側近の補佐を必要とした。
そのため彼は側近の考えに依存する傾向になった。
このような人の意見に流されやすい性格を
心配した尊氏は、基氏の冷静沈着な性格に期待した。
彼を鎌倉に据え、兄・義詮を東国方面から
補佐できるような体勢を狙ったのである。
さらに京に戻った尊氏は、京周辺状況の安定化に努めた。
越前[福井]にて旧直義派として敵対関係にあった
足利一門の斯波高経との講和を模索した。
まず旧直義派諸将に対して、
「南朝方として敵対した者であっても、
北朝方として軍忠に励む者は本領を安堵する」
との布告を発した。
また斯波高経に対しては、敵対の原因となった
弟・斯波家兼から奪った若狭[福井]守護職を
改めて高経に任じた。
この講和案を受け、文和5年(1356)正月、
斯波高経・氏頼父子は
尊氏・義詮父子に帰順したのである。
だが若狭守護職の前任である細川清氏(きようじ)は、
若狭を奪われた形となったため憤慨し、
これが後に南朝へ帰順する要因の一つとなった。
尊氏は、義詮の補佐として長年の戦友である
佐々木導誉(どうよ)を指名し、
新たな幕府運営の体勢を整えた。
延文3年(1358)4月。
征夷大将軍・足利尊氏は、背中にできた悪性の
腫瘍(しゅよう)悪化が原因で亡くなった。
太平記の主役ともいうべき人物が舞台を去り、
第2幕『難太平記』の時代が開く。
次回、「2代将軍・義詮の時代」について書きます。