【奥州探題史】第25回 足利尊氏の死 | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

奥州が新たな時代の幕開けを迎えた頃、
中央政権においても大きな時代の変化が起きようとしていた。
足利尊氏が病に伏したのである。

尊氏は、弟・直義との内乱を終わらせ、
そのまま鎌倉に滞在し、東国運営に専念した。
彼は3男・基氏(もとうじ)に東国統治を委ねたかったのである。

京で政権運営を行っている嫡子・義詮(よしあきら)は、
千寿王と名乗っていた幼少時から
尊氏の代理を務め続けていた

鎌倉幕府が滅亡する際には、
尊氏の名代として新田軍に合流し、
足利家に大きな功績をもたらした。

その後、尊氏がで政権運営を行ってからは、
鎌倉にて足利家当主代理として
成年になるまで駐在していた。

だが、幼かった義詮に統治を行えるわけがなく、
必然的に側近の補佐を必要とした。
そのため彼は側近の考えに依存する傾向になった。

このような人の意見に流されやすい性格を
心配した尊氏は、基氏の冷静沈着な性格に期待した。
彼を鎌倉に据え、兄・義詮を東国方面から
補佐できるような体勢を狙ったのである。

さらに京に戻った尊氏は、京周辺状況の安定化に努めた。
越前[福井]にて旧直義派として敵対関係にあった
足利一門の斯波高経との講和を模索した。

まず旧直義派諸将に対して、
「南朝方として敵対した者であっても、
 北朝方として軍忠に励む者は本領を安堵する」
との布告を発した。

また斯波高経に対しては、敵対の原因となった
弟・斯波家兼から奪った若狭[福井]守護職を
改めて高経に任じた。

この講和案を受け、文和5年(1356)正月、
斯波高経・氏頼父子は
尊氏・義詮父子に帰順したのである。

だが若狭守護職の前任である細川清氏(きようじ)は、
若狭を奪われた形となったため憤慨し、
これが後に南朝へ帰順する要因の一つとなった。

尊氏は、義詮の補佐として長年の戦友である
佐々木導誉(どうよ)を指名し、
新たな幕府運営の体勢を整えた。

延文3年(1358)4月。
征夷大将軍・足利尊氏は、背中にできた悪性の
腫瘍(しゅよう)悪化が原因で亡くなった。

太平記の主役ともいうべき人物が舞台を去り、
第2幕『難太平記』の時代が開く。

次回、「2代将軍・義詮の時代」について書きます。