【奥州探題史】第16回 南朝、多賀城奪還 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

北畠親房(ちかふさ)の指示により
全国各地の南朝勢力が一斉蜂起した。
それにより鎌倉が南朝勢力によって占拠された。

その勢いは地方にも波及した。
九州では、懐良(かねなが)親王による大宰府への
侵攻を開始し、激戦を経て奪取に成功する。

奥州においては、鎮守府大将軍として
入奥していた親房の子・北畠顕信(あきのぶ)
滴石(しずくいし)にて挙兵した。

この挙兵に真っ先に駆けつけたのが南部氏である。
先代・師行(もろゆき)は、10年前に行われた北畠顕家率いる
奥州軍上洛戦に参加し、その騎馬軍団で活躍した。

北畠顕信は、その南部氏を含めた軍を率いて、
まず奥羽山脈を越えて出羽[山形]に出た。
そして南下して行き、次々と南朝勢力を吸収していった。

さらに顕信は嫡男・守親(もりちか)に命じ、
南奥州の宇津峰(うづみね)へ派遣し、
後醍醐帝の孫・守永(もりなが)親王を奉じて挙兵した。

宇津峰城には、南朝方の伊達氏田村氏が合流し、
多賀城目指して北上する構えを見せた。

だが、ここで一つの大きな問題が生じる。
南奥州の白河[福島]の結城朝常(ともつね)の去就である。
後背の動向を伺いながらの北上は危険であった。

そこで顕信は、結城氏に南朝への復帰を呼びかけた
朝常の祖父である宗広は、
南朝方として活躍していたからである。

だが、朝常は態度を明らかにしなかった。
南朝の勢いは盛んであるが、尊氏は今なお健在であるため、
どちらが優勢かわからなかったためだ。

この結城氏の日和見姿勢は、朝常の
先代・親朝(ちかとも)の頃からの外交傾向であった。
そのため、去就を明らかにしない結城氏は動かないと
判断した顕信は守親に対し、北上を命じた。

多賀城にて、南朝勢力の侵攻諜報を受けた奥州探題・
吉良(きら)貞家(さだいえ)は、
ただちに自軍を出羽へ迎撃に向わせた。

貞家の弟・貞経(さだつね)を大将とする軍は、
出羽より南下する顕信と
出羽・阿谷(現:荒谷)付近で激突した。

南朝に心寄せる地元衆の多い出羽では、
諜報活動も行いやすく、吉良貞経の動向を常に掴んでいた。
吉良勢が出羽と奥州を結ぶ峠を越えて一息ついたところを
狙って顕信は攻撃を仕掛けた。

峠越えで疲れていた吉良勢は
南部騎馬軍に襲われ、瞬く間に陣形を乱し、
東へ逃走してしまった。

北畠顕信は、敵を追撃しつつ一気に峠を越え
太平洋側に出、そこで北上していた守親と
合流を果たしたのである。

多賀城にて弟・貞経の敗残兵を吸収した吉良貞家は、
国分氏を従えて出撃した。
両軍は広瀬(ひろせ)を挟んで対峙した。

戦いは、勢いのある南朝から浅瀬に乗り入れ始まった。
吉良勢も矢戦の後、遅れじと浅瀬に乗り入れ、
両軍入り乱れての混戦となった。

だが吉良勢の半数近くが、出羽の敗残兵で
士気・体力ともに尽きかけていた。
時間の経過と供に、勢いは南朝方に傾いた。

一度、崩れた吉良勢に対し余力十分の南奥州勢の
田村氏、伊達氏が襲いかかるや勝負あった。
吉良勢は北へ向って逃げ始めたのである。

ここに北畠顕信は多賀城奪還を果たしたのである。
彼が陸奥大将軍として奥州に赴任して以来11年目のことであった。
多賀城を占拠するや、父・親房の命により、
顕信は奥州軍を関東へ向け南下を開始したのである。

次回、「南朝、百日天下」を書きます。