【奥州探題史】第22回 奥州探題の乱立 | 奥州太平記

奥州太平記

宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

足利直冬へ侵攻してきたため、
足利幕府は遠国(おんごく)にまで
統治運営の手が回らなかった。

このため遠国である九州では
征西宮(せいせいのみや)たる懐良(かねなが)親王
九州全土を制圧する勢いであった。

そして奥州においては、
奥州探題である吉良貞家が不穏分子を一掃し、
奥州一帯の統治を成功させていた。

だが、その貞家が没したのである。

吉良氏は子である満家(みついえ)が受け継いだが、
南朝残党、旧直義派が跋扈(ばっこ)する奥州を
未熟な若年者が治めるのは難しかった。

この情勢を好機とみた武家が2人いた。

1人は、観応の擾乱(じょうらん)において、
奥州探題職をかけて争った畠山氏である。
岩切城の戦いにおいて当主・国氏を喪った畠山氏は、
奥州での復権をかけて遺児・平石丸を擁立したのである。
【奥州探題史】第12回 岩切(いわきり)城の戦い

平石丸は、奥州の大族である白河結城氏に書状を送り、
奥州探題となるための協力を要請した。
だが日和見傾向が強い結城氏は、その誘いを断った。

この平石丸は後に元服して国詮(くにあきら)と名乗り、
奥州探題職を狙い、吉良氏らと争うこととなる。

もう1人は、吉良氏が奥州探題として派遣されるまで、
侍大将として奥州に君臨していた
石塔(いしどう)義房(よしふさ)の子・義憲(よしのり)である。
【奥州探題史】第7回 2人の奥州探題

彼は奥州入りを果たすと、
父・義房が侍大将として奥州統治していた伝(つて)
頼りに軍勢催促の使者を奥州各地に派遣した。

そして各地の国人衆がどちらに付くか躊躇(ちゅうちょ)
している間
に、家の子郎党のみを率いて
一気に国府・多賀城へ奇襲をかけた。

相続したばかりで、吉良家家内を
まとめ切れなかった満家は敗れ、
南の伊達家に身を寄せたのである。

時の伊達家当主は、第8代宗遠(むねとお)であった。
彼は先代・行朝とは異なり、南朝に特別な思い入れが
なかったために足利方に帰服していた

そして、この状況を勢力拡張の好機と捉(とら)えた宗遠は、
吉良満家をして浜通り [福島県:太平洋側] の国人衆である
相馬氏伊賀氏、そして奥州中央和賀氏に軍勢を催促させた。

現・奥州探題の地位を利用して、
多賀城を南北から挟撃する形を取った吉良満家に対し、
石塔氏もまた、近辺の国人衆に軍勢催促を行った。

だが、石塔義憲の力を測れないでいた国人衆は、
日和見を決め込んだため、石塔氏は単独で応戦せざるを
得なかったのである。

多勢に無勢。
今度は石塔氏が敗退し、多賀城の北西に位置する
玉造(たまつくり)へと落ちて行ったのである。

ここに国府・多賀城は、再び吉良満家の手に帰した。
満家は和賀氏らに軍忠状を発行し、
伊達宗遠には伊達郡桑折(こおり)を安堵した。

奥州探題として活動を再開した満家であったが、
向背常ならぬ奥州国人衆を抑えるには、
明らかに器量が不足していた。

これを案じた京の足利尊氏は、
今まさに直冬と干戈を交えんとしていた時であり、
直冬方に大国・奥州を押さえられることを懸念した。

そこで、足利一門の中でも名門誉れ高く、
新田義貞を討伐したことで武功もある人物を
2人目の奥州探題として送ることとしたのである。
北畠顕家編ー第25回 義貞、空しくなりぬ。

その名を斯波(しば)家兼(いえかね)
後に奥州探題・大崎氏の祖となる人物である。

次回、「奥州探題・斯波家兼の登場」について書きます。