北畠顕家編ー第24回 義貞、空しくなりぬ。 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

新田義貞は、斯波高経(たかつね)
追い詰めながら、後醍醐帝の要請に応じて、
全軍に対し、南下を指示した。

これには、参謀格の児嶋高徳(たかのり)が、
「斯波高経を倒さず、京へ押し出せば、
 必ずや北陸からの京への糧道は断たれるでしょう。
と諫言した。

新田義貞も歴戦の武将である。
それゆえ、児嶋の提言は適切だと判断した。
逡巡(しゅんじゅん)する義貞に児嶋はある策を提案した。

それは、比叡山に依頼し、
男山で奮闘している北畠顕信(あきのぶ)
救援に向かわせるものであった。

この提案を”諾(だく)”とした義貞は、
高徳を比叡山への使者として向わせた。
比叡山は先年共闘したこともあり、快諾した。
そこで、義貞は弟である脇屋(わきや)義助(よしすけ)
大将とする新田軍の一部隊を男山へ向わせた。

これを知った、男山を攻めていた高(こうの)師直(もろなお)は、
あろうことか清和源氏である足利氏の氏神を祭る
男山八幡宮に火を放った
のである。

この放火により男山に立てこもる
南朝軍は混乱を来たした。
そこへ、師直が指揮する足利軍が突入したため、
北畠顕信を始めとする南朝軍は吉野へ潰走した。

脇屋義助は、男山陥落を聞いて
北陸へと引き返した。

このつかの間に斯波高経は
足羽(あすは)七口(ななくち)と呼ばれる
7つの砦郡を築き、黒丸城の守りを固めたのである。

さらに、新田軍に参加していた平泉寺
足利側へ寝返らせ、足羽七口の一つである
藤島砦を守らせたのである。

義貞としては、宿敵である斯波高経を討ち取り、
北陸、上越、下野を新田一族の支配下とすることで
単独で足利軍と対等に戦えると考えていた。

その高ぶる思いを胸に秘め、
義貞は、全軍に足羽七口への進軍を命じた。
しかし進軍中にまたもや、吉野の後醍醐帝より
「京奪還の催促」の勅使が来たのである。

楠木正成を亡くして以来、
義貞は、正成の分も後醍醐帝の守り刀
として戦うことを自身に誓っている。
ために彼は、帝の要請に応えるべく焦慮を覚えた。

足羽七口に着陣した新田軍は、
中央砦と両端の砦を一斉に攻撃を開始した。
この両端の一方が、足利方へ寝返った
平泉寺僧兵が立てこもる藤島砦であった。

戦いは熾烈を極めた。
中でも、平泉寺僧兵は降伏もできないこともあり、
藤島砦の防戦は頑強であった。

業を煮やした義貞は、藤島砦を督戦するため、
わずか50騎を率いて出向いた。

しかし、その途中の燈明寺(とうみょうじ)畷(なわて)にて
藤島砦の援軍に向っていた
足利方300騎と出くわしてしまったのである。

この時、新田勢は盾どころか弓すら所持していなかった。
しかも、地勢が畷(田のあぜ道)であったため
新田勢は動きが取れず、次々と射落とされたのである。

これに激高した義貞は、
駿馬であることを頼んで、
田を一飛びに飛び越え、
敵陣に切り込もうとした。

しかし、義貞の馬は数本の矢が射られたため、
田を飛び越えることができず、
田に馬脚を取られ、義貞を田に投げ出された。

その時である。
敵の放った一本の矢が、義貞の眉間を貫いた。

新田義貞 享年38歳。

ここに南朝は柱石と頼む武将を全て喪ったのである。

義貞の死を聞いた北畠親房は、
大将にあるまじき軽率な行動と批判し、
こうつぶやいた。

「させることなくして、空しくなりぬ。
 (それほどの功もあげることなく、死んでいった。)」

しかし、義貞の息子達は成長し、
足利軍、とりわけ鎌倉公方(くぼう)の脅威となったのである。

次回、「結城宗広の大志」を書きます。