北畠顕家編ー第8回 鎮守府大将軍 対 奥羽管領 | 奥州太平記

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宮城を舞台にした歴史物語を描きます。
独眼竜こと伊達政宗を生み出すまでに
多くの群像が花開き、散っていた移り行く時間を
うまく表現できるように努めます。

とりあえずは、暖かい目で見守ってください。

都に凱旋した官軍諸将には
朝廷より恩賞を下賜された。
奥州軍の主力であった結城宗広は、
勅語だけでなく”鬼丸”の名刀を賜った。

さらに鎮守府将軍・北畠顕家には
右衛門督・検非違使別当を兼任させ、
さらには『鎮守府将軍』の称号を許されたのである。

しかし、この間に足利尊氏は、
斯波(しば)家長(いえなが)
奥州管領(かんれい)』に任命し、奥州へ派遣した。
家長は、顕家不在の隙に奥州各武家へ
反朝廷工作を行った。

この結果、奥州は燎原(りょうげん)の火ごとく
陸奥将軍府に反旗を翻す武家が続出したのである。

まず、津軽で火の手が上がった。
これには、顕家の幕下(ばくか)の
南部師行(もろゆき)
先に北へ帰還し、討伐へ向かった。

さらに奥州武士団の一翼を担っていた
相馬氏が反旗を翻すに及び、
ついに北畠顕家は奥州軍全軍をもって
陸奥へ帰還する
こととなった。
延元元年(1336)3月、尊氏を打ち破ってから
一月も経っていなかった。

奥州軍は東海道を下り、
行く先々で、斯波家長が指揮する
足利軍と対峙した。

顕家率いる奥州軍は、
相模(神奈川)、武蔵(東京)、下野(栃木)
連戦連勝するも、家長や相馬氏の抗戦により
奥州への帰還が予定より
大幅に遅れてしまったのである。

そんな顕家が宇都宮城へ入城した際、
思わぬ吉報が舞い込んだのである。

相馬一族のほとんどが宮方に反旗を翻す中、
相馬胤平(たねひら)が、
相馬一族からただ一人離脱し、
足利方の数城を落して参陣したのである。

これには顕家を始めとする奥州軍は、
歓喜し士気を著しく鼓舞した。

そしてこの余勢を駆って、
相馬氏の本拠である小高(おだか)城を落とし、
京を出立して約2ヵ月後、
陸奥将軍府・多賀城に凱旋した。

そして奥州統治を再開させようとした矢先、
信じられぬ凶報が伝わる。
足利尊氏、大挙上洛。
 楠木正成、迎え撃つも討ち死


陸奥将軍府は京で何が起きたのか
直ちに確認を取ることとなった。

次回は、「湊川(みなとがわ)の戦い」について書きます。