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あべ尚乙美オフィシャルブログ

あれから10年

石巻市、いわき市は私の故郷。
初めて話すことですが、
あの日、渋谷にいた私はテーブルの下に
潜り込んで揺れが収まったあと
「生きてる、、、」と安堵で涙をした。


というのは、
1、2ヶ月前から【3】と【11】という数字が
私の目に入ってくるようになっていて
その偶然の多さに不気味さを感じるくらいで
友達にもそのことを話していました。

2日位前に地震があり、
そこから話が発展して大地震が起こった場合の
対策まで話していました。


また、この日、
後輩と会う予定になっていました。
私のスケジュールの関係で
後輩からの飲み会の誘いをずっと
延ばし延ばしにしていてなかなか日にちを
出さない私に見兼ねて、
後輩が日にち指定で予定の確認がありました。
それが、3月11日。
渋谷の予定が終わってから会う予定でした。

この日を指定された時も、実は友達と
「キター、何これガーン」って。



そんなわけで、地震が起こった時
私は死ぬのだと思ったのでした。

なので「生きてる」と知って
恥ずかしながら周りに人がいましたが
その場で涙が溢れてきました。


幸いにもその場は立派な建物の中で、
勉強会で、主催者様から至れり尽くせりで
その場所で一夜を過ごすことが出来ました。


何が起こっているのか、
どうなっているのだ!

テレビからは
信じ難い映像ばかり。


それから
親戚の叔父叔母達とも連絡つかず
物資を送りたくても届かないという実情で
何もできないまま。。。


しばらくして連絡もとれ
後から色々と話を聞かせてもらいました。
あの日あの時、どんな行動をしていたか
どんな想いをしていたか。
これが実際に関東で起こったら
どうなっているのか、自分は何をしているのか?
沢山のことを想った。


そういう時こそ、強くなくては、、、
いや、気を張って今自分にできることを
しているその強さと弱さの共存の現実、
何もできない自分の不甲斐さを知る。
考えても考えられない。

だからこそ想いが強くなりました。


私がデビューしたのは2014年。
3年経った街はまだまだ復興とは
ほど遠い状況でありましたが、
親戚一同の皆様のあたたかい応援、
先祖からくる想いから
行動できる深い愛を沢山感じささてもらい
沢山教えていただきました。



毎年この日がくると思い出すのは
その状況にあったのに
ここまで人は人に愛情を与えることが
できるのか、、、。
と、思うことが沢山あった東北でのお仕事。




あのメッセージ的な数字は未だに
何だったのかはわかりませんが
とにかく「生きている」
「生かさせていただいている」


あの震災も何の意味があるのでしょう。
なぜこんなにも悲しい出来事が起こるのか
怒りさえおぼえる。

でも、それが、人生なんでしょうね。

辛いけど悲しいけど
与えられた使命と受け止め
生きなくてはならない。


お亡くなりになられた方々には
改めまして
心よりご冥福をお祈りいたします。


この3月11日の震災当時のこと、
それから一年、二年、、、、
3月11日のことをこうしてブログに
書くことはありませんでしたが、
10年という節目に改めて
想いというものを綴りたいと
思いました。


もう前へ進んでいます。
忘れてはならないということではなく
忘れることはないこということ。
それでも前へ進んでいるのです。


まだ何もできない私。
恩返しができていない私。
そんな私だから書けないでいましたが
恩返しできるような人間へ
なりたいと思う。


人って

いつも寄り添いたい
寄り添っていたい
甘えていたい
甘えさせてあげたい

を定義に生かさせていただいている
生き物かもしれない。
何があっても
いつもいつも想っています。



あべ尚乙美




宮城県、福島県のお仕事日記
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