杏は普段と変わらない口調で話した。


『自分で言うのもあれですが、私は2週間後の全国大会で自己ベスト、

つまり、少なくとも大会新記録で優勝します。この中には全国に出れない人もいるけど、

出れる人は是非、自己ベストを狙ってみて下さい。って当たり前かもしれないけど・・・。

と、いうことで、自己ベストを出すにはどうしたら良いかを真剣に考えて見てください。

つまり・・・あと0.5秒とか0.1秒速く泳ぐにはどうしたら良いかを考えてみて下さい。考えた結果が

今まで言ってきた各自の課題と一致していれば問題無いと思います。ただしストイックになることが

最高の解決方法だと決め付けないで下さい。

ストイックに希望をもって奇跡を期待して泳ぐのも一つの手です。実は私はこのタイプです。

これも、あれなんですが・・・、私のタイムを短期間であと0.5秒速くすることはかなり困難なことですが,

全国レベルの選手でも、まだ成長段階の人なら0.5秒速く泳ぐことは奇跡では無いと思います。レース展開などをもう一度振り返ってみて自分で納得できる泳ぎをしてみてはどうかなと?思いました。』


貴司が口を開いた。


『言ってることはなんとなく分かるんだけど、短距離にレース展開もクソもないっしょ。』


杏が返した。


『人それぞれだと思う』


貴司は引かない。


『俺は無心で泳いだ方が速いと思うけどな。遅いやつほど死ぬ気で泳ぐべきじゃない?

それに、レース展開を作ったところで、自己ベストが出る保障なんてどこにもないぜ』


『うん、でも泳いでる本人が一番分かることだと思う。その辺の感覚は。』


陽介が割って入った。


『先生が見てたら怒るぜ』


『先生の為に泳いでるわけじゃないし・・・でもタイムが良ければそれが正義でもいいんじゃない?』


淳がつぶやいた。


『まー飛躍的にタイムの変化が起こる可能性はあるかもな、それは分かるよ、可能性として』


『でもさぁ、今までこうやって練習してきて、いきなり方針変えて後悔しない?5年後とか』


『でも本人が一番納得する泳ぎ方なら納得できると思う。』


貴司はまだまだ納得できないようだ。


『今はいいけど、どうせ伸びなくなるよ、そんな泳ぎしてたら。高校行って水泳やんないなら話しは別だけど。そんなの通用しねーよ。小手先なんだよ発想が』


『小手先って言われればそうかもね・・・、でもね別に私達そんなに3年後とか考えて泳いでないし』


『いや俺は先を見てるよ。夢のあるようなこと言ってるけど、夢がないのはオマエの方だぞ』


綾が”オマエ”に敏感に反応した。


『オマエとか言うなよ』


綾は続けた。杏が代弁してくれていたが、綾は多分、泳ぎが私と一緒のタイプなのだ。


『例えばミュージシャンが今風の音楽を作ったら、そんな曲、10年後には誰も憶えてないぞ!って言われると思うの。それと一緒。関係ない。今をベストの状態に置く方が良くない?仮に誰もが忘れる音楽でも、今、聞いてくれている人たちには間違いなく影響与える音楽なんだよ。』


『いや、だから俺がミュージシャンなら10年後でも憶えてもらえる曲を作るよ』


『今、輝かない歌が、10年後輝くなんて奇跡に期待するようなもんじゃん。ロマンチストを通り過ぎてナルシストだよそれじゃ。』


『だから、その曲が今輝く保障なんてどこにも無いのよ。だったら10年後輝くことの方が確率的には高くない?』


『高くないし、10年後なんて無意味だよ。待てるわけないじゃん。』


最後は淳が仲裁したっけ。


『喧嘩すんなよ、とりあえず選択肢は杏のと貴司の2つって訳じゃないだろ。きっと。その2個をうまく含んだ選択肢を探そうぜ。』


『あんのかよ、そんなの』


『いや、それは分かんねーけど、そこは皆で考えるんだろーよ。』


淳の発言で笑いがこぼれ、少しはましな雰囲気になった。


初めから消去していた3個目の選択肢を皆で探し、奔走していた。



気づけばもう全国大会だ。


そう、こやって喋っていた彼女の口は変形し、最速で泳いでいた爪は全部剥がされていた。

マリーンが良く甘えてキスしていた口はもう開かない。




朝8:00、グラウンドを走っていた。


昨日杏と話したことで、私の目的意識は研ぎ澄まされていた。


上級生になり、度々サボっていたランニングだが、大会までにできることはやっておきたい

と思い、いつもなら絶対やらないダッシュを交えながらウォームアップをしたのだ。

ほんと都合のいいやつで、直前にならないと動き出せないのはテスト勉強でも

一緒だなとも感じていた。学習能力の無さには自分でも呆れる。


これを機に変わりたい、そうも思った。


とはいっても、心はクリアで晴れ渡っていた。


練習自体は9:00から始まり、それまでに各自で校庭を3周し、体操、ストレッチ、着替えを終えておかなければならない。

9:00からキャプテンの貴司が今日の練習メニューを発表し、シャワーを浴びたらすぐに泳ぎだすのだ。


今日のメニューは泳ぐ距離は変わらないが、インターバルタイムが幾分長くとられていた。


昨日まで心肺的に極限まで追い込むような厳しい条件のメニューだったが、


これからは、溜め込んだ乳酸をゆっくり減らして行くようなメニューに移行するようだ。


これは昨年まで顧問の宮崎が行っていた手法で、貴司は継承していた。


貴司はこの切り替えの時期が、大会の2週間前からだったか1週間前からだったかを


憶えてなかったらしく、淳や陽介と相談して決めていた。


練習メニューの前半は宮崎時代とほぼ同じで、基本メニューである。


ウォームアップして、15分間ゆっくりと継続的に泳ぐメニューをこなした後は


自由形の練習に入る。大体、100M×8本を3セットこなすのだ。


3セットとは、キックのみ、手だけで泳ぐスイム、キックとスイムを合わせたコンビネーションだ。


貴司が日々コントロールしていたのは、そのメニューを何分で泳がすかということだ。


100Mの練習が終わるとこの200Mバージョンを3セットこなし、基本メニューが終わる。


貴司がミーティング時点でメニューを発表しない場合は、この基本メニューを終えた後で


一旦プールから上がり、後半の各自が専門とする泳ぎの練習メニューを軽く打ち合わせた。


専門の泳ぎについて貴司はあまり深く干渉することは無い。


種目別でコースを分けて、ある程度各コースのトップ選手に権限を譲渡していたのだ。


専門種目の基本メニューとそれを回す時間については深く首を突っ込んできたが、


それ以外は、現在抱えている問題を克服する為の種目別で徹底する課題と、個人レベル抱える課題を


軽く口頭で発表させて、基本メニュー以外はコース別で練習を組むようになていた。


ただし、毎日新しい課題が生まれるわけでもなく、毎日その日の課題がその日に完璧に解決する


わけでもないので、ある適度、成果がナアナアになっていた部分はあった。


つまりは各自で問題意識を持たないと、その場しのぎの口先だけの課題を持つか、


強く根付いている宮崎の水泳思想に照らし合わせた際の自分の至らない課題を


なんとか見つけるという、2パターンにおちつくことになる。


大事なのは自己ベストを出すことだと考えていた私は、まもなく行われる個人課題の発表の際に


その旨を伝えようと待ちわびていた。


あろうことか口火を切ったのは杏であった。




『そう延命したいの』

『あの、入りの50Mが硬いっていうのはあるかもね。とばして泳ごうという意識が強すぎるんじゃない?

意識的には最初の50Mは捨ててもいいんじゃないかな。飛び込んだ後って、頑張らなくても頑張るでしょ。

特に短水路の25Mプールなんてあっという間だよ。ここで力まずに頑張れば後半のキックも弱らないと思うよ。だからもう少し延命の余地はあるかもね。』

『あぁ、かなり力んでるのかも。もしかしたら。』

『どっちかっていうとキックじゃない?由香が弱いのって?自覚ある?』

『私は間違いなくキック。腕の疲れは、そんなんでも無いもんね。

特にフリーでは後半キックが打てなくなるかも。

ストローク数が変わってくるのは、腕の疲れよりキックだなぁ。そもそもビート板キック苦手だし。』

『足首の問題だよね、それ。うーんそれは今更治らないかもね。でも治ったら爆発的に速くなるかもだけど。今は延命を考える方が無難?かな?まぁでも大会までストレッチは一緒にやろうよ』

『うん、ありがと。』

『で、本題だけど、私はいいと思うけどな、速く泳げる方で。ってか、やっぱ欲しいのは

自己ベストであり、メダルなわけでしょ?宮崎の絶賛は要らなくない?』

『うん』

『あとは、まぁ学校で表彰されたいとか・・・そんな感じでしょ?

後悔という点では、ある種限界に挑戦する的なドリーミンな泳ぎは出来ないことかなぁ。

もちろん理想はやっぱりあるけど、でも私だって多少そうだよ、人によってその量が違うかもしんないけど。

オバサンくさいかな?でも必死に成る程、そういう矛盾にたいなものを感じるんじゃないかな、

皆そうだよ、きっと』

『アタシってもしかしてピュア?』

『自分で言っちゃったよ!でもトータル志向でいいと思うよ、最終的なタイムが速ければ。

あとは最初リラックスすることと、いつも失速するポイントでのイメージをはっきりさせることじゃない?』

『なんか、かなり解決した。』

『宮崎、レース見にきたら面白いのにね』

『それヤバイって。』

『嘘だよ。とりあえず明日皆でも話してみようよ、リレーもあるし』

話したら、あっけなかった。

明日、仮に皆が違う意見を持っていても、

杏がこう考えてくれていることは私にとってとて大きい。

杏も私もテンションが高いままいつもの場所で別れた。

杏がこの世から消えてしう、ちょうど2週間前の出来事だ。

バンドのMDを貰って家まで歩いていた。


私はここぞとばかりにそれとなく例の話を持ちかけた。


『あのさぁ、基本的に短距離って前半からとばして泳ぐじゃん、

杏は何Mぐらいまでもつの?』


『えっ、うーん400Mは無理っぽいな。200のフリーなら175Mぐらいまでは粘れるかな?

後は気合で泳ぐ。いや、150Mぐらいかも、ヤバイ』


『で、ラップタイム見ると?』


『ラップはね、わりとまともなタイムなの。50M×4で、やっぱ3ラップ目は少しおちるかも』


3年目にしての新発見だ。それなりの泳力があった私はストップウォッチで他人のラップタイムを測定する役割などやったことが無かったのだ。


彼女の少しはほんの少しなのだろうが、妙な親近感が沸いた。


『杏でもやっぱ、そういうのあるんだね』


『当たり前じゃん、超ゲロゲロだよ。どうして?』


『いや、杏って自己ベストっていうか、新記録っていうか、出すじゃん。

ってことはだよ、基本的な泳力がアップしたのもあるんだろうけど・・・何か工夫してる?

イメージを持つというか・・・宮崎は最初からガンガンいけ!って言うじゃん、あれどういう意味?

そのままの意味で考えるとレースのイメージなんて作る必要なく思えて。とばして泳げってことなの?』


『・・・・・・』


杏は一瞬沈黙した。変なこと言っっちゃったかなと焦ったが、素直に告白することにした。


『なんかそういうのってレベル高いなって思って。100Mなら泳ぎきれるけど、

200Mとなると後半失速しちゃうんだよね。それって損かなって?思いはじめて。』


『なによ、答え出てんじゃん!まぁどっちが正解かは分からないけどねぇ・・・難しいよね。

私が指導者なら何て言ってるんだろう。確かに泳力的にかなり完成されてないと

200M以上のレースで前半から突っ込むのは危険かもね。でもブレストは結構いけんじゃない?』


『ブレストはやっぱ150M以降、どれだけ伸びるかだと思う。』


『あぁなるほど、それを延命するには・・・か』


失速ポイントを150M以降に延命させる策を杏が考えてくれた。


宮崎の言葉に対する杏のはっきりした解釈は未だ聞けていないが、


私のことを考えてくれることが嬉しかった。


それまで何もなかった風景に幾つもの色が散らばった。

よく見てみると、青い鳥が飛び、緑が生い茂り、黄色の花が咲き、

私は白濁した水溜りを除けることなく黒いブーツを鳴らして歩いていた。


遠い空には虹も見えた。

しかし、間もなくすると、色付いた風景を消し去るような


眩しい光が天からふりそそいだのだ。

このまま目をあけていたらどうなっていたのか?

それは分からない。新しい世界が待っていたのかもしれないが

私は反射的に目をつむっていた。


我慢できなかったし、正直恐かったのだ。

まるでパソコンを終えたときのモニターのように目の前が真っ暗になり

我にかえった。

目の前には燈色の空とバンドマンがいた。

隣にいた杏は初めて聞いた曲にもかかわらず、

ボーカルの声をなぞるように口ずさんでいた。

たった数十秒の出来事だったようだが、杏は音楽に

私は自分に没頭していたようだ。

この夕焼け色を砂時計の容器に入れて持って帰りたいな、

そんなことを思っていた。

そして、少しすっきりした気持ちで私もバンドの演奏を聞くこととした。

あのことは後で杏に相談してみよう。

バンドが星座について歌っていた。