評価は他人がするものだ!? その2 | 工事中

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先週、「評価は他人がするものだ!?」というブログ記事を書いたところ、その記事のアクセス数がかなり伸びた。

 

評価は他人がするものだ!?

 

これは、このタイトルがより多くの人の心を捉えたことを意味する。すなわち、「評価は他人がするものだ。」と言う表現に対し、多くの人が何かしらの感情を抱いているということの証であろう。

 

ということで、調子に乗って、続きを書いてみる。

 

大学に入学したあたりからか、「評価は他人がするものだ」という言葉を私に対して言う人間が周囲に出現するようになった。

 

これを言われるたびに、確かにその通りだと思う一方、常に何か引っかかるものがあった。


私はこの心の引っかかりに真摯に向き合うことにより、最終的に、「評価は他人がするものだ」というのは真実である一方、それをあえて人に対して口にする人は評価できないという結論に至った。

 

この理由は、仮に、ある人が私に対して「評価は他人がするものだ」と言ったとすると、その瞬間、私は、その人は少なくとも極めて私のことを低く見ており、それと同時に思慮の浅い人間である、という判断を下さざるを得ないからである。

 

実は、私も、周辺の多くの人間を評価していない。別にこれは、私が周囲の人より優れていると思っているという意味ではない。そもそも、自分以外の人間を理解することは難しく、ましてや正しく評価することなど不可能であると言う考えに基づいている。これについては、ほぼ確信している。

 

にもかかわらず、そんな私に対して、常に「評価は他人がするものだ」と言い放つと言う人がいる。


その人は、おそらく、何らかの経緯で、ある評価基準を絶対的に正しいものと信じるに至っており、私がその基準に合っていないことを指摘しているということになる。


だだ、その人にら悪気がなあのかも知れないが、やはり、私にはその思考が理解できない。

 

私は、世の中には、絶対的な評価基準など存在し得ないという考えを有している。これが正しいのかどうかはわからないが、少なくとも、「評価は他人がするものだ」と私に言って放つ人間には、目の前にいる私が異なる評価基準を有している可能性を見落としていることは確かである。

 

そして、もう一点。「評価は他人がするものだ」と他人に言えるその人は、自分が周りに評価されているという自信を持っているのと同時に、私のことを評価していない、下手すれば極めて馬鹿にしているということが透けて見えてしまう。

 

私は、少なくとも、自分を軽んじている人に積極的な支援を提供できない。それどころか、もし将来、逆に自分の評価がその人に影響を与えるような場面が来たなら、ここぞとばかりに、こちらも自分の評価基準を一方的に押し付け、厳しい評価を下すことになるだろう。「評価は他人がするものだ」と私に言ったのである。当然の対応だ。

 

これは、私個人の考えに過ぎないのだが、他の人も大体このような結論になるのではないだろうかと思っている。

 

「評価は他人がするものだ」と誰かに対して言って放ついう行為は、その相手を高確率で敵に回すというのはほぼ間違いない。このようなことを、想像できていないとすれば、それは思慮が浅いという判断にならざるを得ない。


逆に、想像できていた上であえてそれを言っているとすれば、それはそれでタチが悪い。相手を極めて見下していることとなり、やはり、絶対に許せないということとなる。

 

とまぁ、私は、「評価は他人がするものだ」と言う言葉に否定的でありながら、それを口にする人の評価を偉そうに書いてしまった。とはいえ、彼らに限っては、他人から評価されることの覚悟ができているはずなので、問題はないであろう。