エア・マックス
KY という言葉があるそうである。これ自体もはや さほど新しい言葉ではないようである。
K(空気) Y(読めない) というのだそうだ。とりあえず、この言葉をストレートに会話に応用している人がいないところを見ると、流行しているとは耳を疑う。
誰が発明したかは知らないが、大層しょうもない発明である。最初に言った人はそれなりに とんち が利いていて面白い人だったかもしれないが、これが広く流行語とされている現状(?)はとんちもユーモアもあったものではない。じっさいに使っている人種があるとすれば、小中学生でなけりゃ、ほかはクルクルパーである。
空気を読む、というのは最近のキーワードのようである。KYなんかよりも寧ろ、略さないほうが流行語大賞最有力と思う。何かにつけて、空気、という言葉が耳につく。雰囲気、事情、心情、などの複数の人間の間に介在するものの総称だろう。
仕事の上司との付き合い、合コンでのノリ、取引先のご機嫌、客の興味、なんにでも当てはまる。便利な言葉である。昔からあった使い方とは思わないが、これも最近の言葉の解釈のひろがりによるものだろう。
最近、面倒な奴のレッテルは、もっぱらこうした空気が読めない人間に貼られると相場が決まっている。
空気が読めないのは、もちろんめんどくさく、付き合う気にならない。仕事場でも厄介者である。反対に、付き合いやすく、使い勝手がいいのは、当然 空気が読める 連中である。
空気が読めない奴は、空気の存在に気づかない未開の土人であり、屈託のなさに同情の余地があるというか、中にはまあ仕方ないか、と可愛げが生まれる奴すらある。
本当に困ってしまう悪性なのは、空気が読めると勘違いしている空気の読めない奴である。これには手を焼く。めんどくさいことこの上ない。そういう奴に限って「あいつKYですよね」なんて言って、擦り寄ってくるのだ。めまいがしてくる。
それでも、ついつい、「そうだよねえ」と軽く相槌をかます私は、空気が読める、というより、臆病で卑怯な八方美人です。
たまには小説を少々
趣味については先日すこし書いた。根暗のご多分に漏れず、読書もそのひとつである。決して独唱ではない。独唱を趣味にする男を知っているが、ひとりでカラオケボックスに通うのだという。私には動機も快感も理解できないが。
学生の頃は、いわゆる文学が好きで、明治大正昭和の近代文学の王道を読んで過ごした。思えば典型的過ぎてここに書くのも恥ずかしい。最近でも、本をたまに読むとすれば、そうした本を読み返したり、読み残した名作を漁ったりする程度である。
ここ5年くらい、ちょっとした文芸ブームである。芥川賞を若い人がとったり、小説の映画化がさかんだったりするためだろう。映画化は、世界的にすぐれた脚本、ストーリーが枯渇していることにもよる。ミーハー的に小説が騒がれることになり、あまりいい気持ちがしないのは事実だった。
そういったひねくれた根性から、テレビや雑誌で話題になる 流行作家 の作品にはとんと疎くなってしまった。東野圭吾とか、吉田修一とか、yoshi(?) とかまったく分からない。古いものが良い、なんていうのは意固地な爺婆のいうことで、それこそ頭が固いだけのことのように思えたので、ツタヤの新刊コーナーにでも行って、流行の作家の本も見ておかなくては、という妙な義務感から、ふらっと出かけたのである。
近所のツタヤはメインが当然レンタル業だから、本の品揃えは量、内容ともにきわめて情けなく、雑誌、漫画のほかは、それこそ流行の新刊がランキングされて置いてある程度だった。
はでな装丁に、さらに過激な色の帯が巻いている。いろいろと褒めちぎっているのが良く分かって、読欲をそそる。 ように努力されていた。
一冊の本が目に留まった。森見 登美彦という作家の「新釈 走れメロス」。タイトルが目を惹いた。手にとって少しめくると、どうやらいろいろの短編の名作を、現代風にアレンジしたものらしい。元ネタをちりばめているらしく、興味がわいたので買うことにした。しかし、帯がすごい。帯 というより 化粧まわし である。色はどぎついオレンジで、でかでかと絶賛の嵐の文字が躍っている。極めつけは、「めざましテレビで紹介!絶賛!」みたいな軽薄なコメントである。弱ったな と思ったが、使命のような気がして、めげずにレジへ持っていった。案外高いものだ、1500円くらいした。新刊はこんなに高いのか。それで100万部売れる作品があることに意外を感じた。
「山月記」はなかなか面白く読んだ。ほかの作品は、ふざけすぎたきらいがあった。最後の「百物語」が少し楽しかったくらいだった。試みは良かったが、遊びすぎたのだろう。文章は上手な部類だと思った。とにかく読みやすかった。流行作家は読みやすいのもポイントだと思った。
読後感はよく言って爽快、しょうじき後味はなかった。第3のビールの飲後感に似た空虚さがある。自分の正しさを確認したような気もしたが、寂しいのは事実だ。もう少し飲んでおなかいっぱいにしてからでないと、いろいろ言うのは止したほうが良いと思う。
あとで知ったのだが、森見 登美彦 は非常に売れっ子の作家で、「夜は短し歩けよ乙女」という作品でブレイクした人のようだ。その本は私でも名前を知っている、大変評判の作品である。そのうち見てみようとは考えている。
いろいろとこねくり回してみたあとで思うのは、まあ、一杯のプレミアムモルツのほうが旨いに決まっているということだ。これは呆けた爺婆の思い込みなのだろうか。
ザ・コメディ・ムービー②
私は映画館が好きだ。映画も好きだが、映画館はことのほか好みである。
昨日、封切り直後の映画を映画館へ見に行った。文句ない、古典的なコメディ・ムービーだった。文句ない、というと少し嘘かもしれないが、満足のいく楽しい映画だった。あなたもスノッブの一人ならば予想できる、あの監督の映画である。
ここで書くのは、映画の内容とは関係がない。ましてや、トイレとも関係がない。もちろんトイレは行ったが、ゆるい坂の上にあるそれは、乾燥機に勢いがなかった。やむなく、しわくちゃのハンカチを僅かに湿らすのだった。
映画は封切り直後ということもあり、大変混雑していた。最近のシネコンの流れに乗ったか、この映画館も全席指定席になった。チケットを買うのにやたらと時間がかかる。客層も変わった。そういうことに文句を付けたくなるのは、心が狭くなったからなんですよ、知ってました?人間心が狭くなるのは簡単、易いんです。
それはそうと、傑作なのは 隣の客 である。客層が変わった、といったが、それは面白さを増す因子にはなり得ない。新しい客は、つまらぬそこらへんの くるくるぱー なのだから、あまり面白くはない。 クルクルパー は少し喋って、少しからかってくらいでないと、少しの味もしないのだから。
すなわち、私の言いたい隣の客は、かつてから、存在する、映画を好んだばかりに社会からずれている、あるいは好きすぎて見ると変になってしまう、少し変わった人々である。けっして、早口言葉とは関係がない。
彼は、長身、恐らく1メーター80はあるだろう、組んだ膝が異様に高かった。
彼は、ひどく濃い ひげ をあごに蓄えていた。横目につくほどである。
彼は、当然、私と一緒でひとりぼっちで座っており(私たちふたりの左右にはひどい顔をしたカップルが鎮座ましましていた)、おたがい一生交わることのない空気をまとっていた。
その彼が、およそくだらないギャグに、ひとり笑うのだ。ふふん、ではなく、わっはっはっ、と笑うのだ。私も映画館で楽しければ笑う。しかし、くすくす、ふふん、はっはっ、程度である。
彼はその立派なひげを震わせてワイルドに笑う。
何者なのだろう。確かに彼は、英語を聞いて笑っている。私はそこまで達者ではないが、おおよそ笑いどころは分かる。彼はたしかに、英語の台詞回しを笑っていた。
うらやましかった。彼の豪胆さが。年も違うが、私はああいう風に映画館のシートに身を置くことはないなあ、と思った。いったい何者なんだろう、なんていう名前なんだろう、何をしている男なんだろうか、いい年だが奥さんでもいるのだろうか。
世の中には、変な奴がいっぱいいる。変な奴、というのは、自分がすこしも変だと思っていない人間のことである。私はそんな奴らが大好きである。しかも、絶対に私の人生とかかわりのない人々である。
そういう自覚のない奴がいちばん面白いのだが、彼らはそれに気づいていないところが、また皮肉である。
私は自分を人一倍、不自然な、変な人間だと疑っているが、自覚があるせいか、ほんとうに私のことを変だと言っている人を見ない。 と私は思っている。