WE NEED COMEDYのブログ -4ページ目

プッツン!

まったく、民主党小沢一郎氏のセンスには頭が下がる。政治生命をかけて、流行語大賞を狙っているとしか思われない。政治家のみなさんが、くそ真面目になっている最中に、ぷっつん、とはすごい。彼は熱病に冒されていかれちゃったのか、ごつごつの強面ユーモアなのか、とにかく、今年最大の名言だろう。インパクトは大きかった。


対する福田首相も負けてはいない。彼も独特の おかしみ を持った巨人である。この騒動をしかけたと目される、政治家としての恐ろしい手腕とは対照的な、いかにも間の抜けたお顔をしていらっしゃる。顔の3分の1にも及ぼうかという長大な鼻の下。寝ぼけ眼で、歩くときは手と足のタイミングが合わない。コメントも、小泉前首相のような明るい透かしではなく、落ち着いた口調のシュールな芸風で売っている。官房長官の頃からいちもくおく存在であった。


政治家という、堅物の代表格にすらユーモアが求められている時代なのか、おじさんたちが必要だと勘違いしているのか、ふざけた発言が多いように思う。そりゃあ、ユーモアっていうのはギャップがあれば受けやすいから、えらい真面目そうな人が、ふと とぼけたことを言ってみたくなる気持ちもわかる。昨今のお笑いブームも少しおじさんたちを誘惑したかもしれない。杉村議員がなりたての頃は、馬鹿な発言に国民は笑い転げた。たけし軍団が県知事になる時代である。


堅物は堅物でも良いような気がするのですが、どうも表に出る人は、時代に大衆に媚びてしまうようですね。もっとむちゃくちゃな人がでてきても良いような気がするのですがね。まあ、大衆に政治を飽きさせないのはこうしたスキャンダラスな発言であることも皮肉です。

守屋さんも、ゴルフネタでひとつジョークを飛ばさないものか、こないだの証人喚問は見ものでしたが、なんなく終わっていましたね。どこかの党のおじいちゃんが、ぐだぐだな質問ぶりで、追及の手が弱まってしまったのが傑作だったことしか覚えていません。

ザ・コメディ・ムービー③

仕事に余裕が出てくると、いろいろ好きなことがしたくなる。というか、自分の趣味って何だっけ、となる。トイレについて云々するのはさておき、映画について。


もっと若い頃、っていってもまだ若いですが、高校生とか、中学生の頃は映画マニアが好きな映画が好きだった。とにかく、大きな映画はきらいだった。人気のある映画を軽蔑して、単館系の映画を見てはひとり悦に入っていたのだ。じっさい、そういう映画はおもしろいに決まっている。しかし、如何せん内容が地味、あるいは反対に過激過ぎる傾向にある。


映画マニアは、私の主観であるが、ホラーやバイオレンスがお好みのようだ。私もひとかどの映画マニアを目指していた頃、バイオレンス映画に浸っていた時期もあった。マシンガン乱射、血がドバー、ゾンビだ、ジェイソンだ、チャッキーだ。考えてみるとまったく馬鹿らしい。意気地なしの私は、どうも怖いシーンは身構えて見ていたから、映画を見た後はきまって肩が凝った。


青さが取れて、気持ちが穏やかになってくると、怖いやつとか、難しいやつは敬遠するようになって来た。やはり、笑えるやつがいい。せっかく映画を見ているんだから、楽しくなきゃあいかん。と思ったりするのだ。どんどんシンプルになっていく。年とって呆けちゃうのもこの延長のような気がする。


いわゆるコメディ、は好きだ。チャップリンは昔から好きだったが、ウディ・アレンも大人になるに従って、良さが伝わってきた。最近のお下品おバカコメディもきらいではない。


この週末、「ヘア・スプレー」を見てきた。おでぶちゃんが歌って踊る快作だ。トレイシーという名の肥満少女が歌とダンスでローカルテレビに出る夢を果たし、恋も成就させちゃう、うっかりすると腹の立ってきてしまう、楽しい映画である。デブメイクでこれまたデブの母親をパワフルに演じたトラボルタや、さすがの怪優ウォーケンももちろん笑えたが、やはり主演の女の子が良かった。

顔が愛らしいのや、赤ちゃんみたいな手足のむちむちぶり、お肉ぶるぶるダンス、どれをとってもなかなか素人、つまりノー特殊メイクであれはすごい。

何よりほほえましかったのは、彼女の初々しさである。彼女はじっさいに歌いながらアイスを売るらしいアイスクリーム屋の店員だそうだ。彼女が素人からのオーディションでつかんだハリウッド出演のビッグチャンスは、映画のなかのトレイシーがつかんだローカル番組出演のチャンスと、見事にリンクする。その背景も想像すると、彼女自身も応援したくなる。

スクリーン慣れしていない目つき、動き、台詞回し、まったく、かわいくってペットにほしいくらいである。

彼女が今後どういった人生を歩むか知れない。映画の仕事を続けていくのは難しいだろう。持ち前の明るさと歌で、舞台ぐらいは地味にやっていってほしいものである。


とかなんとか、すっかりファンになっていますが、じつは私生活はすごい嫌味なデブ女だったりするかも、食べ物にうるさいウザイ女かも、とか想像するとやっぱり いやになってしまう、気まぐれな私である。





日本トイレ探訪③

今日はトイレにまつわる七不思議のひとつの話を。七不思議、というか、到底信じがたい事件のことである。

 便座の上の怪 とでも呼ぶこととしよう。数多くの報告はあれど、真相は一般に明らかにされていない。ご存知、便座の上にべったり、という奴である。便座というからにはもちろん洋式での怪事件である。


私も3回ほど目撃したことがある。嫌悪感よりも、まず、なぜ?という疑問と、笑いが同時に起こった。信じられない光景を目の当たりにすると人は笑う。


べったり が、犯人の故意か、過失によるものか、を考える。

わざと、立った場合は、これ以上の詮索は無用である。愉快犯について分析するのは、犯人の思うツボなので止しておく。べったりをしたくてならないメカニズムは、心理学者か精神科医に任せておけばよい。


問題は、過失による事故の場合である。つい、うっかり、という奴である。

ははん、そそっかしい野郎だな、まったく。


ではすまない。座って用を足しながら、その便座にべったりをやるなんて、どうかんがえても不可能だからだ。簡単ななぞなぞである。

いや、世の中なにがあるか分からない。つい、うっかりという奴はひょっとしたらあるかもしれない。

沈思に耽りながら用を足していた劇作家志望の青年に、いざという瞬間、天才的なひらめきが舞い降り、衝動的に立ち上がってしまったために起きた悲劇だったかもしれない。


もっと現実的な原因がある。

世間には、洋式の便座に腰掛けず、便座の上にまたがり、そう、高床式和式として用を足す習慣があるのだ。習慣をもつ人たちがあるのだ、しかもその数は決して少なくはない。

そうした場合には、べったりは理解可能な範囲へやってくる。和式のべったりは、技術の未熟、足のしびれ、姿勢、ちょっとした地震で説明できる。高床式和式はより不安定であり、リスクも大きくなる。


そこで、彼らがなぜそうした習慣を持つに到ったか考えると、理解できるが、私には信じがたいのである。

ひとつは、和式でしか用を足せないひとたち。これは年配の人や、生まれてこの方、和式しか知らずに育ったか、である。


もうひとつは、不潔だから、という潔癖症の人たち。これも分からないではない。彼らは吊り革を触れないくらいだから、便座などもってのほか、である。公共のトイレで用を足す、というのだけでも相当の緊急事態、大冒険であるのだから、防御策としてそれは止むを得ない。しかし、べったりは見るのもつらいと思うが。こうした人々は、同様に便座に靴で立っている人がいることを、リアルに想像できるから、なおのことこの習慣から抜け出すことはできないのである。


ほかにあるとすれば、個々の特殊な事情からである。

便座で大やけどした経験がある、とか

あまりにスリムで便座内にすっかり入ってしまう、とか

あるいは、ひょっとすると、親御さんが便座に塗られた毒で暗殺されたという暗い過去を持つ要人かもしれない。


だーっと書いてきたが、便座の上の怪 はやはり 怪事件であることには変わりないのである。考えればキリがない、今日はこの辺で。


とうぜん私はべったり率の高い公園のトイレは敬遠しています。