令和7年(2025年)9月25日㈭

横浜駅から東急東横線・東京都メトロ副都心線直通に乗りました。



使用するきっぷは

東急線西武線まるごときっぷ

 磁 東京メトロ副都心線(渋谷~小竹向原間)西武線全線が乗り降り自由


新宿三丁目で下車

外国人観光客の姿が目につく歌舞伎町

西武新宿線に乗り



小平で下車



駅を出て

緑道を歩き

小平ふるさと村へ


小平ふるさと村

江戸初期から明治時代以降の近代の建物を保管・復元、見学可能

開園時間 午前10時〜午後4時まで 

休園日 ・月曜日と第3火曜日(

 入場無料
1908年に建てられた旧小川郵便局舎等

小平ふるさと村ではマンホールカードを配布



頂きました。

東京都小平市(A)のマンホールカード










再び西武新宿線に乗り東村山へ

高架化工事中の東村山

2025年(令和7年)6月29日:新宿線の下り(所沢・本川越方面)は高架線に切り替え、上り新宿線と国分寺線は地上ホームから発着



地上の国分寺線ホームへ







鷹の台で下車



鷹の台から徒歩8分、

小平市ふれあい下水道館へ


小平市ふれあい下水道館

自由に本物の下水道管の中に入ることができる日本で唯一の施設。 下水道の役割や仕組み、歴史など映像システムやパネルで展示、 地下5階の「ふれあい体験室」では、地下25メートルの実際に使われている下水道管の中に入ることができる。

開館時間 午前10時~午後4時 

休館日 月曜(休日・祝日の場合は、その翌日) 年末年始(12月27日から1月5日まで) 

入館料 無料
小平市ふれあい下水道館では小平市(B) のマンホールカードを配布

頂きました。

館内を見学


地下25m,地下5階の「ふれあい体験室」に展示されているマンホール





小平市マンホールカード(A)の座標

小平市マンホールカード(B)の座標



下水道の「体験コーナー」へ

本物の下水道管に入ることができるのは日本でここだけ



下水道管の中へ



ちょっとキツイにおい、

あまり長くいたくない。

早々と体験コーナーの外へ





再び国分寺線に乗り

終点の国分寺へ


西武鉄道国分寺駅北口から徒歩8分 
本多公民館へ


国分寺市 本多公民館   

  

開館時間 午前8時30分から午後10時まで (12月28日・1月4日は午前8時30分から午後5時まで) 休館日 第1・第3月曜日(祝日および振替休日に当たる場合を除く)、年末年始(12月29日から1月3日まで)
本多公民館では国分寺市のマンホールカードを配布。頂きました。   

 座標は国分寺市新市庁舎の前に 設置、遠いので見に行くのはパス。
再び国分寺線に乗り

東村山へ





駅前にはこの方の像





下り新宿線来乗り狭山市へ

狭山市駅西口を出て

狭山市民交流センターへ



⑩マンホールカードの配布 ●日時 8時から22時まで ●場所 狭山市市民交流センター2階総合案内 ※年末年始(12月29日から1月3日まで)、施設の点検日は閉館しています ※狭山市役所本庁舎では、配布していません ●残数 あり ●注意事項 1人1枚まで 手渡しのみの配布となります 電話予約や郵送での配布は行いません 在庫状況によっては、お渡しできない場合があります 狭山市市民交流センター 所在地 〒350-1305 狭山市入間川1丁目3番1号 電話:04-2954-2111 FAX:04-2937-3616 交通アクセス 西武新宿線狭山市駅西口下車徒歩約

マンホール蓋は、西武新宿線狭山市駅西口駅舎沿いの歩道に設置されている。西口のペデストリアンデッキが見える位置にある。 狭山市市民交流センターの建物から道路を渡ったところとなるが、ペデストリアンデッやキを通ってマンホール蓋を見
狭山市民交流センター2階総合案内では狭山市のマンホールカードを配布、頂きました。

配布時間  8時から22時まで 、年末年始(12月29日から1月3日まで)、施設の点検日は閉館



座標は狭山市駅西口に設置



再び新宿線に乗り

終点の本川越へ





駅を出て

ぎょうざの満州へ



夕暮れの川越を歩き








帰ります。

本川越から所沢へ、池袋線には換え

石神井公園で下車




東京メトロ直通に乗り帰路に





萩城跡

山口県萩市

令和7年(2025年)2月19日㈬ 撮影


萩城跡指月公園に来ました。天守閣跡から見た眺め

※この記事の続きです。


※萩城

別名は、指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。
現在、城跡は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。萩市の観光の中でも有名である。

関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより、周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として、慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。 指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真で見ることができる。 現在、二の丸土塀や三の丸総門など一部は木造復元されている。

三角州に築城されたため、三方を海に囲まれている。日本海に張り出した指月山山頂の詰丸(要害とも呼ばれる)と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。吉田郡山城などの中世山城に見られる"山麓の館と山頂の砦"という形態を近世の最新築城術で再現したような城で、広島城を失った毛利輝元が背水の陣で築いた城として、輝元の築城理念が最もよく示されているとされる。厳密には、山頂の詰丸も本丸と二の丸で構成されており、山麓の城とは独立したものであるため、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある。


指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、南東部と北東部の隅に櫓(着見櫓と井上櫓)を配した曲輪。広さは東西約200メートル・南北約145メートルに及ぶ。正面となる南側には本丸門(内側の渡櫓門と外側の高麗門で構成される内枡形の虎口)と極楽橋(現在は土橋だが往時は木橋)を設け、二の丸との間には幅20間(約40メートル)の内堀・石垣を巡らせていた。 明治11年(1878年)、豊榮神社・野田神社を分社した志都岐山神社が建てられたほか、明治20年(1887年)には藩主別邸の花江御殿から茶室・花江茶亭も移築された。現在では指月公園(要入場料)を成しており、その他の旧跡として梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋などがある。 



wikipediaより引用












天守閣跡を下りて

岡崎櫓跡





八間矢倉跡





指月山に登るのはパス

城趾にくる前に萩市内を歩いたので体力・気力がなく





梨羽家茶室



毛利家の重臣・梨羽家の別邸茶室。 明治時代に移築された。



花江茶亭

明治時代に藩主別邸の花江御殿から移築された茶室


















志都岐山神社















石段の階段を登り

拝殿へ









萩城跡指月公園を出ました





内堀から見た天守閣跡



二の丸  

本丸と指月山を囲むように造られた曲輪。12基の櫓、34の井戸、蔵元役所、寺社(真言宗満願寺、臨済宗妙玖寺など)、6代藩主毛利宗広により東園と名付けられた回遊式庭園[15]などがあった。南側と東側にそれぞれ内枡形虎口城門があり、大手門である南門は虎口内部に突き出た石垣を設けて「コ」の字型とする構造となっており、東門は外門(高麗門)・内門(渡櫓門)に加えて2つの櫓(三重の東櫓・二重の時打櫓)が設けられていた。また、菊ヶ浜の方に面した東側には渡櫓門式の潮入門やいくつかの埋門があった。いずれもの門も石垣のみが現存し、豪雨被害の修復は行われたが復元はされていない。ただし、潮入門の南側には四角い銃眼のある土塀(二の丸土塀)が昭和40年(1965年)に復元されている。地続きとなっている二の丸南側は幅16間(約32メートル)の中堀で囲まれていたが、大正15年(1926年)に指月川(橋本川の水を迂回させて水害を防止するために造られた萩疎水で中堀とは無関係。)が造られた時に埋め立てられている。 

wikipediaより引用






菊ヶ浜



菊ヶ浜から見た銃眼土堀(二の丸土堀)












潮入門跡



銃眼土堀(二の丸土堀)












萩城跡

山口県萩市

令和7年(2025年)2月19日㈬ 撮影


萩・明倫センターから歩くこと2.2km、萩城跡の入口に来ました。



駐車場から先は石垣沿いの道

曲がり角には座像

毛利輝元像

※毛利 輝元(1553‐1625 )

戦国時代後期から江戸時代前期にかけての武将・大名。安芸の戦国大名・毛利氏の14代当主。父は毛利隆元、祖父は毛利元就。 豊臣政権五大老の一人であり、関ヶ原の戦いでは西軍の総大将となった。長州藩の藩祖でもある。

wikipediaより引用








堀と入口が見えてきました。

本丸入口



後ろに見えるのは標高143mの指月山

※萩城

別名は、指月城(しづきじょう)。城跡は国の史跡に指定されている。
現在、城跡は指月公園(しづきこうえん)として整備され、二の丸入口近くに旧厚狭毛利家萩屋敷長屋(重要文化財)が現存し、松下村塾や侍屋敷などとともに萩市の観光名所となっている。萩市の観光の中でも有名である。

関ヶ原の戦いに西軍の総大将に就いたことにより、周防国・長門国の2ヶ国に減封された毛利氏が、広島城に代わる新たな居城として、慶長9年(1604年)に築いた城。完工は慶長13年(1608年)だが、築城者である毛利輝元は、慶長9年12月に未完成のまま入城していた。 指月山の山麓にある平城(本丸・二の丸・三の丸)と山頂にある山城(詰丸)で構成されている。本丸の御殿は藩主居館と政庁を兼ねており、250年余りの間、長州藩(萩藩)の拠点であったが、明治7年(1874年)前年に発布された廃城令により櫓など他の建物と共に破却され、石垣や堀(水堀)のみが現存している。現存していた頃の姿は解体前に撮影された古写真で見ることができる。 現在、二の丸土塀や三の丸総門など一部は木造復元されている。

三角州に築城されたため、三方を海に囲まれている。日本海に張り出した指月山山頂の詰丸(要害とも呼ばれる)と、その山麓に梯郭式に本丸・二の丸・三の丸を配し3重の堀を巡らした平山城であった。吉田郡山城などの中世山城に見られる"山麓の館と山頂の砦"という形態を近世の最新築城術で再現したような城で、広島城を失った毛利輝元が背水の陣で築いた城として、輝元の築城理念が最もよく示されているとされる。厳密には、山頂の詰丸も本丸と二の丸で構成されており、山麓の城とは独立したものであるため、平山城ではなく平城と山城であるとする見解がある。また、海に突出しているため、海城であるという見方もある。


wikipediaより引用

指月山を背後にした本丸御殿を中心に、南西部に天守を、南東部と北東部の隅に櫓(着見櫓と井上櫓)を配した曲輪。広さは東西約200メートル・南北約145メートルに及ぶ。正面となる南側には本丸門(内側の渡櫓門と外側の高麗門で構成される内枡形の虎口)と極楽橋(現在は土橋だが往時は木橋)を設け、二の丸との間には幅20間(約40メートル)の内堀・石垣を巡らせていた。 明治11年(1878年)、豊榮神社・野田神社を分社した志都岐山神社が建てられたほか、明治20年(1887年)には藩主別邸の花江御殿から茶室・花江茶亭[10]も移築された。現在では指月公園(要入場料)を成しており、その他の旧跡として梨羽家茶室、旧福原家書院、万歳橋などがある。 



本丸入口料金所に設置されている日本100名城スタンプを押しました
御城印も購入

萩城跡指月公園

開園時間:(4~10月)8:00~18:30、(11~2月)8:30~16:30、(3月)8:30~18:00 休日:年中無休(夜は天守閣跡の石垣などがライトアップ、点灯時間は日没~22:00通年) 

料金:大人220円、小中学生100円 ※旧厚狭毛利家萩屋敷長屋と共通券  

萩城跡指月公園に入りました。











天守閣跡へ



萩城の天守は5層5階の複合式望楼型(天守の北側には付櫓を接続した複合式の縄張りと2層2階の入母屋造の基部に3層3階の望楼を載せた構造)で、高さは約21メートルであった。外壁は白漆喰の総塗籠で、窓は銅板を貼った突き上げ戸を備える。明和5年(1768年)の修理では赤瓦に葺きかえられた。また、高さ6間、約11メートルの天守台は、非常に勾配の緩やかな裾から上にいくに従って急勾配に立ち上がっている。これは、城の築かれた土地である三角州の地盤の強度を補うため、底面を広げることで荷重を分散させる工夫である。 指月山山麓の本丸南西部に据えられた天守は、城外(城下町)からは見えなかったため、安土桃山時代以降の多くの近代城郭が持っていたとされる城主(藩主)の支配力を誇示するという役割は期待できなかったと思われる。
1874年(明治7年) の廃城令により天守・櫓などの建物を破却された。








天守閣跡を登ります。





天守閣跡





天守閣跡から見た指月山