令和7年(2025年)7月31日㈭

7月最終日は石川県金沢市から

金沢駅近くのホテルをチェックアウト
暑いですが市内をあるきます。

近江市場

香林坊

犀川大橋を渡り

にし茶屋街を通り

北陸鉄道石川線野町駅へ

北陸鉄道石川線に乗るのは一昨年12月以来



終点の鶴来へ

北陸鉄道石川線・鶴来〜加賀一の宮 2.1km は2009年に廃止。

草に覆われた廃線跡



鶴来駅前からバスに乗り

釜清水で下車

釜清水停留所から歩くこと1km以上

トンネルを越えると

一向一揆の里 鳥越

かつての石川県石川郡鳥越村(現在は白山市)
鳥越一向一揆歴史館では

続日本100名城スタンプ 鳥越城  

が設置

御城印も購入





鳥越一向一揆歴史館の前に見える山は

鳥越城跡、暑さで城跡を訪れるのばパス

再び鶴来駅へ

北陸鉄道石川線に乗り野町へ

野町からはバスに乗り

武蔵ケ辻・近江市場で下車

金沢カレーの店に向かいますが

まさかの営業時間修理!

まだ16時過ぎなのに
金沢駅へ

金沢駅構内、こちらは営業していました

ようやく食べました。金沢カレー

夕暮れの金沢駅前からリムジンバスに乗り

車窓には日本海

小松空港へ



 
羽田行き JAL

に乗り帰路に


令和7年(2025年)7月30日㈬

早朝の京急に乗り羽田空港へ

搭乗するのはJAL

JAL183   東京(羽田)705発 小松行き

富士山も見えました。

小松には定時805着

リムジンバスに乗り金沢駅へ

暑いです。

IRいしかわ鉄道・JR西日本七尾線直通に乗り

宇野気で下車、ここは石川県かほく市

かほく市役所へ

かほく市役所上下水道課ではかほく市のマンホールカードを配布、頂きました。
マンホールカードの座標は宇野気駅近く



再び七尾線に乗り七尾へ



市内循環バス「まりん号」に乗り

は1998年(平成10年)7月から運行されている、七尾市内を循環するコミュニティバスです。 東回りと西回りの2種類の路線があり、それぞれ1日8便、運行時間は9時台から16時台までとなっています。料金は全区間一律100円です(小学生以下無料)。 バスに乗って七尾城に向かうには、この「まりん号」にのり、「城史資料館前」バス停で

城市資料館前で下車

七尾城資料館へ

七尾城資料館玄関前に設置されている

日本100名城スタンプ 七尾城

を押しました

七尾城資料館にて購入

御城印

城カード

七尾城を見に行きますが

怖い坂道を歩きましたが

 本丸跡まで500mのところで「立入禁止」、能登半島地震の影響はまだありました。

迂回すれば本丸跡へ行けそうですがもはや気力がなく……

七尾城跡から見た眺め

再び七尾駅へ

上り七尾線 金沢行き

に乗り


金沢へ

金沢駅にて購入

IRいしかわ鉄道の鉄印

金沢駅近くのホテルに宿泊




令和7年(2025年)2月13日㈭  

 「令和7年2月中旬の旅」最終日3日目は高松から

特急しまんと5号

に乗り高知来ました。

1037着


※この記事の続きです。
高知駅南口前の三志士像

高地を訪れるのは一昨日9月以来



とさでんの路面電車には乗らず

高知駅北口にある

高地駅バスターミナルへ

乗車するのは

とさでん交通バス 医大日線[G6]

高知駅バスターミナル1139発 医大病院経由 領石出張所行き

医大病院線 [G6]の経路は



[G6]

G6 : 高岡営業所 → 中島 → 針木 → 朝倉駅前 → 鏡川橋 → 北はりまや橋 → 高知駅 → 比島 → 一宮バスターミナル → 逢坂峠 → 医大病院 → 領石出張所



とさでん交通で使用可能なICカードは「ICカードですか」のみ、全国交通系ICカードは利用不可。

現金にて乗車

とさでん交通バス [G6]

高知駅バスターミナル1139発 医大病院経由 領石出張所行き


に乗車、車内はほぼ満席、画像の医大病院(1203発)では乗客のほとんどが下車
1204着の学校分岐で下車、運賃670円

ここは高知県南国市



目指すは高知県立歴史民俗資料館及び岡豊城跡

高知県立歴史民俗資料館へ向かう坂道





このような坂道を登っていきます。













坂道の途中には古い民家が展示


岡豊山歴史公園に展示されている高知県津野町から移築した旧味元家住宅主屋という山村民家の主屋。
















高知県立歴史民俗資料館へ













高知県立歴史民俗資料館入口には

続日本100名城スタンプ 岡豊城

が設置

押しました。
館内は後ほど見学することにして 

すぐ先の岡豊城跡へ向かいます。 

岡豊城跡への入口には長宗我部元親像

※岡豊城(おこうじょう)

高知県南国市にあった中世の日本の城(山城)。戦国時代に四国の覇者となった長宗我部氏の居城であった。城跡は国の史跡に指定されている。
南国市街の北西部、香長平野(かちょうへいや)の北西端にあたる国道32号の西側の岡豊山(標高97メートル)に位置する。戦国時代末期に廃城となり、現在は石垣、曲輪、土塁、空堀、井戸などが残り高知県指定史跡を経て国の史跡として整備されている。また、城址の一角には高知県立歴史民俗資料館がある。 城の縄張りは最高所に本丸に当たる詰(つめ)があり、東に詰下段、二の段、南から西に三の段、四の段、更に西側丘陵に伝厩跡曲輪が配された連郭式の山城である。また、城の北東部には岡豊八幡があった。 江戸時代の史料集である『南路志』には「豊岡城」と記載され、いつ頃に現在の呼び名になったかは分かっていない。

長宗我部氏によって築かれたと思われる岡豊城は、調査の結果では13世紀~14世紀の築城年代と考えられている。 室町時代、応仁の乱後の永正4年(1507年)に管領・細川政元が暗殺された以降の細川氏本家では家督・管領職争いの抗争を続けるあまり、その直轄領である土佐でも支配力を低下させてしまう。それが長宗我部氏、本山氏、山田氏、吉良氏、安芸氏、大平氏、津野氏の「土佐七雄」と呼ばれる有力国人の台頭につながり、戦乱の時代の始まりとなった。 七雄の抗争は翌年の永正5年(1508年)に早くも表面化すると、本山氏、山田氏、吉良氏などの連合軍によって岡豊城は落城する。 従来の通説では、この岡豊城攻めの際に当主・長宗我部兼序は自刃、土佐南西部の中村の一条氏のもとに落ち延びていた兼序の子・国親は永正15年(1518年)、一条氏の取り成しで旧領に復し岡豊城に入ったことになっている。 それが近年の研究では、兼序は本山氏などに岡豊城を攻められた際に自害せず土佐国内に亡命しており、永正8年(1511年)に本山氏や山田氏と和睦して岡豊城主に復帰、永正15年(1518年)頃に息子・国親へ家督を譲ったことが明らかとなっている。 岡豊城を足掛かりに国親は土佐の有力大名へと成長し、一条氏、本山氏、安芸氏とともに土佐を四分するまでになった。 国親の子・元親の時代に長宗我部氏は飛躍した。天正2年(1574年)主家であった一条兼定を豊後に追放し土佐を平定。この城を拠点に天正13年(1585年)には四国を統一した。しかし同年、羽柴秀吉の進攻により降伏し土佐一国に押し込められた。この後、天正16年(1588年)大高坂山城(現在の高知城)に本拠を移したが治水の悪さから再び岡豊を本拠とした。しかし、天正19年(1591年)浦戸城を改築して移った為、長宗我部氏累代の本拠・岡豊城は廃城となった。

城跡は、1955年(昭和30年)、高知県指定史跡に指定された。。 2008年(平成20年)、国の史跡に指定された。 2017年(平成29年)4月6日、続日本100名城(180番)に選定された。

※長宗我部 元親(1539‐1599)

戦国大名。長宗我部氏第21代当主。国司家一条氏を追い出し、土佐を統一した。その後、各地の土豪を倒して四国を統一した。しかし、豊臣秀吉の四国征伐によって降伏し、土佐一国の領有を許された。秀吉の九州征伐、小田原征伐、文禄・慶長の役に従軍した。「長宗我部元親百箇条」を定めた。