令和4年(2022年)12月22日㈭


「令和4年12月の旅」2日目の朝は大阪天王寺から

宿泊したスーパーホテル大阪天王寺をチェックアウト、300mほど先の四天王寺へ向かいます。

雨上がりの朝

四天王寺の入口、重要文化財の四天王石鳥居のすぐ脇は四天王寺中学校・高等学校、女子校です。

ちょうど朝の通学時間帯、多くの生徒が校門に入っていきます。

このような場所で撮影していると通報されそう。石鳥居の撮影は控えます。

四天王寺中学校・高等学校の裏手に位置する中之門から四天王寺の境内へ入ります。こちらは人通りかわ少ない


画像は登録有形文化財の中之門、門の右下、「一旦停止」の看板には聖徳太子のイラスト

四天王寺を参拝、境内からはあべのハルカスが見えます。

四天王寺から天王寺駅へは約600m

JR西日本の天王寺駅に到着

ここからは今冬1回目の青春18きっぷを使用

乗車するのは阪和線、櫛形ホームの阪和線乗り場へ

*天王寺駅の駅構造 

上町台地上に位置する地上部と、それを東西に貫通する掘割部の2層構造になっている。地上部に阪和線ホームと中央コンコースがあり、掘割部に大阪環状線、関西本線(大和路線)のホームがある。かつて阪和電気鉄道が使っていた阪和線のホーム(1 - 9番のりば)と、かつて関西鉄道が使っていた関西本線(大和路線)、大阪環状線のホーム(11 - 18番のりば)とで構造的にも実務的にも分かれている。

wikipediaより引用
あまりJRの駅らしくない、大手私鉄の始発駅のような雰囲気の阪和線ホーム

*天王寺駅阪和線ホーム 

阪和線では1 - 9番のりばを使用している。櫛形ホーム5面5線の地上駅。2・3番のりば、4・5番のりば、6・7番のりば、8・9番のりばそれぞれが1本の線路を共有していて、3・4・7・8番のりばは乗車専用ホーム、2・5・6・9番のりばは降車専用ホームになっている。原則として3・4番のりばは快速列車、7・8番のりばは普通が使っている。10番のりばが存在しない。ただし、大阪環状線からの直通列車と特急列車は、15・18番のりばを使っている。

wikipediaより引用


阪和線ホーム4番線から 天王寺始発

5125M   天王寺842発 関空快速 関西空港行き・紀州路快速  和歌山行き

に乗車 225系4連+223系4連の8両編成 

画像は先頭車の225系 関空快速 
前4両の225系が関空快速、後ろ4両の223系が紀州路快速

前日とは逆ルートで和歌山へ向かうので紀州路快速に乗車

917着の日根野で関空快速(921発)と紀州路快速(923)は分割。

4両編成となった紀州路快速は列車番号を

5125M→5525Hと変えて和歌山へ向かいます。 
終点の和歌山956着 


2日連続の和歌山訪問、画像は和歌山駅中央口、今にも雨が降り出しそうな曇り空
地下通路を通り和歌山駅東口へ

駅の外から、和歌山電鐵貴志川線ホームに停車中の
和歌山駅東口駅舎

和歌山駅東口の駅前には

太田・黒田遺跡の案内板

この東口周辺には弥生時代の遺跡が発掘されたとの事

和歌山駅東口に建つ太田左近の像


像の横にある説明板によると

太田左近は、天正十三年(1585)全国制覇をもくろむ豊臣秀吉に対し、太田城に立てこもり、紀州の土豪を指揮して抵抗したという。一ヶ月に及ぶ水攻めをうけた後、最後はみずからの命を賭して城中の子女の助命を願い城を開城したという。中世紀州の在地土豪の気風を集約した人物といえるであろう  

「紀伊続風土記」や「根来焼討太田責細記」による 

太田城史跡顕彰保存会
この前日、和歌山駅中央口前地下にある「わかちか広場」の観光交流センター にて購入した

太田城 御城印

御印印を購入したならば太田城を見に行かねば

太田城跡のある和歌山市太田の来迎寺は和歌山駅から約700m

住宅街の中にある寺、来迎寺

ここが太田城跡とのことです。

*太田城 

戦国時代に和歌山県和歌山市太田に存在した日本の城。来迎寺が太田城の本丸跡と伝えられる。
太田城は現在の来迎寺・玄通寺を中心に東西に二町半(約273m)、南北に二町(約218m)と言われているが、近年の発掘調査からはほぼ二町半の四方であった。そこに周囲に深い堀をめぐらし、塁上は土壁とし、各所には高い櫓を設け、城門は大門・南大門・西北門があり、平城であるが当時の城としては強固な城造りであったと思われている。その東にあった大門は和歌山市橋向丁の大立寺に移築されている(和歌山市指定有形文化財)。太田城の戦いは備中高松城・武蔵忍城ととも日本三大水攻めのひとつに数えられる。現在、太田城周辺は開発によって住宅地となっていることもあり、その全貌を明らかにすることは困難な状況になっている。

wikipediaより引用

山門脇の説明板

太田城跡 

 ここ来迎寺は、岡山県高松城、埼玉県忍城とともに日本三大水攻めのひとつに数えられている戦国時代の太田城の本丸跡と伝えられる場所である。城の範囲は、現在の来迎寺、玄通寺を中心に東西二百五十メートル、南北二百メートルで周囲に深い堀をめぐらし、東に大門をもっていたとされる。天正十三(1585)年、豊臣秀吉の紀州攻めに際し、太田党は太田左近宗正を大将として、約五千人が太田城に立てこもり、十万余人の秀吉軍に対して強く抵抗したため、秀吉軍は城を取り囲む総延長五~六キロメートルにも及ぶ堤を築き、水攻めをおこなった。攻防一ヶ月、ついに左近ら中心人物五十余人の首を差し出すことを条件に他の者が助命されたとされる。ここから北東約五十メートルには、戦いにより亡くなった者を葬った小山塚、北東約二百五十メートルには太田城の大門があった場所とされる大門橋、北東約七百メートルには水攻めの際に秀吉軍が築いた堤跡が残っている。なお、西約一キロメートルの市内橋向丁の大立寺の山門(和歌山市指定文化財)は、この太田城の大門を移したものと言われている。


「日本三大水攻め」、初めて聞くことばです。

備中高松城、忍城は過去に訪れたことがあるので「日本三代水攻め」の城はすべて制覇?しました。

*備中高松城後はは2011年10月に訪問 


*忍城跡は2022年4月に訪問


山門を潜り境内へ

境内には太田城跡の石碑

城跡を訪れた、というより石碑を見に来ただけでした。

再び和歌山駅へ戻ります。