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ウルトラマン・Hの ひとりごと

音楽について語りたくてたまらないんです。


ウルトラマン・Hの ひとりごと


フランス・ギャル」は、1947年パリで生まれました。

本名は、「イザベル・ギャル」、シャンソンの歌手で作詞家の「ロベール・ギャル」を父に持ち、子供の頃からビッグ・ネームのシャンソン歌手達の中で育ちました。


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1963年、16才の時に「恋のお返し」でレコード・デビューしました。

これが予期せぬ好評になって、彼女は、歌手に専念するため、すんなり中学校を中退してしまいます。

レコードは飛ぶ様に売れ、たちまち彼女はアイドルになってしましました。


1965年、欧州18カ国が参加するユーロビジョン・ソング・コンテストへの出場権を獲得します。

このコンテスト、日本で言えば「日本レコード大賞」と云ったところでしょうか。

しかし、歴史あるコンテストを仕切る大人達は、「可愛いだけのアイドル歌手」と酷評して、彼女の参加を歓迎しませんでした。

そこで、彼女は、ルクセンブルグ代表としてこのコンテストに出場したのです。

彼女の唄った「夢見るシャンソン人形」は、下馬評を覆して、見事グランプリに輝いたのでした。

ちなみに、このコンテスト、テレビ中継を見た視聴者による電話投票だったそうです。


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夢見るシャンソン人形」は、「ジュ・テーム」の作者である「セルジュ・ゲインズブール」の作品です。

彼女の舌足らずでキュートな歌声が可愛いですね。


当時、仏国には、シルヴィ・バルタンフランソワーズ・アルディが双璧を担っていましたが、フランス・ギャルが「夢見るシャンソン人形」を引っ提げて登場し、その人気に迫ったと云います。


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1966年、「涙のシャンソン日記」、「天使のためいき」を続けてリリース、そして、「すてきな王子様」をリリースした頃、初来日を果たしました。


岩谷時子さんの訳詩による日本語バージョンで、「夢見るシャンソン人形」がヒットしました。

続けて「天使のためいき」、「すてきな王子様」も、日本語でヒットしています。

でも、私は、やっぱり、仏語で唄うギャルの曲が好きですね。

仏語の歌詞を日本語にするのは、ちょっと無理があるように思えます。


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シルヴィ・バルタンの「アイドルを探せ」も、やはり原曲の方がいいなあ。


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アルバムはと探してみたら、1964年にコンパクト盤がリリースされていました。

夢見るシャンソン人形」がヒットする前の年ですから、私の知っている曲は入っていませんね。


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1965年にもコンパクト盤がリリースされていますが、「夢見るシャンソン人形」は収録されていません。

「フランス・ギャル・ベスト・セレクション」と名打ったアルバムもあるようですね。


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1977年になって、「二人だけのミュージック」をリリースしました。

このジャケット写真、何だか大人びて見えますが、フランス・ギャルなんです。


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これは、1978年リリースの「誘惑のダンス」、当時のブームに乗ってディスコ調のサウンドです。


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フランス・ギャルは、当時、「小さなフランス人形」と呼ばれていました。

彼女の独特のヘア・スタイルは、若き日の「ジャック・デ・サンジュ」が手掛けていたそうです。


つづく



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ダイアン・リネイ」は、1946年、フィラデルフィアで生まれました。

本名「Renee Diane Kushner」といいます。


1962年、Pete De Angelisのプロデュースで、「Little White Lies」という曲でデビューしました。

翌年、Bob Crewe(ボブ・クリュー)が作曲、プロデュースした「ネイビー・ブルー」が大ヒット、全米ヒットチャート第6位まで上昇しました。


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当時のレコード・ジャケットが、これ・・・、モノクロの写真が使われています。

この落ち着いた雰囲気、魅力的な腰つきといい、とても17才とは思えないですよねえ。

彼女はとてもチャーミングな女性だったようで、学生時代に美人コンテストで優勝したことがあったそうです。


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ネイビー・ブルー」とは、米海軍の制服と海の色にちなんだ紺色のことです。

制服のブルーと、海兵隊の恋人が海外に行ってしまうというブルーな気持ちを架けています。


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この曲のヒットを機に、彼女のコスチュームが海兵隊ルックになり、錨のマークを好んで使うようになりました。

この時のスタイルが、彼女のイメージとして定着したようです。


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日本では、1964年に発売となり、逸早くカバーしたのが「伊東ゆかり」さんでした。

他に、「伊藤アイコ」、「九重祐三子」、「パラダイスキング」等がカバーしています。


ネイビー・ブルー」の日本でのヒットを受けて、当時、日本ツアーが企画されたそうです。

しかし、彼女は大の飛行機嫌い、結局、海を渡ることはありませんでした。


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1964年、「キス・ミー・セイラー」をリリース、全米29位のスマッシュヒットでした。


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その後、「涙のサリー」、「おませな水兵さん」とリリースしますが、ヒットには恵まれていません。

1965年頃というと、アメリカン・ポップスやガールズ・グループ花盛りの時代が、ちょうど終焉を迎えた頃だったのです。


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1970年になって、ヒットした「ネイビー・ブルー」と「キス・ミー・セイラー」の2曲がカップリングで、日本だけでリリースされました。

これは、米国では翳りが見え始めたけれども、日本ではまだまだ根強い人気があったためでした。


私のステディが 海兵隊に 入隊して

世界の海へと 船出してしまった

私の 気持ちは とってもブルーなの~♪


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ネイビー・ブルー」の歌詞の中に、「TOKYO」という言葉が出てきますが、何とも感慨深いですねえ。


この時代、来日した外タレのコンサートなんかで、「ドモアリガト」なんて片言で言われるだけで、何故か感激してしまうような、そんな時代でしたね。


つづく





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ペトラ・クラーク」は、1933年、英国エプソム生まれの歌手であり俳優です。

アルバムの売り上げは7000万枚以上を誇る、英国で最も成功したアーティストです。


母親はソプラノ歌手で、ペトラ・クラークは、1940年の若干7才で歌手デビューしています。

子供ながらにラジオの番組まで持っていたと云います。


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第2次大戦時には、同じ子役タレントだったジュリー・アンドリュースと一緒に、英国軍の慰問を行ったりしており、英国軍のアイドル的な存在であったようです。


1944年、11才の時には、映画にもデビューしています。


そして、1954年、「ザ・リトル・シューメイカー(小さな靴磨き)」がヒットしました。


彼女を日本で例えると、そう、あの「美空ひばり」さんというところでしょうか。

ひばりさんも、映画「東京キッド」の中で、小さな靴磨きの役を演じてましたよね。

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ペトラ・クラークといえば、代表曲は、「恋のダウンタウン」で、これは、1964年、全米第1位に輝くとともに、全世界で大ヒットしました。

この曲は、翌年、グラミー賞を受賞しています。


1964年といえば、昭和39年ですから、「東京オリンピック」が開催された年でもありますね。


ペトラ・クラークは、とにかくヒット曲が多いのには驚きます。


1961年、「Sailor」が初の全英第1位に、そして、「Romeo」も全仏で第1位になりました。

1962年、「ヤ・ヤ・ツイスト」、「Chariot」が、翌年の「Coeun blesse」が、共に全仏で第1位になっています。

1965年、「I Know A Place」が全米で第3位、「ユア・ザ・ワン」が全米第4位のヒット。


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同年、「マイ・ラヴ」は、全米第1位、全英で第4位の大ヒットとなっています。

1967年、「ジス・イズ・マイ・ソング」は、全英、全仏で第1位、全米では第3位の大ヒットとなりました。


映画では、1968年、ピーター・オトゥールと共演した「チップス先生さようなら」が、世界的な大ヒットとなりました。


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そんなペトラ・クラークですが、1968年、一大事件が起こりました。


TV番組の中で、ゲストのハリー・ベラフォンテが唄っている間中ずっと、彼女は、ハリーの腕に手を掛けて、彼の歌を聴いていたのです。


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その問題のシーンがこれ・・・。


ハリーはジャマイカの黒人シンガー、その隣に白人の彼女が寄り添い、まして公共の前で手をやるなどという行為は、その当時は絶対に許されないことだったのです。

番組のスポンサーが降板する事態にまでなりました。

しかし、彼女は、問題のシーンをカットさせないままオン・エアさせたのでした。


1人の白人女性シンガーが、人種差別に対して毅然とした態度を取る姿、感動ものですよね。


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ひとりで 生きるのに 疲れたときは

ダウンタウンへ 行ってみませんか~♪


つづく







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ヒッピーに代表される1960年代文化の象徴であった「ウッドストック・フェスティバル」は、1969年8月15~17日までの3日間、ニューヨーク州郊外のベセルの丘で開催されました。


30組以上のロック・グループが出演した、大規模な野外コンサートでした。


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入場者は40万人を越えたと云われています。

主催者は、最初1~2万人程度の入場者を計算していたそうですが、実際は前売りが19万枚も売れて、入場者は20万人を越えるだろうと言っていたのですが、幕を開けてみると、その数40万人。

収拾がつかなくて、半数は入場料を払っていなかった、つまり、ほぼ無料コンサートになってしまったそうです。


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フェスティバルの計画段階でこれだけの入場者が集まるなどとは考えてもいなかったため、食料、飲料水、テント、トイレ等、準備が全く出来ておらず、観客は食べ物や酒、ドラッグ等を分け合っていたと云います。


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また、ライヴを聴けたのは、ステージに近いごく一部の観客だけで、結果としてドラッグやフリーセックスが横行したと云います。


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ライヴは、2度に渡る豪雨のため、プログラムがたびたび中断して遅れ、最終日のトリを務めたジミ・ヘンドリクスの登場は、18日の明け方になりました。

その時演奏した「アメリカ国歌」は、当時泥沼化していたベトナム戦争への批判であり、爆撃機の飛行音、爆弾の破裂音、逃げ惑う人々の悲鳴等を、エレキギター1本で表現しており、今でもロック史上屈指の名演奏と語り継がれています。

しかし、観客が大多数すでに帰っていたため、あの歴史的な演奏を目にした人は少なかったと云います。


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フェスティバルに出演したアーティストは、

カントリー・ジョー、ジョーン・バエズ、サンタナ、マウンテン、ジャニス・ジョプリン、CCR、フー、ジョー・コッカー、テン・イヤーズ・アフター、バンド、BST、シャナナ、ジミ・ヘンドリクスと、錚錚たる顔ぶれです。


この誰もがノー・ギャラでした。


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このコンサートは、「ウッドストック」というドキュメンタリー映画で全国公開され、1970年のアカデミー賞に輝きました。


結果として、このロックの祭典は、成功裏に幕を閉じたのですが、同時に、「ロックは金になる」ということが発見された第一歩でもありました。


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死者3人、病人5000人、出産2件を記録した異例のハプニングでしたが、会場内でのトラブルは一切無く、人種による差別も全く見られなかったと云います。

まさに「愛と平和と音楽の祭典」だったのです。


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ベセルの丘には記念碑があって、毎年多くのロック・ファンが詰め掛ける聖地となっています。


つづく







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オーティス・レディング」は、1941年生まれの、ソウル・ミュージックを代表するシンガーであり、ソングライターでした。

また、この世に存在した最高の、「魂のボーカリスト」と言われています。


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1962年、デビュー曲「ディーズ・アームス・オブ・マイン」を発表、R&Bチャート第20位のヒットとなりました。

オーティスのボーカルは、米国南部に生まれたことから、後に「サザン・ソウル」と呼ばれました。

ゴスペルを取り入れた深く太い彼の歌唱法は、サム・クックからの影響が強いようです。


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1964年、初のアルバム「ペイン・イン・マイ・ハート」を発表、全米でヒットしました。

サム・クック、リトル・リチャード、ベン・E・キング等のカバーを、熱く歌い上げています。


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当時、オーティスのバック・バンドを勤めていたのが「ブッカー・T&MG’s」で、彼らのパーフェクトな演奏が、オーティスの魂を歌に込めたボーカルを引き立たせました。


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1965年、ジェリー・バトラーとの「アイル・ビーン・ラヴィング・ユー・トゥ・ロング」を発表、R&Bチャート第2位となる大ヒットを記録しました。


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1967年、オーティスは、モンタレー・ポップ・フェスティバルに出演が決まりました。

が、ソウル・ミュージシャンが、それも黒人が、このフェスティバルに出るのは、とても難しいことでした。

おまけに、当時、彼が使用していたアンプは、ジミ・ヘンドリクスが使っていたものとは比較にならないほどの、貧弱なものだったのです。

しかし、彼の歌声が響き始めるや、それを聴いた大観衆は、心を虜にされてしまったのでした。

音楽に人種の壁が無いことを、彼は身を持って示したのです。



悲劇 ドクロ 飛行機

1967年12月10日、オーティスとバンドのメンバー、マネージャーとパイロット8名を乗せた自家用双発機ビーチクラフトモデル18が、次の公演地マディソンに向かうため、飛び立ちました。

濃霧のため、滑走路を見失った機は、近くのモンナ湖に墜落、オーティスを含む4名が死亡しました。


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事故の3日前に収録されていたのが、「ドック・オブ・ザ・ベイ」という曲でした。

この曲、1968年のビルボード・ランキング第1位に輝き、オーティス最大のヒット・シングルとなりました。


これを収録した日、オーティスは、

こいつは 俺の 

初めての ミリオンセラーになるぜ

そう言っていたそうです。


オーティス・レディングが活躍したのは、たったの5年間でした。

その間に発表された貴重な楽曲は、20枚のアルバムと、36枚のシングルでした。


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大きな身体を揺すってシャウトするオーティスの「魂(ソウル)の熱傷」は、今も色褪せることはありません。

つづく