【特別増刊・拡散希望】 拒 否 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

特攻・・・〝神風特攻隊〟を代表とする、日本兵が搭乗し爆弾を搭載した飛行機や潜水艇等もろとも敵艦に突っ込む、十死零生の悲劇的作戦。

この特攻に関しては、過去拙ブログでも記事にしました。(

 

 

 

この作戦によって、学徒出陣した学生ら20歳前後の若者たち約5,800名が(表向きは志願したとされているものの実態は殆ど命令・強制によって)散華されました。

(※一方で 「俺も後から行く」 と言って彼らを送り出した将校の多くは生き延びていますが。)

軍隊である以上、上官の命令は絶対・・・なのですが、その特攻命令を敢然と拒否した軍人も実在したのです。 その人の名は


 美濃部 正 少佐

今日は、この気骨ある軍人の命日にあたります。

 

     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

1915年に愛知県で生まれた彼は、1937年に海軍兵学校を卒業。

 

その際、敢えて競争率の低い水上偵察機搭乗を希望し、首尾よく水上偵察機操縦専修を命じられるなど、当時から策略家の本領(?)を発揮しています。

そして1941年に美濃部貞功・海軍少将のお嬢さんと結婚・婿養子となり、太田姓から美濃部姓になりました。

大東亜戦争開戦後、第983海軍航空隊の飛行隊長に着任し、自らの戦闘体験から夜間攻撃部隊の構想を持つに至ります。

源田実中佐にその構想を認められ夜襲部隊の編成を許されたものの、理解のない上司と衝突して隊長を解任され、部隊もその後の迎撃戦で壊滅。

しかし転属先の第302海軍航空隊で第二飛行機隊々長に命じられた彼は、1945年1月にそれまで複雑な構造ゆえに敬遠され各所に放置されていた水冷エンジン搭載の艦上爆撃機『彗星』を主力機としてかき集め、優秀な水上機搭乗員・整備工を選抜して 『芙蓉部隊』 を編成。

同年2月に同部隊が特攻攻撃に組み込まれる寸前だったのですが・・・ここで敢然と立ちはだかったのが、美濃部少佐だったのです。

彼の編成した扶養部隊の活躍を描いた、

 
『彗星夜襲隊』 (渡辺洋二・著 光文社・NF文庫)

 

から、その様子を抜粋・転記しますと・・・。


     ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

 

前年10月にフィリピンで特攻攻撃か始まった際、その立案者といわれている大西瀧治郎中将に夜戦を主張し特攻不参加を容認させたという美濃部少佐は、軍上層部が「全機特攻化せよ」という命令を下したその会議中、末席に座っていながら毅然として意見を述べます。

「フィリピンでは敵は300機の直衛戦闘機を配備しました。 今度も同じでしょう。 劣速の練習機まで駆り出しても、十重二十重のグラマンの防御陣を突破することは不可能です。


特攻のかけ声ばかりでは勝てるとは思えません。

 

今の若い搭乗員の中に、死を恐れる者は誰もおりません。 

 

ただ一命を賭して国に殉ずるためには、それだけの目的と意義が要ります。

 

しかも、死に甲斐のある戦功を立てたいのは当然です。 

 

精神力一点張りの空念仏では、心から勇んで発つことはできません。

 

同じ死ぬなら、確算のある手段を講じていただきたい。

 

ここに居合わす方々は指揮官・幕僚であって、自ら突入する人がいません。
 

必死尽忠と言葉は勇ましいことをおっしゃるが、敵の弾幕をどれだけくぐったというのです? 


失礼ながら私は、回数だけでも皆さんの誰よりも多く突入してきました。 

 

今の戦局にあなた方指揮官自らが死を賭しておいでなのか!?

 

劣速の練習機が昼間に何千機進撃しようと、グラマンにかかってはバッタのごとく落とされます。


2,000機の練習機を特攻に駆り出す前に、赤トンボ(※九三式中間練習機)まで出して成算があるというのなら、ここにいらっしゃる方々がそれに乗って攻撃してみるといいでしょう。


私が零戦一機で全部、撃ち落としてみせます!」

 

まさしく〝特攻拒否〟・・・会社の役員会議でこれだけの発言をすれば左遷・降格は必至。

 

まして上官命令絶対の軍隊では処刑も有り得ます。

実際この時、美濃部少佐は死を覚悟したそうですが・・・彼の理論・実績を知る出席者達はただ沈黙するばかりだったとか。

更に少佐は彼らに訓練を見学させるなどしたことで結局芙蓉部隊は特攻を免れ、これに奮起した隊員の士気は大いに高揚。

 

2月~8月15日までの夜襲出撃回数81、延べ出撃機数786で、敵戦艦・巡洋艦・大型輸送船撃破各1、飛行場大火災6(※内1回は伊江島飛行場の艦載機600機をほぼ壊滅)などの戦果を上げます。

未帰還機43・戦死者89名を出しましたが、それでも終戦時には50機以上も残存戦力を残しましたから、殆どの飛行機を目標到達前に撃ち落とされた特攻隊と比べれば、その違いは明らか。


しかし、美濃部少佐は単なる特攻隊反対論者ではありませんでした。 彼は、戦後自らこう語っています。

 

「戦後よく特攻戦法を批判する人があるが、しかしそれは戦いの勝ち負けを度外視した、戦後の迎合的統率理念にすぎない。

 

当時の軍籍に身を置いた者には、負けてよい戦法は論外と言わねばならぬ。 

 

私は不可能を可能とすべき代案なき限り、特攻また止むを得ず、と今でも考えている。

 

戦いの厳しさは、ヒューマニズムで批判できるほど生易しいものではない。」


実際に最前線で戦った少佐の言葉は、重く受け止めねばならないでしょう。

あくまで勝算を探り、最大効果を発揮する作戦を立案し実行する・・・一見当たり前のことですが、戦争末期に精神論と面子だけで多くの若者の命を散らせた軍幹部の中に、美濃部少佐のような冷静な判断力と実行力のある将校があと数名でもいてくれたなら、戦争の結末・戦死者数は少なからず違っていたのではないでしょうか?

 

戦後航空自衛隊空将となり、幹部候補生学校長も務めた美濃部氏の教えが、現在の航空自衛隊に根付いていることを願うばかり。

当然の如く、元軍人だった美濃部少佐の名は教科書には出てきません。

 

しかし、こういう気鋭の日本人がいたことを子々孫々に伝えることは、私たち大人の義務でもあります。

そんな思いを込めつつ、1997(平成9)年6月12日に81歳で病没された英傑のご冥福をお祈り致します。🙏



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