飛行機や船舶に爆弾を搭載し、操縦士もろとも敵に突っ込んでいく特攻隊。
特にその名を後世に残すこととなる、海軍によって組織された〝神風特攻隊〟が初出撃を敢行したのが、65年前の今日・1944年10月21日のことだったそうです。
戦局が悪化の一途を辿り、軍事物資不足の中で攻撃精度を上げるために考え出されたという 「特別攻撃」 ・・・当初は一定の効果を上げてアメリカ軍を震撼たらしめました。
しかしやがては対抗策を考え出され、また飛行機の性能低下や操縦士の若年化に伴う技術不足も相まって、その殆どは目的を達せぬまま海に墜落したとか・・・。
そして特攻隊員には表向き 「志願制」 を採ったとされていますが、実際には志願兵が集まらなかった部隊もあり、上官からの命令で隊員に指名された者も数多くいたといわれています。
神風特攻隊として最初に敵艦に突っ込んで戦死し〝軍神〟として畏敬された関行男大尉も、実は命令により隊員となったそうです。
17~25歳の若者が、国(上官)から 「死んでくれ」 と言われた時・・・果たしてどんな心境だったのでしょうか?
よく 「天皇陛下万歳!」 と叫んで突っ込んで行ったといわれます。
しかし実際には殆どの隊員が 「お母さん!」 と叫んでいたとか、出撃前には失禁・失神する者もいたそうですが・・・それは人間としてむしろ当然のことでしょう。
ところで皆さんは、この特攻隊員の戦死者・・・何名だったと思われますか?
<特攻第一号 関行男大尉>
海軍の神風特攻隊で約2,500名、「回天」 その他陸軍も合わせると、実に約5,800名に達するのだそうです。
以下に、特攻隊員として出撃する直前にしたためられた、倉元利雄少尉の遺書をご紹介致します。
喜美子
出発の時は許して呉れ。
御許(みもと)を愛すればこそ一時をも悲しみをさせたくない一心にて
一杯だった、決して嘘を言うつもりではなかった。
(特攻隊に参加したことを隠していたが) どうか元気を出してあらゆる
苦しみ、悲しみと闘って行っておくれ。
強い心で生きて行ってくれる事を切に切に望む。
では只今より出発する。
御許の幸福と健康を祈る。
喜美子
有難う 有難う 俺は幸福だった 喜んで征く
愛児よ
もし御許が男子であったなら 御父様に負けない 立派な日本人になれ
もし御許が女子であったなら 気立てのやさしい女性になってくれ
そして御母様を大切に十分孝養をつくしておくれ
(やがて生まれてくる)愛児へ
命名 倉元 宏
命名 倉元 遼子 昭和二十年五月十日 出撃前夜
< 神坂 次郎・著 『今日われ生きてあり』 より 一部口語体に変換>
まだ見ぬ、そして会うことが叶わぬ我が子に、出撃前夜命名した倉元少尉の心中・・・察するに余りあります。
私たちは、自らの意思に反して命を捨てた先人の犠牲の上に今の平和があることを感謝すると共に、子孫に二度とこのような思いをさせてはなりません。