ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

〝可憐な花々に囲まれた心温まるお葬式〟をモットーに、日々お客様のために頑張っております葬儀社ウォームハート・・・の社長、人呼んで「葬儀屋ナベちゃん」です。 毎日の仕事や、人・映画・書籍等との出会いの中で感じたことなどを徒然なるままに綴ってまいります。

弊社HPには、オリジナル・デザイン生花祭壇の画像を種々掲載しております。

  

    


           是非ご覧下さい! 


     URL : http://www.warmheart.jp


  生前相談・見積依頼・葬儀に関するお問い合わせは 

        

      TEL : 03-5399-7123


  まで。 いずれも無料ですので、お気軽にどうぞ!


            バラ 必 見 バラ


     “オリジナル生花祭壇 Episode Series


          バックナンバーはこちら!

            ダウン     ダウン     ダウン


  1.〝オ-ストラリア〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080131.html
  2.〝 電  話  機 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080208.html

  3.〝 美  術  館 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080216.html

  4.〝 外  洋  船 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080305.html
  5.〝 波      涛 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080623.html

  6.〝 White Light 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20090129.html

  7.〝 別 れ の 曲 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11159923479.html

  8.〝ゴルフコース〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11795745868.html


 ★ Facebook もやってます。

    【https://www.facebook.com/tadashi.watanabe.718



NEW !
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今では、老若男女を問わずガラケーやスマホで写真を撮るのが当たり前ですが、昭和時代はフィルム交換するカメラしかありませんでした。

使い方が難しく、撮影係は大抵お父さんでしたが・・・その流れを大きく変える画期的な商品が、今からちょうど30年前の今日・1986(昭和61)年7月1日に発売されました。 それは

 『写ルンです』

そう、富士フィルム社が開発した、〝レンズ付きフィルム〟。
(一部では 『使い捨てカメラ』 と呼ばれていましたが、それは正しくないのだそうな。)


      

難しいカメラ操作をシンプルにし、かつ軽量化を目指した結果、キャラメル箱のような製品に。

中高年の方なら、一度は手にした経験があるのでは?


そして、この変わったネーミング・・・実は当初案では忍者ハットリくんをモジッた 『パッ撮りくん』 だったそうですが、開発チームでの評判はイマイチ。

名前が決まらぬまま迎えた会社幹部への新商品プレゼンの際、上司に


「本当に写るのか?」


と聞かれた開発責任者が、咄嗟に答えた


「写るんです!」


から、ルンルンな気分を出すため真ん中をカタカナにして命名された・・・という、ウソみたいなエピソードが。あせあせ


発売当初はISO100の24枚撮りだけだったのですが、重たいカメラを持ち歩く必要がなく、観光地で買って気ままに撮れることから、爆発的な売り上げを記録。

それを見て他メーカーも参入し、望遠・パノラマ・フラッシュ・セピア調・防水ケース等々、次から次へと様々な装備が加えられていきました。


フィルム感度も、今ではISO800、1600など〝使い捨て〟とは思えない性能に進化。

         


何だか当初のコンセプトから随分と変わって高級になってしまいました。
しかし現在は
デジタル・カメラやカメラ付き携帯電話が普及しており、この商品の売上は残念ながらすっかり停滞。

品揃えは大幅に絞られましたが、それでも生産中止にはなっていません。

というのは、デジカメ等で撮影された画像はPCで簡単に修正できてしまいますが、フィルム(ネガ)は素人だと簡単に修正できないため、証拠写真としての利用価値が高いのだとか。

開発元の富士フィルム社は、社名にフィルムと入っていながらデジカメも生産しており、最近では化粧品・サプリメント分野にも進出。

しかしインスタントカメラで有名なポラロイド社は、あくまで基幹商品に拘り続けた結果、倒産の憂き目に・・・。

※ポラロイド社に関する過去記事は、こちら。(
    http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-10158970029.html


ひとつのヒット商品だけでは企業の存続は難しい。
常に新商品・新発想を生み出さないと、生き残れない。うー


カメラの歴史は、それを私たちに教えてくれていますネ。



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今から22年前の今日・1994(平成6)年6月30日に、日本政治の大きな転換点となる内閣が船出しました。 それは


 村山内閣


同年4月28日に細川内閣を引き継ぐ形で船出した羽田内閣は、自民・共産を除く政党の連立内閣でしたが、発足直後当時新生党の代表幹事だった〝壊し屋〟小沢一郎氏の主導で身勝手な動きがあったことに反発した社会党が離脱。

これにより一気に衆院で少数派となった同内閣は、在任期間僅か64日という日本国憲法下における史上最短記録で総辞職。

これに替わって登場したのが、自民・社会・さきかげの連立・・・いわゆる〝自・社・さ政権〟でした。

主犯 ジャナカッタ 首班に指名され第81代内閣総理大臣となったのが、社会党委員長だった村山富市氏。


        


私が冒頭、大きな転換点と申し上げたのは、ひとつには所謂戦後55年体制下で続いていた保革対立に終止符を打つ連立内閣となったこと。

しかしそれ以上に驚いたのは、村山首相と社会党の豹変ぶり。

翌月に召集された国会の所信表明演説で、彼はそれまで社会党の基本方針であった〝自衛隊違憲・安保反対・原発反対〟を180度転換し、〝自衛隊合憲・安保堅持・原発容認〟を明言したのです。


しかもこの重大な政策変更について社会党内ではコンセンサスが得られておらず、党員にとっては寝耳に水。

本来なら猛反発があって然るべきなのですが、翌月の党大会では何とこの大転換を追認したのです。

イデオロギーよりも与党・総理の権力が優先・・・言ってみれば悪魔に魂を売ったが如きもの。

私は、この時に (あっ、社会党はこれで終わったナ。) とほくそ笑んだものですが。

そして予想通り、それまで与党に反対ばかりしていた野党が実権を握っても、ろくなことはなし。

内閣発足約半年後の1995年1月には阪神淡路大震災が起き、官邸(村山総理)の杜撰な対応で自衛隊の投入が遅れ犠牲者をいたずらに増やしたのは、皆さんもご存じの通り。

その後国会でこの点について追及された際、「なにぶん初めてのことですので・・・」とトボけた答弁をして国民を呆れさせました。

更に震災の2ヶ月後にはオウム真理教のテロ・『地下鉄サリン事件』が起き、同年8月には内閣改造直後に今でも外交の足かせとなっている 『村山談話』 を発表。

そして翌1996年の正月早々、確たる理由もなく政権を投げ出す形で退陣。

在職期間は562日でした。

この内閣の存在意義は何だったのか? と考えた時、個人的には社会党(次の橋本内閣発足後に社民党に改称)の凋落を招いた・・・というか、自滅させたことくらいでしょうか。

余談ですが、この村山内閣誕生の際、彼に総理を打診し後に副総理の座に収まったのが、当時自民党総裁だった河野洋平氏。

いわゆる 『河野談話』 を出した彼、村山氏共々政界引退後もマスメディアの前に顔を出し政府の足を引っ張っているのは、皮肉と言うか腹立たしい限り。

         

このワースト・コンビが舵取りをした村山内閣は、間違いなく戦後最悪・最低の内閣だったと言って良いでしょう。

それから13年後に宇宙人内閣が誕生するまでは。うー



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以前ある元IT関連会社々長が、ネット上で 「寿司職人が何年も修業するのはバカ」 と発言し、物議をかもしたことがありました。

また 「機械が握った寿司と、熟練職人の握った寿司の違いって何?」 とか、「マニュアルさえあれば、何年も下積みする必要などないのでは?」 などという意見も散見されます。

人それぞれ意見はあるでしょうが・・・その修業に関して、あの〝料理の鉄人〟道場六三郎氏が月刊『致知』7月号で語っておられましたので、以下に抜粋・編集にてご紹介致します。

        


          ◆     ◆     ◆     ◆


料理の道一筋に歩み続けて66年。 今つくづく思うのは、

「何歳になっても、人間を磨いていくことが重要である」

ということです。

どんな職業にも上には上がいるもので、自分だけの小さな世界で留まっていては、成長しません。

常に謙虚さを持ち、上を目指していく。 

決してもうこれでいいと思わない。

85歳を迎えてもなお、そういう気持ちで調理場に立っています。
これは若い時からの習慣が身についているのでしょぅ。


私は20代の頃、いろいろな店で修業を積んできましたが、「いま一番早くて綺麗に包丁を捌けるのは誰ですか?」 と調理師会の親方さんに聞いては、その料理人のいる店まで足を運び、「ああ、こういうふうにやるのか」と細かく観察し、ノートにメモして研究を重ねていました。

自ら盗むようにして学んで吸収しているのか、あるいは人から言われて嫌々やっているのか・・・どちらが伸びていくのかは、言うまでもありません。

20代の方には、是非この心構えを身につけていただきたいと思います。

17歳の時から魚屋で働き始めた私は、「六ちゃん、早く手に職をつけた方がいいよ」 と仕入れ先のチーフに言われ、地元・石川の調理師会々長さんに紹介状を書いてもらい、東京・銀座の 『くろかべ』 という日本料理店で働くことになりました。

母親としては、周りから嫌われたりイジメに遭ったりすることが一番心配だったのでしょう、家を出る私に

「六ちゃん、人に可愛がってもらえるようにせないかん」

と言葉をかけてくれました。 


実際、『くろかべ』に籍を置いていた1年余りの間、店の親父さんや先輩、お客様から随分可愛がられましたが、それはひとえに両親の教育のおかげです。

両親は浄土真宗の信仰に篤く、事あるごとに礼儀・作法、人としての生き方を説いてくれたからです。


「親や先生のいる前では真面目にやって、見ていないと手を抜く人がいるけど、とにかく神仏は全部見てござる。 だから陰日向があってはいけない。 どんな時も一所懸命やらなきゃいけないよ。」

そんな言葉に従って、朝一番に店に来て先輩の白衣と靴を用意しておいたり、ボロボロになった高下駄を修理したり、あるいは親父さんから 「ガス台が汚いから綺麗にしろ」 と言われれば、翌朝4時まで徹底的に磨いてピカピカにしたり・・・。

どうやったら親父さんや先輩が喜んでくれるかを常に考え、身を粉にして仕事に打ち込みました。

そうやっていると、思いがけず先輩が料理のレシピノートを見せてくれるようになったり、新しい仕事を回してくれるようになって
、どんどん料理の腕を磨くことができたのです。

         

                  24歳の道場氏


もうひとつ、修業時代からいつも心に留めていたことがあります。

「人の2倍働く、人が3年かかって覚える仕事を1年で身につける。」


とにかく早く人の上に立ちたい、下積みの期間をできる限り短くして一人前の仕事がしたい、という思いを強く抱いていました。


そのためには、まず店の料理人の中で一番にならなければなりません。 

どうやったら早く、綺麗に手を動かせるか、生産性を高めていけるか、絶えず工夫を凝らしたものです。

例えば、ネギやキュウリを切る時、人が3本置いて切っていたら、私はその上にもう1本重ねて4本で切ってみる。

それができるようになったら、5本で挑戦してみる。


当然、最初はなかなかうまく切れませんが、脇の締め具合や手首の使い方など、試行錯誤を重ねていくことで、自分だけの得意技を編み出していきました。

当たり前のようでずか、仕事にも人生にも締め切りがあります。

ですから、常に先を見通して時間を無駄にせず、一つ一つの仕事をテキパキと仕上げていくことが大事だと思います。

些細なことを疎かにする人は伸びていかない・・・これはどんな仕事にも当てはまるのではないでしょうか。

これまで私は数多くの料理人と接してきましたが、中には伸びていく人もいれば途中で止まってしまう人、消えていないくなってしまう人もいます。

その差はどこにあるのか。

私は料理の腕以上に日常のあり方に表れると思っています。

玄関で脱いだ靴を揃えるとか身の回りの掃除をきちんとするとか、あるいはお客様にお膳を出すときにお皿や箸が傾いていないかなど、日常当たり前のことが徹底できているか否か。

更に言えば、伸びる人は若いときの数年間に〝バカ〟がつくほど仕事漬けの日々を送っています。

これは間違いありません。

どこまでも上を目指し、謙虚に素直に人の言うことを聞く。 そして、どんなに辛いことがあっても、ここが踏ん張りどころと思い、逆境をも喜んで受け入れ、苦しいことから逃げない。 決して諦めない。

そこが一流と二流を分けるのです。

         ◆     ◆     ◆     ◆


実は道場氏自身、20歳代にホテルの板長から酷いいじめを受けたことがあったそうな。

それでも 「石の上にも3年、いったん出て行ったら、石にかじりついてでも我慢しろ」 という父親の言葉を心の支えにして耐え抜いたことで、逆にその板長から信頼を得た経験があるとか。

また同誌に掲載されていた遺伝子工学の権威である村上和雄・筑波大学名誉教授と池上本門寺や国技館などの設計を手掛けた建築家・今里隆氏の対談に、こんな話が・・・。

「ノーベル賞を取られた利根川進氏が所属していたアメリカの研究室からは、ノーベル賞受賞者が5人も出ている。

その5人が集まって、先生のどこが良かったのかを話し合ったけど、結論が出ない。

結局、何も教えてくれなかったことが良かったのではないか・・・。」

この話は、道場氏の経験談と共通点があると思うんです。

教えてもらった技術や知識は身につかないし、教えてもらっているだけでは伸びない。

自分で盗んだり考えたり苦しんだ末に身につけた技術や知識は忘れないし、伸びる・・・という意味において。


もし入社してすぐ嫌な思いをしたりやる気を失くしたら、辞める前にこの道場氏の教えを噛みしめてください。笑3



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東京都庁を始め、いくつもの高層ビルが林立する副都心に向かう人々が利用する、新宿駅・西口。

行かれた方はご存じだと思いますが、改札を降りて歩いていくと、大きなロータリーがあり、その周辺に広いスペースがあります。

        

写真のロータリーの道路下がその部分なのですが、1966(昭和41)年に完成した当時は『新宿駅西口地下広場』といわれていました。

でも現在の名称は、『西口地下通路』・・・この変更のキッカケとなったのが

 フォークゲリラ集会

でした。

今はすっかりブームが去ってしまいましたが、半世紀前の日本ではフォークソングが大流行。

岡林信康さんやフォーク・クルセダースらが人気を博していましたが、1968年頃からこの西口地下広場にギターを持った若者が毎週土曜日に集まり歌い出しました。

そこで一緒に歌ったり聴きにくる若者が徐々に増え、数千人が西口広場を埋め尽くすほどに・・・。


        


しかし歌っている若者の多くは、翌年に控えた安保条約更新に反対する〝ベ平連〟(ベトナムに平和を!市民連合)を中心とした左翼活動家たち。

彼らの殆どは実際には手にしたギターをまともに弾けなかったあせあせ そうですが、集団心理の為せる業なのか、若者は彼らの叫び声に熱狂。

まさに昨年国会前で安保法案反対をラップ調で叫んでいたバ〇
者と同じ・・・歴史は繰り返すというか、共産党や極左団体のやり口は半世紀前と変わらないってことでしょうか?

救いは、この当時に比べ今は彼らに踊らされる若者が圧倒的に少ないことですが。

危機感を抱いた政府は今から47年前の今日・1969(昭和44)年6月27日に機動隊を投入。


広場に集まった若者数千人を排除し、64名を逮捕するという実力行使に出ました。

そしてその翌日、西口広場は西口〝通路〟に呼称変更。
つまりは道路交通法を適用し、立ち止まったり集会を出来ないようにした・・・というわけ。

その後この西口では1980年にバス放火事件が起きたり、20年前の1996年1月にはホームレス強制排除事件も。

※バス放火事件に関する過去記事は、こちら。(↓)
  http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11252759343.html


現在、西口通路を副都心方面に歩いて行くと、道端には円筒を輪切りにしたようなオブジェ(?)がズラッと並んでいます。

         

これは明らかにホームレスが居座れないようにするための対策。
一部に批判はあるものの、このおかげで環境が良くなったことは確か。

新宿西口は、呼称変更を含め時代の変遷を目で確かめられます。

あっ、そういえば、こんな〝目〟が西口通路に登場したのも、フォークゲリラ事件の翌年でしたっけ。あせあせ

     
        



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それは非戦争状態において、化学兵器クラスの毒物が無差別に散布された、世界で初めての犯罪でした。

 松本サリン事件

この忌まわしい事件が起きたのは、1994(平成6)年6月27日・・・亡くなられた方々にとっては、今日が二十三回忌となります。
(※厳密に言えば、死亡確定は翌日未明ですが・・・。)


実行犯は、言わずもがなのオウム真理教。

同教団が松本市内に支部・食品工場建設を目論んだものの、反対運動や賃貸契約のトラブルで裁判沙汰となり、翌7月には自分たちに不利な判決言い渡しが予想されたため、その判決言い渡しを引き延ばすことと、
サリンの効き目を試すことを目的とした身勝手極まりない犯行でした。

本来なら松本地裁に昼間乗りつける予定だったものの、サリンの容器注入に手間取って現地に到着したのが夜になったため、攻撃目標を裁判官々舎に変更。

乗りつけたのが、後に濡れ衣を着せられた河野義行氏の自宅脇にあった駐車場でした。


        

           左下隅に駐車場、その横の茂みが河野邸
        
しかし犯行グルーブが風向を読み間違えたため、サリンは繁み右横の官舎ではなく後ろの河野邸や隣接するマンションに到達。

ガスの噴霧範囲は半径70m以上に及び、(事件当時)死者7名・重軽症者144名という大惨事となりました。

亡くなられた犠牲者全員が2階以上の住人・・・当夜は気温20℃ながら湿度95%と蒸し暑く、窓を開けて就寝していた方が多かったことで被害が拡大してしまったようです。


事件発生直後は犠牲者の死亡原因がわからず、撒かれた物質がサリンと特定されたのは事件後1週間も経過した7月3日でした。


当初、長野県警は事件の被害者であり第一通報者であった河野義行氏を犯人と疑いました。


重要参考人として家宅捜索を行ったり、サリン吸引により体調不良だった河野氏を長時間にわたって拘束、尋問。

マスコミも地元・信濃毎日新聞社を中心に、予断による捜査を続ける警察発表をそのまま垂れ流し、あたかも河野氏が犯人であるかのような偏向報道を続け、週刊新潮に至っては河野家の家系図まで掲載しプライバシーをも侵害する、酷いものでした。


そんな中、同年9月頃マスコミに 『松本サリン事件の真犯人はオウム真理教』 と示唆する怪文書が出回り、その半年後に地下鉄サリン事件が発生。


同教団に対する強制捜査の過程で教団幹部から松本サリン事件の自供が得られ、やっと河野氏の無罪が証明されたのでした。


その後も河野氏に謝罪しない長野県警や信濃毎日新聞社の姿勢を見て、私は長野県人として非常に恥ずかしく思ったものです。


私は事件後に発刊された河野氏の著作

 『「疑惑」は晴れようとも』 (文芸春秋社・刊)


       


を拝読しましたが、警察権力やマスコミ勢力の恐ろしさにゾッとしました。

と同時に、被害者でありながら犯人に仕立て上げられかけ、世間の非難を一身に浴びる辛い立場にありながらも最後まで冷静かつ客観的に対応された河野氏の胆力と、彼を支えるご家族の愛情と絆の深さに感銘を受け、涙を禁じ得ませんでした。



その後河野氏に関して(贖罪の意味もあってか)TVの特別番組なども放映され、また河野氏を主人公とした映画 『日本の黒い夏-冤罪-』 が熊井啓監督の手により製作されています。


またこの事件が契機となり、マスコミは以前より予断報道を自重する方向になったとは感じますが・・・残念ながら、現在に至っても一部キャスター・コメンテーターの予断に基づく発言などで物議をかもす例が散見されます。


マスメディアが容疑者逮捕時点ではなく、公判後有罪が確定したから報道するようにしない限り、河野氏のような冤罪被害者が再びでっち上げられる恐れがある、と思えてなりません。

同時に私たちはマスコミ報道を鵜呑みにせず、常に真実を追究する姿勢を崩さぬように気をつけたいものです。


この事件の事を知ってる人はおそらく30代以上の方だけでしょう。

地下鉄サリン事件同様、この史上初の無差別毒ガス殺人事件の教訓を、私たちは事件を知らぬ若い世代に語り継がねばなりません。

サリンを吸引したことで長らく意識不明のまま闘病生活を送られた河野氏の奥様は2008年に亡くなられ、現在河野氏は鹿児島に移住されているとのこと。

河野氏の今後の人生に、幸多からんことを祈るのみです。



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自然災害時の被災者や、山や海での遭難者の救助時に活躍したり、最近では逃走する交通違反者や犯人を追跡する際に威力を発揮しているのが

 ヘリコプター

この滑走路要らずで、しかも時速300km近いスピードで飛べる便利な航空機が、初めて実用飛行に成功したのが、今からちょうど80年前の今日・1936年6月26日のことでした。

日本で 『2・26事件』 が起きた4ヶ月後ってことになります。


ギリシャ語の “helico ”(螺旋) と “pteron ”(翼) からその名がついたヘリコプターの紀元は、紀元前の中国にあった竹とんぼ。

そして科学的にこれを研究したのは、15世紀のレオナルド・ダ・ヴィンチ。
彼の残したスケッチは、有名ですネ。

         


※余談ですが、『ANA』が全日空時代にこのデッサンを基にしたトレードマークを使用していましたが、それは同社の前身が『日本ヘリコプター輸送』だったから。

更に18~19世紀にも模型や蒸気機関を搭載した実験機が制作され、かのトーマス・エジソンも開発に乗り出しましたが、爆発事故を起こして撤退したとか。

また飛行機に現在のローターを取り付けたオートジャィロも開発されましたが、実際に地上から浮上できるようになったのは、20世紀に入ってから。

1907年にフランス人3人が相次いで少しながらホバリングに成功し、また1917年にはオーストリア=ハンバリー帝国でも4つのローターを取り付けたヘリコプターも成功。

そして初めてホパリングだけでなく前進飛行もできる世界初の実用ヘリコプターとして飛行に成功したのが、



フォッケウルフ Fw 61

 Focke-Wulf Fw 61


開発したのは、ドイツのエンジニア、ハインリヒ・フォッケとゲオルク・ウルフの2人。


     


2基のローターが、何やらオスプレイに似た形・・・というか、オスプレイがこのスタイルをヒントにしたのかも。

この飛行機にも似たヘリコプターは、航続距離230km、最高速度・時速120kmを記録したといいますから、立派なもの。


※機首にもプロペラか装着されていますが、これは空冷星型エンジン冷却用に取り付けたもので、前進推力には利用されていません。

その後エンジンの改良などで性能は向上、冒頭のように人命救助などに力を発揮しているヘリコプターですが、残念ながらその開発には武器としての目的があったことは否めません。

最高時速300km近くで、輸送力もあり、しかも滑走路要らずとなれば、それも致し方ないでしょうが・・・。

映画でも戦闘シーンによく登場しますが、個人的に最も印象に残っているのは、『地獄の黙示録』(1979年)でワーグナーの〝ワルキューレの騎行〟をBGMにして登場したヘリ軍団。

   


迫力十分のシーンでしたが、現在軍用で投入されている攻撃ヘリは、格段にゴツくなっています。

例えば最新鋭の〝アパッチ・ガーディアン(AH-64E
)〟は、最高速度時速300km超、積載加重約5トン、航続飛行時間3時間超。

これでチェーンガンやロケット弾も装備し無人機の遠隔操作も可能、しかも滑走路要らずなのですから、兵器として優秀なのは素人でも分かります。

        

ただ、問題なのは価格。

この最新鋭機の前のタイプ・AH-64Dは自衛隊にも配備されているのですが、1機50億円超という超高値。

今後も尖閣防衛等を睨み配備は続くのでしょうが・・・国防には、本当にカネがかかりますネ。うー


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これまで政界には何度かブームが起こり、それこそ雨後の竹の子のように新党が旗揚げされてきましたが、おそらくその〝新党ブーム〟のハシリとなったのは


 新自由クラブ


だったと思います。

この新党が立ち上がったのが、今からちょうど40年前の今日・1976(昭和51)年6月25日のことでした。

これを遡ること4ヶ月前の1976年2月にロッキード事件が発覚、政治倫理が国民の強い関心事になっていました。

その流れの中で自民党を離党した衆議院議員の河野洋平氏と、彼の主宰していた勉強会 『政治工学研究所(政工研)』 のメンバーだった田川誠一(河野氏の従兄)・西岡武夫・山口敏夫・小林正巳・有田一寿各氏が〝保守政治の刷新・腐敗との決別〟を掲げて結党。

代表には河野洋平氏が就任しました。


     


戦後長らく保守系政党の自民党が政権与党であり続ける中、新しい保守政党が誕生したことは、革新政党への支持はしないものの自民党に不満を持つ有権者層の目には新鮮に映ったのか、結党半年後の12月に衆院選では、一挙に17人の公認候補が当選。


政界に大きな一石を投じました・・が、その勢いも長くは続きませんでした。


やがて党の方針を巡って、中道派の河野・田川両氏らと非自民・第二保守政党化を目指す西岡・山口氏らが対立、河野代表と西岡幹事長の不仲が表面化。

お互いが公の場で批判するまでになりましたが、党内若手の多くは河野派で占められていたため、結局西岡幹事長が1979年7月に離党。


この間党内抗争ばかりで政策的には何ら新味を打ち出せなかった同党は、その3ヶ月後に行われた衆院選では僅か4議席と惨敗。

生き残りをかけて首班指名では大平正芳氏に投票し自民党との連立政権を画策したものの、野党やマスメ゛ティアから批判の集中砲火を浴び、河野代表は辞任に追い込まれます。

その後社会民主連合との連携を図り院内会派を結成するもやがて解消。

民社党などと連合構想を公表したと思ったら、一転自民党と連携するなど、政党としての明確なスタンスが確立せず迷走を続けます。

1983年の衆院選で自民党が過半数割れし、中曽根内閣に田川代表が自治大臣として入閣し連立内閣に加わることで辛うじて存在をアピール。

その後第2次中曽根内閣には山口・河野両氏が入閣しましたが、1986年の総選挙で自民党が大勝を収めると、もはや用済み。

新自由クラブは6議席と振るわず、同年8月15日に解党・・・まさに〝終戦〟と相成りました。

殆どの所属議員は再び自民党に戻り、謀反を起こした張本人の河野氏も復党。

しばらく冷や飯を食わされた後、1993年に宮沢内閣の官房長官として従軍慰安婦問題に関する〝河野談話〟を出したことは、ご承知の通り。

突き放した言い方をすれば、苦労知らずのお坊ちゃまが理想に向かって徒(あだ)花を咲かせただけだった・・・と言えましょうか?


一昨年お家騒動を繰り返した挙げ句空中分解したみんなの党も、創立しながら自らの手で壊したのはやはり世襲の渡辺喜美氏。


歴史は繰り返す・・・と感じたのは、私だけではないでしょう。うー



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昨日の午後5時過ぎ、珍しく女房から携帯に電話が・・・何事かと思って出てみたら、

「もう疲れちゃったら、早く帰るワ。 もうすぐ電車に乗るんだけど、夕飯にはモスバーガー食べたくなっちゃったの。 だから買って帰ってきて!」

夜にハンバーガー? と思いつつも、
当然反論は許されず。
私は店員に成り代わって女王様のご注文を承りました。

しかしすぐにはオフィスを出られなかったのと、自宅に一番近いモスバーガー店には駐車場がなし。

万一待っている間に駐車違反で捕まるのがイヤで、私は初めて電話注文をすることに。

名前と電話番号を告げ、菜摘とかソイパティとかヘルシー志向の注文をし終わって、

「で、受け取りは1時間後にお願いしたいんですけど・・・。」

と聞いたら、

「はい、大丈夫ですょ~。」

と明るい声で対応した女性が答えてくれました。

そして約束の1時間後、店に行って名前を告げると

「はい、渡辺さんですネ。 お待ちしておりました。」

と言って、注文確認後に紙袋に入ったハンバーガーを渡してくれたのですが…驚いたのは、その直後。

私が代金を支払って出口に向かおうとした瞬間、

「あっ、渡辺様。 こちらもお持ち帰りください。」

と言って、笑顔でコレを渡してくれたのです。(↓)

         


「何ですか? コレ。」

「はい、電話でご注文いただいたので、その電話代の10円です。
またのご注文、お待ちしております。」

正直、全くそんなことを期待していなかったので、ビックリ。

しかもレジから裸の10円玉を渡すのでなく、わざわざこんな袋に入れる心配りがニクイじゃないですか。

10円の価値が何倍、いや何十倍にも上がります。

帰宅して袋を開けると、ハンバーガーはどれも温かく作り立て。

私(と女王様)、ハンバーガーは元々モス派ですが、ますますファンになりました。

ネットで調べてみると、数年前からこのサービスを行っている模様。

しかし他のハンバーガー店や弁当店などでも同様のサービスをしているかどうかは確認できず。

他(チェーン)店の現状はどうなのでしょうか? 
皆さんからの情報をお待ちしています。

 

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ル・マン(Le Mans )市・・・フランス中部に位置する人口15万人弱のサルト県々都。


ここの一般道を利用した全長約13kmの〝サルト・サーキット〟を使って行われる年に1度のカーレースこそ、FI・モナコ・グランプリやアメリカ・インディ500と並び〝世界三大レース〟といわれる


 ル・マン24時間耐久レース


93年前の1923年から始まった由緒あるこの大会で、マツダが日本勢悲願の初優勝を成し遂げたのが、今から25年前の今日・1991(平成3)年6月23日のことでした。扇子


1970年代から他の日本メーカーに先駆けてル・マンに参戦していた同社が、マツダ757、767に改良を加えた末開発した787(※777は、日本語で言いにくいため飛ばしたとか)を同大会に持ち込んだのは、1990年。

しかしこの時は殆どぶっつけ本番だったこともあり、途中リタイア。

捲土重来を期して更に直線よりコーナリング・スピード重視の改造を施し、翌年コースに送り込んだのが〝787B〟でした。


      

レナウンの社長の指示でド派手なペインティングを施されたマツダ787B・55号車は、フォルカー・バイドラー、ジョニー・ハーバート、ベルトラン・ガショーという3人のドライバーが交代でハンドルを握り、レース終盤まで首位を走っていたメルセデス・ベンツのリタイアという幸運にも恵まれ、見事逆転優勝。

(※同じマツダ787Bの18号車が6位、56号車も8位にランク・イン)

最後に長時間ハンドルを握ったハーバードがゴール後に脱水症状を引き起こし、表彰台に上がれなかったという程の過酷なレースを制した、日本勢初、ロータリーエンジン(※レシプロ以外のエンジンとしても)初、おまけにカーボンブレーキ装着車として初の総合優勝という、初もの尽くしの快挙でした。

レース後、チームのスーパーバイザーを務めたベルギー出身の名ドライバー、ジャッキハー・イクスにマツダ社がボーナスの支払いを申し出たところ、

「私はマツダを優勝させるために契約したのだから、優勝したからといってボーナスを貰う理由はない。」

と固辞したとか。 実にカッコいいじゃありませんか


       
        左2人目から右に F ・バイドラー B ・ガショー J・イクス J ・ハーバート


この当時、私はマツダ社のディーラーを担当しており、レース後は大変な盛り上がりだったことを憶えています。

ただ、それが即新車販売のアップに繋がったかどうかは疑問ですが。あせあせ

そして日本がオリンピックや世界選手権で優勝するとルールを変えるスポーツ界と同様、主催者側が翌年レギュレーションを変更しロータリーエンジンの搭載を禁止。

それにもメゲず、マツダは1992年の大会もレシプロ・エンジンで参戦し見事4位に入りましたが、翌年には会社の業績不振により撤退。

その1993年から、再びロータリー・エンジンの搭載が認められたというのですから、これは日本イジメと捉えられても仕方ないでしょう。うー


その後一旦は撤退した日本車ワークスも、最近ではトヨタ・日産、そしてプライベート・チームが参戦していますが、未だ優勝台に立てぬまま。

つい数日前に開催された今年の大会では、トップを快走していたトヨタがレース終了僅か3分前にマシン・トラブルを起こし、ほぼ手中にしていた優勝を逃してしまいました。

来年は是非リベンジしてもらいたいですし、ここ数年デミオやロードスターの販売が好調で業績が回復したマツダにも、再びチャレンジして欲しいです。

そんな期待をしつつ、東日本大震災の被害者救済のためマツダが地元中・高校生10名をコースに招待し、2011年の大会直前に787Bをコースに持ち込んでJ・ハーバートがデモンストレーション走行をした車載カメラ映像をお楽しみください。




※ちなみに、優勝車は毎年このコースを350周前後(マツダ車は362周)しているそうです。


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スポーツの試合において、誤審はつきもの・・・とはいえ、それが世界的な大会でしかも優勝を左右する場面でとなると、「ごめんなさい」 と謝って済む問題ではなくなります。

過去に様々な誤審がありましたが、おそらく世界で最も有名なものといえば、コレでしょう。

それは、今からちょうど30年前の今日・1986年6月22日・・・サッカーW杯メキシコ大会の準々決勝、アルゼンチン vs. イングランド戦で飛び出した

 神の手ゴール

もちろん主役はアルゼンチンのエース・ストライカー、ディエゴ・マラドーナ選手。


自ら敵陣にドリブルで切り込み、味方にパス。
折り返しフワッと浮いたボールを頭で合わせてゴール!・・・したように見えたのですが、実際にはヘディングではなく、左手ではたいていました。

写真をみれば、一目瞭然。(


           神の手


明らかなハンドですが、主審はこれに気づかず。


イングランドの猛烈な抗議も聞き入れられることはなく、その後これまた〝伝説〟となったマラデーナの5人抜きシュートが決まり、アルゼンチンが2-1で勝利。


※お時間のある方は、こちらで〝神の手ゴール〟と〝5人抜き〟シーンをご覧ください。(

  

    https://www.youtube.com/watch?v=bNBXlZ0Y5pg

    https://www.youtube.com/watch?v=7hzCyPUnk6o


勢いに乗ったアルゼンチンは、そのまま勝ち続けて見事優勝。
後日マラドーナ自身がハンドであったことを告白していますが、ゴールは成立したままです。


私自身も野球やっていた時はたびたび誤審に泣かされましたが、こと生活が懸かっているプロスポーツ選手にとっては、まさに死活問題。

最もビデオ判定を重要視・導入が進んでいるのは、米プロフットボール・NFL。

一度1986~91年まで導入したものの、試合進行が遅れたため一旦中止。
そして1991年にシステムを改良して再導入。

現在ではタイムアウト1回を引き換えに審判にビデオ判定を申し入れる 〝チャレンジ〟 という制度が定着していますし、むしろこれが試合を盛り上げる要因にすらなっています。

野球では、メジャーリーグが2008年8月から、そして日本のプロ野球では2010年から正式に導入。

また昨年W杯での日本代表の活躍で注目を集めたラグビーでも、主審が時々試合中に枠を囲うジェスチャーでビデオ判定の要請を行い、ビデオ・ルームの見解をイヤホーンで聞いていました。

テニスでも〝ホークアイ〟と呼ばれるミサイル誘導技術を応用した最新鋭機を導入してライン際のボールのイン・アウトを判定しています。

そりゃあ時速200km超の弾丸サーブを肉眼で正確に見極めるのは難しいですもんネ。

しかし皮肉なことに、最も導入が遅れているのがサッカー。

2012年から〝ゴールレフ〟などを導入して、ゴールラインを割ったかどうかの判定をするようになりましたが、試合途中のプレーについては未だ審判に任せきり。

このままだと、またマラドーナのような疑惑の判定が出る可能性は十分・・・と心配していたら、数日前に南米で再び〝神の手ゴール〟が飛び出し、それによってブラジルは29年ぶりにコパ・アメリカのグループ・リーグでの敗退が決定、ドゥンガ監督が解任されてしまいました。

今後FIFAがどういう考え方を打ち出すのか、注目です。


の昔、ある元ラグビー選手が死ぬ間際に残した最期の一言は、家族への感謝やビジネスに関する事ではなく、


「あれは、絶対スローフォワード(※自分より前にいる味方にパスする反則)じゃなかった!」


だった・・・というエピソードを耳にしたことがありましたが、選手に一生悔いが残るような誤審がなくなることを期待しましょう。

最後にクイズをひとつ。

それでは最も早くビデオ判定を導入したメジャー種目は、なんでしょう?


・・・正解は、日本の大相撲。

導入されたのは今から47年も前の1969年五月場所から。

発端は同年3月場所2日目、〝昭和の大横綱〟大鵬関が戸田関に敗れ、連勝が45で途絶えた一番。

この取り組みでは当初、行司を務めた22代・木村伊之助(後の26代・庄之助)は戸田の足が先に土俵を割ったとして軍配を大鵬に上げました。

しかし物言いがつけられ、協議の結果行司差し違えで戸田の勝ちに。


ところが翌日の新聞には、先に戸田関の足が土俵を割っている写真がデカデカと載り、協会の面目は丸つぶれ。


        

この〝世紀の大誤審〟のおかげで、いち早くビデオ判定が導入されたのです。

当時小学生だった私はこの一番をテレビで観ていて大好きな大鵬関の連勝記録が途絶えて泣きたいくらいショックだったことをはっきり憶えています。

もしもっと早く採用されていれば、大鵬関の連勝はどこまで伸びていたんでしょうネ?



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