ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

〝可憐な花々に囲まれた心温まるお葬式〟をモットーに、日々お客様のために頑張っております葬儀社ウォームハート・・・の社長、人呼んで「葬儀屋ナベちゃん」です。 毎日の仕事や、人・映画・書籍等との出会いの中で感じたことなどを徒然なるままに綴ってまいります。

弊社HPには、オリジナル・デザイン生花祭壇の画像を種々掲載しております。

  

    


           是非ご覧下さい! 


     URL : http://www.warmheart.jp


  生前相談・見積依頼・葬儀に関するお問い合わせは 

        

      TEL : 03-5399-7123


  まで。 いずれも無料ですので、お気軽にどうぞ!


            バラ 必 見 バラ


     “オリジナル生花祭壇 Episode Series


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            ダウン     ダウン     ダウン


  1.〝オ-ストラリア〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080131.html
  2.〝 電  話  機 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080208.html

  3.〝 美  術  館 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080216.html

  4.〝 外  洋  船 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080305.html
  5.〝 波      涛 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080623.html

  6.〝 White Light 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20090129.html

  7.〝 別 れ の 曲 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11159923479.html

  8.〝ゴルフコース〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11795745868.html


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サーファーで、彼の名を知らなきゃモグリと言われても仕方ないでしょうネ。

    デューク・カハナモク

 Duke Paoa Kahinu Mokoe Hulikohola Kahanamoku

 

今日は、〝近代サーフィンの父〟と言われた彼の命日・没後50周年にあたります。

 

       

カハナモクは、その名前から察せられる通り、1890年のハワイ・オアフ島生まれ。

父親と同じデュークと名付けられワイキキで育った彼は、幼少時からカヌーや水泳に親しんだ、生粋のウォーター・マン。

高校を中退して、一日中ワイキキ・ビーチをうろついていた彼ですが、1911年に水泳大会に出場し、自由形100ヤードで当時の世界記録を4.6秒も上回る記録を出したというのですから、驚き。

翌年にオリンピック代表となり、その年開催されたストックホルム五輪・100m自由形で優勝。 

1920年のアントワープ大会でも優勝、4年後のパリ五輪では準優勝と、輝かしい戦績を残しました。

オリンピックで金・銀合わせて5個のメダルを獲得した彼が現役引退後に取り組んだのが、サーフィンでした。

もともとサーフィンはポリネシアで古くから儀式のひとつとして伝わっていたそうですが、ヨーロッパからやってきたキリスト教の宣教師が野蛮だとしてサーフボードを集めて燃やし、禁止していました。

金メダリストとしてサイレント映画に約30本も出演した彼が、その知名度を生かしてサーフィンをスポーツとして紹介・復活させ、アメリカ社会に流行らせたのです。

彼の普及活動のおかげで、1960年代に入るとハワイを〝楽園〟として扱う映画が多数制作され、サーフィンは完全にマリンスポーツの花形に。

ビッグ・ウェーブが次々と押し寄せるオアフ島・ノースショアは、サーフィンの聖地となり、彼の名を冠した〝デューク・カハナモク・インヴィテーショナル〟が1985年まで開催され、1990年には彼の功績を称え、ワイキキ・ビーチに銅像が建てられました。

       

この銅像を見るとお分かりのように、彼が愛用していたのは〝パパ・ヌイ(papa nui )〟と名付けられた、長さ4.8m・重さ52㎏という巨大なロング・ボード。

現在のサーフィンで愛用されているショート・ボードとはかなり違いますょネ。
 

スキーもそうですけど、なぜか時代と共に短くなるのが面白いですが、おそらく操作性を重視して様々な技が生かせるように変化したんでしょうネ。

更にアウトリガー・カヌーの競技大会も主催し、1930年代から自らの名を冠したブランドを立ち上げてアロハシャツを販売することでハワイの産業に大きく貢献した彼が77歳でこの世を去ったのが、1968年1月22日。

さすがにこの真冬の日本でサーフィンする人は殆どいないでしょうが、ハワイが好きな方やサーファーは、是非今日は彼の冥福を祈ってください。笑3
 

 

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自民党が長期政権を維持していた、いわゆる〝55年体制〟時代は、政治資金等カネにまつわる疑惑と言えば自民党議員がヤリ玉に上げられ、野党議員やマスコミから集中砲火を浴びたものでした。

確かに汚職に手を染めた政治家は違法行為を厳しく責められるべきです・・・が、正義の味方よろしく追及・批判を繰り返し、2009年の政権交代で与党の座を奪った旧民主党ら左翼政党の議員たちは果たして清廉潔白なのか?


そこにスポットを当てた書籍が、今月18日に出版されました。 


そのタイトルは、いたって過激な

 『売国議員』 (青林堂・刊)


        

 

著者は、2011年からインターネット掲示板・2チャンネルに政治関連情報を投下し始めてネットユーザーの間で有名になった、〝カミカゼじゃあのwww〟氏。

過去ネット上に公開された情報をまとめ、更に政治資金収支報告書などの公的資料に記載された内容を集積して旧民主党や社民党ら左翼政党議員の〝闇〟を暴いています。

彼が同書の中で

 

「ネットが発達するまでには、こんな議員たちがメディアを使ってやりたい放題を続けていたわけだ。

(北朝鮮日本人拉致事件実行犯の釈放嘆願書に)署名した当時は、後にこんな特大ブーメランになるとは想像もしていなかっただろう。

身に覚えのある議員は震えて待ってろだが、一歩間違えれば永遠に封印されていたかもしれないということを、我々(国民)は肝に銘じておく必要がある。」


と語っている通り、ネットのおかげで彼らの悪行(?)が白日の下に晒されるようになったのは、確か。

 

菅・元総理の献金疑惑を含めた北朝鮮との関係、革マルとの選挙協力を書面で残した枝野・現立憲民主党代表、森友学園問題に絡んで逆に生コン疑惑を掘り起こされた辻元議員や慰安婦問題の元凶とされる福島議員。

それぞれが関係する団体が実は裏で繋がっていることを、同書は浮き彫りにしています。

前回の総選挙で〝希望〟ブームの余波を受け急遽立ち上がった立憲民主党・・・そのロゴマークは僅か一晩で出来上がったそうですが、枝野代表の秘書は発表の際、「デザイナーは、民主党や民進党のロゴを作った人物とは異なる」と言ったそうな。

きっと、そうでしょうネ。

だつて、そのロゴは、関西生コンも加入している『連帯ユニオン』と構図がよく似てますから・・・。

   

断言はしませんが、彼ら反日左翼勢力がお互いに〝連帯〟していることを如実に示している、と私には思えます。

本書に取り上げられている議員の多くが、旧民主党政権の幹部ですが、同時に彼等が立憲民主党に集結している事実も見逃せません。

何ら具体的な対案もなく安倍政権を批判している、まさに親鮮反日議員である彼らにどんなバックボーンがあるのか?

本書を通して、是非多くの国民・・・特に反自民というだけで彼らに投票した有権者には、メディアが殆ど報じないこれらの裏情報を知ってもらいたいところ。

間違っても、反日・朝鮮民族団体の会合でこんな挨拶をするような(本書にも登場する)〝売国〟議員を、総理の椅子に二度と座らせることのないように。
うー





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小学生時代、私がプロ野球と共にTV中継で熱狂したのが、プロレスでした。

 

ジャイアント馬場やアントニオ猪木の日本人レスラーはもちろんですが、ザ・デストロイヤーやビル・ロビンソンにも憧れたものです。

 

そして当時の外人レスラーで、もう1人忘れられないのが

 

 ボボ・ブラジル 選手

   Bobo Brazil

 

今日は〝黒い魔神〟と恐れられた、この実力派レスラーの命日・没後20周年にあたります。

 

       

 

私は長いこと彼が名前通りのブラジル人だと思っていましたが、実際は1924年にアメリカ・ミシガン州で生まれた、本名ヒューストン・ハリスというアフリカ系アメリカ人。

 

「人種差別のないプラジルに行きたい」 という彼の願いが、リングネームの由来だったそうです。

 

1951年にリングデビューを果たしたのですが、本当は〝Boo-Boo Brazil (ブー・ブー・ブラジル)〟というリング・ネームのはずだったのに、プロモーターが間違えて〝Bo Bo Brazil〟とポスターに印刷してしまい、結局その名を使うことになったのだとか。

 

しかも〝ボボ〟というのは黒人に対する蔑称なのだそうですが、当時は白人レスラー優位のプロレス界・・・それを名乗ってヒール役にならなければ、黒人レスラーは生き残れなかった時代でした。うー

 

しかし私が生まれる前年の1957年に初来日を果たすと、身長195cm・体重120㎏の恵まれた体躯と抜群の身体能力で人気を集めます。          

 

あの223cm・230kgの〝大巨人〟アンドレ・ザ・ジャイアントと引き分けたのですから、実力はトップクラスといっても過言ではないでしょう。

 

〝鉄の爪〟フリッツ・フォン・エリックと互角の握力を持ち、ドロップ・キックも強烈でしたが、何と言っても有名だったのが ココ・バット と称された頭突き。

 

相手の頭を押さえてのジャンピング・ヘッドバットは強烈で、対戦レスラーは七転八倒。

 

当時やはり頭突きで有名だった大木金太郎とのヘッドバット勝負は、大いに観客を沸かせました。

※この〝ココ〟も〝頭の中が空っぽ〟という黒人に対する侮蔑の言葉だったそうな。 ったく酷い話です。

 

       

私もそれに触発されて、学校の休み時間に手当たり次第に同級生を捕まえては頭突きをしまくり、仕舞いには自分がクラクラ・・・。ダメだぁ顔 オバカ

 

そんな彼が日本・・・特に九州地方で大人気だったのには理由が。

 

九州巡業の時には、彼のリングネームが高らかにコールされると男性の観客は大喜び、女性は思わず顔を手で覆って俯いたとか。

 

そのワケは彼のリング・ネームにあるのですが・・・格調高い(?)拙ブログでは、申し上げられません。あせあせ

 

そしてジャイアント馬場を破り、インターナショナル・ヘビー級王座を獲得した1968年・・・ちょうど私がテレビにかじりついていた頃に彼は全盛期を迎えましたが、その後1970年代に入るとタイトルを奪還され、日本人選手の引き立て役に回るように。

 

特に試合開始前に手渡された花束をムシャムシャ食べるパフォーマンスでヒール役に徹する姿は、全盛期の強さを知る私には見るに耐えない光景でした。

 

1990年代に入って現役を引退しレストラン経営で成功するなどしましたが、1998年1月20日・・・脳卒中により73歳でこの世を去りました。

 

もしかしたら、ココバットのやり過ぎが災いしたのかもしれませんネ。

 

しかし人種差別が激しい時代に裸一貫で生き抜いた彼の活躍は、後進の有色人種プロレスラーに計り知れない勇気を与えたはず。

 

少年時代の私の胸をときめかせてくれた〝黒い魔神〟のご冥福を、あらためてお祈りいたします。笑3

 

 

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昭和時代は、よく街中を走る姿を見かけたものでした。

 

〝カブトムシ〟の愛称で長年多くの人々に親しまれた、その世界的大衆車、

 フォルクスワーゲン タイプ1
       Volkswagen Type1

のドイツ国内生産が打ち切られたのが、今からちょうど40年前の今日・1978年1月19日のことでした。

 

     

 

実はこの名車の誕生には、あのヒトラーが大きく関わっていました。

彼が1933年ドイツの首相に就任した際、ベルリン自動車ショーの席上でナチスの支持率アップを狙ってアウトバーンの建設と国民車の開発構想をぶち上げたのが、事の発端。

 

ヒトラーから提示された〝早くて丈夫で、しかも安価〟という厳しい条件をクリアしなければならなかった新車の開発は、ポルシェの創業者である設計家フェルディナント・ポルシェに託されました。

彼は試行錯誤の末、今からちょうど80年前の1938年にプロトタイプVW38Tを完成。

ヒトラーによって〝KdF-Wagen 〟と名付けられた同車は量産が開始され、販売にあたっては、国民はクーポン券による積み立てで購入費用を貯蓄し、満額に達すると車を引き渡すという計画が立てられました。

     

               1938年製のKdF-Wagen

 
ところが翌年に第二次世界大戦が勃発したため、生産は中止。
クーポン券も紙くずと化してしまったとか。

しかし敗戦後、連合国側がドイツの技術を多方面にわたって接収しましたが、この車はあまりに先鋭的なデザインだったため、誰も手を付けなかったことが幸いしました。

同車工場の管理を任されたイギリス人将校のアイヴァン・ハーストが操業を再開させ、1945年からは本格的な生産を再開。

西ドイツ国内はもとより海外にも輸出されるようになった〝カブトムシ〟・・・国内生産は40年前に打ち切られたものの、その後メキシコなど海外工場で2003年まで生産され続け、21,529,464台という当時の累計生産台数の世界記録を打ち立てました。

※トヨタ・カローラは1966~2016年の50年間で累計4,400万台。

日本では1952(昭和27)年から輸入車ディーラーのヤナセが販売を開始。

寒冷時に急な往診があっても速やかにコールドスタートできる、という実用性が開業医に支持され、医師自らハンドルを握る〝ドクターズカー〟として利用されたといいます。

そういえば、子供の頃見かけたカブトムシに乗っていた人は、皆さん品が良かったような・・・。
 

現在街中を走っているのは、愛称そのままの『フォルクスワーゲン・ザ・ビートル』。

     

旧カブトムシのテイストを残しつつ、いかにも21世紀を感じさせる洗練されたデザイン・・・ですが、乗るなら元祖カブトムシと思ってしまうのは、昭和オヤジの私だけ?あせあせ

 

 

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今日は、2018年最初となる激辛商品のご紹介です。

 

普段新商品・珍商品・激辛商品と出会うのはコンビニなんですが、今回は普段行きつけのスーパーで見つけました。 

 

その商品名が凄いんです。

 大馬鹿ヤローカレー 激辛

 

      


真赤な唐辛子が描かれたパッケージは、イヤでも激辛党の私の目に飛び込んできました。

当然カゴの中に入れましたが、買った理由は激辛であることはもちろんですが、使われている肉が馬肉とえぞ鹿肉だったこと。

だから馬鹿ヤローってネーミングなんでしょうが・・・実は私、以前北海道に旅行した際にお土産として 『えぞ鹿カレー』 と 『熊カレー』 を買って帰ったことがあり、これが結構美味しかったんです。

その後鹿肉のカレーは口にしていなかったので、懐かしかったから・・・。

ご覧の通り、パッケージは一般のレトルトカレーより一回り大きめ。

    

だから売り場でも目立ったのですが、内容量は同じ180g。
札幌市にあるメーカーの北都さん、結構商売上手かも。

さて、3分ほど湯煎してご飯にかけると、こんな感じ。

    

見た目はそんなに辛そうでない、バーモントカレーみたいな黄色。

しかし試食してみると、結構辛かったです。

普通の激辛カレーよりも、唐辛子のピリピリした尖った辛さが舌に突き刺さる感じ。

 

グリコのLEEとは、ちょっと食感が違いますネ。

比較は難しいですが、個人的にはLEEの10倍よりは辛く感じました。

でもただ辛いというだけでなく、ちゃんとカレーの味わいもありましたョ。

ただ残念だったのは、馬と鹿の肉の区別が分からなかったこと。

 

個人的には全部えぞ鹿肉でも良いですが・・・あっ、それだとネーミング変えなきゃいけなくなるのか。あせあせ

見た目は辛くなさそうですから、旦那さんを懲らしめたくなったら食べさせてください。

普通の方なら、汗だく&涙目になるのは必至・・・その悶絶する姿を眺めつつ、

「あなた、そのカレーに入ってる肉、何だか分かる?
馬肉と鹿肉なんですって。 バ~カ!」

とトドメを刺せば、スッと気が晴れる・・・かも?
笑2

ただ1個548円(通販ではもっと高価)なので、ご注意を。

 

 

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今から半世紀前、日本では学生・労働運動が盛んでした。

それを象徴する大きな出来事のひとつが、米原子力空母エンタープライズの寄港。

佐世保港に入港する数日前から反対運動が激化し、今からちょうど50年前の今日・1968(昭和43)年1月17日には、反対派数千人が反対集会を決行。

ヘルメットと角材で武装した新左翼系全学連約800名が国鉄佐世保駅を出て機動隊と衝突。 27人が公務執行妨害で逮捕されました。

18日には佐世保市営球場で大規模な反対集会が開かれたものの、結局空母は翌日入港したのですが・・・今日取り上げる話題は、その反対運動自体ではなく、その余波として起きた

 博多駅テレビフィルム提出命令事件
 

全学連と機動隊が衝突する前日の1月16日早朝、入港阻止闘争に参加するため博多駅で下車した全学連メンバーに対し、待機していた機動隊や鉄道公安職員が検問と所持品検査を行い、公務執行妨害で学生4人が逮捕された、いわゆる 『博多駅事件』 が起きました。

これに関して、護憲連合らが警察に行き過ぎた行為があったとして職権乱用罪などで付審査請求を行った際、福岡地裁が地元のテレビ局4社に対して事件当日の撮影フィルムの任意提出を求めたところ拒否され、提出を命令。

これを不服として4社が 「報道の自由の侵害であり、提出の費用はない」 と抗告したもの。

 

       

結局この抗告は最高裁まで持ち込まれたものの棄却され、その決定に基づき福岡地裁は1970年3月、テレビ局から放送済みのテレビフィルムのみを差し押さえました。

最高裁は、

「報道の自由は憲法第21条で保障される取材の自由は無制約ではない。 報道機関の取材フィルムに対する提出命令が許容されるか否かは、対象犯罪の性質、軽重および取材内容の証拠としての価値、公正な刑事裁判を実現するための必要性の程度と、これによって取材の自由が妨げられる程度を比較衡量して決めるべきである。」

とし、当該案件に関しては報道機関が被る不利益より裁判の証拠としての価値が勝るとしたのです。

私はこの判断は至極真っ当だと思います。

テレビ局は、撮影した映像が証拠として裁判所に提出されるとなれば、それを恐れた対象者がインタビューに応じなくなると主張するでしょうが、そんなのは自分が犯罪を犯していると自覚している人くらいでしょう。

報道関係者か否かに関わらず、求められるべきは犯罪の抑止と犯人の逮捕、そして真実の追求のはず。

映像がその強力な武器となるのは、防犯カメラ映像の活用が証明しています。

アメリカでは犯罪捜査や裁判の証拠としてテレビ局の映像tが提出されるのは当たり前ですし・・・。

屁理屈をこねて報道の自由を声高に叫ぶ前に、まずは犯人逮捕・真実の追求に協力すべきでしょう。

その証拠となる映像の提出を拒否するのは、何か政治的な意図がそのテレビ局にあると考えて差し支えないでしょうネ。

それとも、提出すると映像を都合よく編集したり捏造していることがバレるのが怖いのかナ?うー

 

 

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一昨年、今上天皇が自らのお気持ちを公表されたことを受け、来年4月30日に譲位(生前退位)なされることが決定しました。

これに大きく関わるのが、日本国憲法第2条・第5条に基づき皇位継承や摂政に関して定められている

 皇室典範

1889年に制定された旧・皇室典範を改定し同法が制定されたのが、今から71年前の今日・1947(昭和22)年1月16日のことでした。
(※施行は日本国憲法と同じ同年5月3日。)

 

旧典範が全12章62ヶ条であるのに対し、現典範は全5章37ヶ条と大幅に簡略化されましたが、皇室の定義・維持に関して根幹をなす法律です。

しかし同法には、今上天皇が示された譲位(生前退位)に関しての規定がないため、一代限りで・・・という例外的措置が講じられたのは、皆さんもご承知の通り。

私は個人的に、天皇陛下の公務が激務であること、またそれを真摯にこなされてこられた事を考え合わせ、自らその地位を皇太子に譲られるお気持ちは尊重すべきだし、たとえ一代限りであったとしても、その思いを叶えて差し上げるべきだと考えていましたから、それが実現の運びとなったのは嬉しい限り。

ただ心配なのは、(今後の)皇位継承について。

第一条は、「皇位は、皇統に属する男系の男子が、これを継承する。」と規定していますが、この存続が難しくなってきているのです。

現時点では、皇位継承順位は1位が皇太子殿下、2位が秋篠宮文仁親王、3位が文仁親王のご長男・悠仁(ひさひと)親王。


 

第十二条に於いて、「皇族女子は、天皇及び皇族以外の者と婚姻したときは、皇族の身分を離れる」と、また第九条で「天皇及び皇族は、養子をすることができない」と規定されているので、もし将来悠仁親王がご成婚されて男子が生まれないと、連綿と続いてきた天皇の血筋=万世一系が途絶えることに。
 

そこで出てくるのが、女性天皇と女系天皇の問題。

女性天皇とは、文字通り女性が天皇になること。

 

そして女系天皇とは、天皇の血筋の女性とそれ以外の血筋を持つ(一般)男性が結婚してできた子が天皇になること。

この場合、その子が男性・女性に関わらず女系天皇となります。
 

過去に女性天皇は8人・10代いたとされていますが、いずれも父系に天皇を持つ男系天皇であり、未婚もしくは天皇・皇太子の元配偶者(未亡人・再婚せず)という、言うなればワンポイント・リリーフのような形。

ですから、仮に皇室典範を改定して愛子様と一般男性が結婚され、生まれた子に継承されると、男系天皇の血筋が途絶えることに。

私はこれは認められません・・・が、さりとて悠仁親王が男子を授からなかった場合、人工授精や側室を認めるというのは、抵抗があります。

果たして万世一系を維持するためには、どうすればよいのでしょうか? 

 

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〝ヌード〟とか〝ストリップ〟なんて言葉、今時の若者にはピンとこないかもしれませんが、私のような昭和世代の男性は何とも言えぬ郷愁を感じるのではないでしょうか。

そのヌードショーというか、ストリップショーが日本で初めて開演されたのが、今から71年前の今日・1947(昭和22)年1月15日のことでした。

場所は、東京・新宿三丁目の現在マルイ本館が建つ場所にあった、日活の封切り館・『帝都座』 という映画館・劇場。

 

       

ご覧の通り、結構立派な建物ですが、ここで行われたのが

 額縁ショー

という出し物。 読んで字の如く、額縁の中で裸体の女性がポーズを取り、それをお客が見て楽しむ・・・というもの。(↓)

 

       

彼女たちは踊らずジ~ッとしていただけ・・・つまりは絵画の裸婦像に見立てて、猥褻性を薄めようとしたんですネ。

幕が開いてから閉じるまでは、ほんの10秒程だったそうですが、それでも定員420名の劇場に毎回約2,000名が押しかけたそうですから、その人気ぶりが分かります。

まぁこういう見世物って、ちょっとしか見られない方が興味をそそりますからネ。あせあせ

この画期的(?)なショーを考案したのは、

 秦  豊 吉 氏 (1892-1956)
 

       

彼は、歌舞伎役者・7代目松本幸四郎の甥で、東京帝国大学卒業後三菱商事に入社した秀才。

文学に造詣が深かった彼は数々のドイツ文学を翻訳し、中央公論社から単行本を出版してベストセラーになったことも。

そんな彼が1933年に東京宝塚劇場に勤務して日本劇場の運営に関わり、日劇ダンシングチームを育成。

そして1940年に同社の社長となり、同年には後楽園スタヂアムの社長も兼任。

終戦時は東宝の演劇担当副社長の要職にあったため、戦犯に指定され浪人の身となりましたが、1947年にこの額縁ショーを考案して成功を収め、1950年には帝国劇場の社長に就任し、ミュージカル公演を成功させるなどしました。

つまり日本初のストリップショーを実現したのは、単なるスケベおやじではなく立派な経営者だった、というわけ。

彼はこの興行に関して後にこう語っています。

「甲斐美和さんこそ、日本の舞台で美しい乳房を見物の前に露わした、最初の女性である。

甲斐さんは、色の白い人ではないが、美しい体格で、そこに縹渺たる苦心の照明を作用させたから、立派な立体画が出来上がった。

見る人も私も勿論この効果に感嘆した。」

と。 しかし同時に、

「この3年のハダカ・ショウを拝見すると、やはりどうにも贅沢な美しさが見られないのは遺憾千万であって、こういうショウは思い切って贅沢なものになるか、或は港町の酒と煙草のけむりの中の見世物になるかである。

これを美しく磨き上げる人がいないから、東京のこの種類のものが、波止場に近いものになつてしまつた。」

とも。 つまり彼はこのストリップショーを単なる猥褻な見世物ではなく、芸術として捉えていたんですネ。

21世紀のポルノ産業は、当時の人々には考えられない開放ぶりですが、果たして秦氏のように真面目にアートとして取り組んでいる業者はいるや否や。

もっとも、芸術作品として見ていたお客は当時から殆どいなかったとは思いますが・・・。うー

 

 

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早速ですが、皆さんは今日のブログ・タイトル、

 左義長

 

ってご存知でしょうか?

これは地方によって呼称が違い、私の郷里では 『どんど焼き』 って言ってましたが・・・。

それは(一般的に)毎年今日・1月14日の夜、または15日朝に、長い竹を3,4本組んで立て、そこにその年飾った門松や注連飾りなどを近隣住民が持ち寄って積み上げ、それを焼く行事のこと。

私が子供の頃は、成人の日だった1月15日に神社の境内(というか空き地)で行われ、柳の枝の先に餅をつけ、猛烈な炎の中に突っ込んで焼いて食べた思い出があります。

まぁ、ただ焼いただけであまり美味しくはなかったですが・・・。あせあせ

 

         

この行事は、『徒然草』 や 『弁内侍日記』 に記述があることから、少なくとも鎌倉時代から行われていたようです。

そしてその起源については諸説あるそうですが、有力なものとしては、平安時代の宮中で貴族が行っていた 『毬杖(ぎっちょう)』 と呼ばれるホッケーのスティックのような杖で毬を打ち合う正月遊びがあり、小正月に青竹を束ねて立ててその杖を3本結び、その上に扇子・短冊を添えて陰陽師が歌い囃しながらそれを焼いた事だとか。

※左利きの人を昔よく〝ぎっちょ〟と言いましたが、これはこの遊びを左利きの人が行うことを左毬杖(ひだりぎっちょう)と言ったのがルーツで、それが 「ひだりきっちょ」、「ぎっちょ」 に変化したもの、という説があります。

毬杖を3本束ねたことから三毬杖・・・これが民間に伝わり『左義長』と漢字が変化して定着したのだそうな。

では私の故郷のように、これがなぜ 『どんど焼き』 等と言われるようになったかというと、これも諸説あって

 ◆ 「尊(とうと)や尊(とうと)」と囃しながら櫓で火を燃やしたのが、

  後に訛って「どんど」に変わった。

 ◆ どんどんと燃える様子から名付けられた。


等々・・・皆さんのお住まいの地域または故郷ではどんな呼び名で、またどんなやり方をしていましたか?

だるまとかも飾っていた方もいらっしゃるかも。

現在は成人の日が第2月曜日になってしまいましたから、行う日もそれに合わせている地域もあるんでしょうネ。

 

あっ、そうそう・・・どんど焼きをする時に、書き初めを持って行って焼きましたが、その炎が高くなるほど字が上達する、なんて言われましたっけ。

あまり高くなかったから上手くならなかったんでしょうネ、私の場合は。

それはともかく、餅つきは不衛生だ、除夜の鐘はうるさいから・・・なんて理由で行事を中止する地域が昨年あたりから出だしたようですが、同様に「子供の歓声がうるさい」とかいってこの行事を止めさせようという輩が出ないとも限りません。

日本古来の行事を、ノイジーマイノリティーに遠慮する形で消滅させることだけは、絶対に止めて欲しいものです。うー

 

 

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以前拙ブログでは、ハドソン川に見事緊急着陸して乗客・乗員全員の命を救った機長のエピソードを記事にしました。(↓)

 

 

この美談は映画化もされましたが・・・残念ながら、こういう事例はごく一握り。

 

同じように川に着水(というか墜落)しても、こちらは悲惨な結末を迎えてしまいました。 それは、36年前の今日・1982年1月13日にアメリカで起きた

 エア・フロリダ90便墜落事故

 

同日午後4時頃、ワシントン・ナショナル(現・ロナルド・レーガン・ワシントン・ナショナル)空港を、エア・フロリダ90便(B737)が猛吹雪の中をフロリダ州タンパに向け離陸。

 
            墜落する約1年前に撮影された同機
 

当然機体には着氷が・・・しかし駐機中の除雪作業が不十分だったこと、エンジン始動時のチェックでアンチ・アイス(防氷装置)の項目を機長がOFFにするミスを犯してしまいます。

 

更に滑走路で順番待ちしていた際、マニュアルの指示とは逆に前の旅客機のジェット噴流で融雪しようとして逆に着雪を促進する結果に。
 

そして滑走路を走り出してから,副機長は異常に気付きながらも機長は離陸を強行。

結局揚力不足で機体は離陸直後、ポトマック川に架かる橋に激突し、墜落。

  

 

乗員・乗客79人の内74人、更に橋の上を走行中の自動車に乗っていた4人の計78人が死亡。

客室乗務員1人と乗客4人が救助されたのは、不幸中の幸いでした。

※事故を起こしたフロリダ航空は、2年後に倒産。

 


凍りついた川に投げ出された生存者をヘリで救出する様子はニュース映像で流されましたから、ご記憶の方も多いと思います。(↓)

 

  https://www.youtube.com/watch?v=I5nTuEzMpzo&t=229s

そしてもうひとつ、この救出劇の中で美談がありました。

墜落から20分後にヘリが到着した時、当初男性の乗客に命綱が渡されましたが、彼は2度にわたりそれを近くにいた女性に譲ったのです。

2人目の女性は手が凍えてローブを手放してしまいますが、それを岸から見ていた男性が飛び込んで助け、彼女は無事救出。

しかしヘリが3回目に戻った時、女性にロープを譲った男性は既に力尽き、水中に沈んでいたのです。

この騎士道精神に溢れた男性は、アーランド・ウィリアムス。

 

        

46歳の銀行監察官でした。

後日、彼には危険を顧みず救助活動を敢行したヘリの乗員2名と共に自由勲章が授与され、衝突された橋の名が “Arland D. Williams Jr. Memorial Bridge ” と命名されました。

また彼の故郷・イリノイ州には、彼の名が冠せられた小学校も新設されたとか。

まさに〝地元のヒーロー〟ですょネ。

レディー・ファーストが当たり前のアメリカとは言え、自分の命が危ない時に女性を先に救おうとするなんて、中々できることではないでしょう。

貴方は、できますか?

私は、その女性が美人だったら救おうとするでしょうが、女房だったら・・・。うー

 

 

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