ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草

〝可憐な花々に囲まれた心温まるお葬式〟をモットーに、日々お客様のために頑張っております葬儀社ウォームハート・・・の社長、人呼んで「葬儀屋ナベちゃん」です。 毎日の仕事や、人・映画・書籍等との出会いの中で感じたことなどを徒然なるままに綴ってまいります。

弊社HPには、オリジナル・デザイン生花祭壇の画像を種々掲載しております。

  

    


           是非ご覧下さい! 


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  生前相談・見積依頼・葬儀に関するお問い合わせは 

        

      TEL : 03-5399-7123


  まで。 いずれも無料ですので、お気軽にどうぞ!


            バラ 必 見 バラ


     “オリジナル生花祭壇 Episode Series


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            ダウン     ダウン     ダウン


  1.〝オ-ストラリア〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080131.html
  2.〝 電  話  機 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080208.html

  3.〝 美  術  館 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080216.html

  4.〝 外  洋  船 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080305.html
  5.〝 波      涛 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20080623.html

  6.〝 White Light 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/day-20090129.html

  7.〝 別 れ の 曲 〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11159923479.html

  8.〝ゴルフコース〟《 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11795745868.html


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現在も苦境が続く出版業界ですが、1923(大正12)年に起きた関東大震災は、同業界を壊滅的状況に追い込みました。

神田の書店街をはじめ駿河台・淡路町まで広がっていた印刷・製本業者の工場・店舗は火災に見舞われ、東京印刷協同組合に加盟する約300社の552工場が焼失。

在庫本も焼失し、その中には翌年の新学期から使用されるはずだった小学校用教科書約1,500万部が含まれていたそうですから、被害は想像を絶します。

そんな危機的状況を救う、画期的な企画、


  えん  ぽん
 円 本

が発売されたのが、今からちょうど90年前の今日・1926(大正15)年12月3日のことでした。

販売したのは 『改造社』 という出版社で、思いついたのは同社の創業者・山本実彦(さねひこ 1885-1952)氏。

         


山本氏は現在の鹿児島県川内市出身。

実家はかつて地元の名家だったものの明治維新後は落ちぶれて破産寸前だったため、中学を中退し代用教員として沖縄に渡り実家に仕送りを続けた苦労人。

その後上京して日本大学を卒業後 『やまと新聞』 に入社しロンドン特派員を経験した彼は、その後28歳の時に 『東京毎日新聞社』(※現在の毎日新聞社とは無関係)の社長を4年間務め、その後34歳で『改造社』を創業。

総合雑誌〝改造〟を刊行し、賀川豊彦の『死線を超えて』 や志賀直哉の『暗夜行路』 を掲載、また林芙美子を発掘するなど、出版界の中心的存在となりました。

しかし、そこに襲ってきたのが前述の関東大震災。
改造社も社屋が全焼し前途が危ぶまれましたが、ある社員が

「大震災で本も焼失したが、本は一般人にとって高価で手が出ない。
安い全集を出版できないか?」

と進言したことで、彼は 『現代日本文学全集』 の刊行を決意。

それまでの出版界の常識を打ち破る

 ◆ 1冊1円の均一価格
 ◆ 全巻予約制
 ◆ 月1冊配本

というシステムを編み出したのです。

まぁ今でいうならディ〇ゴス〇ィーニみたいな販売方法といえましょうか?

当時の単行本は1冊7~80銭だったそうですが、その10冊分を1冊に収録して1円で売ろうという超薄利多売。


当時の1円は、現在の2,000円くらいだったようですから、その安さは破壊的だったことでしょう。

しかも手元資金のない同社が予約制にしたのは、顧客から先払いで資金を得ようという大ばくち・・・しかし、この目論見は見事に当たります。

新聞に公告が出るや、同社に予約が殺到。

            


23万人、即ち23万円の資金が集まったおかげで、無事最初の『尾崎紅葉全集』は配本され、改造社は息を吹き返しました。

この1円均一の販売法が、その前後に大阪・東京で生まれた1円均一でお客さんを運ぶ〝円タク〟に因んで、〝円本〟と呼ばれるようになったとか。


最終的に予約は50万近くに及んだそうですが、他社も指をくわえてみているわけはなし。


新潮社・春陽堂・平凡社等が同様に〝円本〟を発売し、出版業界は再び活況を呈し、ついこの間まで食うにも困っていたのに、円本ブームで突然入ってきた印税で海外旅行を楽しむ者作家まで出る程。


 
 
                    『現代日本文学全集』全63巻の一部


また日本で初めて刊行された文庫本シリーズ 『岩波文庫』 も、この円本に触発されて翌1927年に刊行されましたから、出版界にとっては実に大きな影響を及ぼしたアイデアでした。

しかし当然のことながら、一度出した全集は2度と売れず・・・この円本ブームは他社が参入したこともあって、4年後の1930年頃には鎮静化。

とは言え、出版業界を蘇生させるには十分な起死回生のアイデアであったことは間違いありません。

余談ですが、このアイデアを捻りだした山本氏は、このブーム以前に社費をかけて高名な哲学者・数学者のバートランド・ラッセルを、そして彼の推薦を受けてあのアインシュタイン博士を日本に招聘しています。

円本ブームの仕掛け人としてだけでなく、日本の文化活動に大きく貢献した彼の名を、是非ご記憶いただきたく・・・。



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プロ野球中継では実況アナと共に様々な解説者が出演しますが、皆さんは誰がお気に入りでしょうか?


個人的には、自分が野球に打ち込んだ大学時代にTBSで活躍され、当時としては唯一といっていい理論的な解説を冷静な口ぶりで語った


 牧 野 茂 氏


が、ダントツの№1。


現在に至るまで牧野氏ほどハイレベルな解説は、聞いたことはありません。

(野球理論なら野村克也氏も一流ですが、シャベリがねちこくて・・・。) あせあせ


今日は、川上巨人V9を参謀として支え、日本プロ野球界に〝野球理論〟 を初めて持ち込み近代化に大きく貢献した、この稀代の名コーチの命日・・・早いもので、三十三回忌にあたります。


牧野氏は1928年、香川県高松市に生まれました。


疎開先で編入した愛知商業で全国中等学校野球大会(※現在の甲子園大会)に出場し、明治大学に進学して神宮で活躍後、1951年に中日ドラゴンズに入団。


堅実なショートとして1954年のリーグ優勝・日本一に貢献しましたが、1959年に現役引退。 コーチとして残留したものの、1年で退団。


そんな牧野氏が、なぜ縁もゆかりもない巨人軍のコーチになったのか?


それは、退団後評論家として新聞に掲載した記事を読んだ川上監督が、その理路整然とした解説内容と深い洞察力に感嘆し、強く招聘したから。


当時現役時代に在籍した球団以外でコーチをするのは前例がなく、まして親会社がライバル同士だったのですが、川上監督自らが上層部を説得。


現場復帰を熱望していた牧野氏も中日側の了承を取り、1961年7月のシーズン途中に33歳の若さで入団。


川上監督の意向を受け米大リーグ・ドジャーズのスプリングキャンプを視察した牧野氏は、その練習法・戦術を習得しチームに浸透させていきます。


ワールドシリーズ連覇を果たしたド軍の野球は、チームプレーと守備・走塁にその強さの秘訣があると分析した牧野氏は、当時〝エースが抑えて4番が打てば勝てる〟というレベルだった日本野球を根本的に変えました。


           ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-牧野茂


中日時代には大した成績を上げていなかった牧野氏を当初は冷めた目で見ていた巨人軍の選手・OB達も、牧野氏の提唱する戦術が効果を上げ、1963年には前年4位から一気にリーグ優勝という結果が出るに伴い、次第に一目も二目も置くように。


今では当たり前になっている走塁を重視した機動力を駆使し、ヒットエンドランの多用、バントシフト、そしてミスした選手からの罰金聴取等々・・・今では当たり前の戦術・管理法も、全て牧野氏が導入したものでした。


(※ちなみに〝バスター・バント〟は、牧野氏がアメリカ視察中に勘違いした誤訳がそのまま日本に定着した和製英語。 また〝特訓〟も彼が初めて使った単語だとか。)


その成果が最大限に発揮されたのが1965~73年までの9連覇。


V10を逃がした1974年に川上監督と共に退団し、1980年まで解説者として活躍された時期が、ちょうど私の野球現役時代・・・私が野球教本として唯一信頼・熟読したのも、牧野氏の著書『威力の野球』でした。

そこから学んだ勝つために必要なもの・・・それは根性とか気合いではなく、確率の重視。

「3割バッターが3連打して1点を取れる確率は、3割×3割×3割で1,000分の27しかないんです。

でも安打が出て、これを確実にバントで2塁に進め、次打者に期待すれば3割×3割で100分の9まで上がるんです。
ね? どっちを選ぶほうが確実か、言うまでもないでしょう。」

こんな解説されたら、ぐうの音も出ません。

今でも記憶しているのは、退団後解説者として活躍されていた時、長嶋巨人が1年目で最下位に沈んだ翌年、殆どの解説者がBクラスを予想する中で唯一人優勝を予想し、見事に的中させたこと。


そして1981年、長嶋監督の電撃的解任を受け、藤田氏が後任監督に就任した際にヘッドコーチとして再び入団。


現役引退した王助監督と共に〝トロイカ体制〟で8年ぶりにチームを日本一に導きました。


彼が入団する前年の1980年、巨人の1点差試合は17勝33敗だったのが、牧野氏が入団し優勝を果たした81年には22勝16敗・・・戦術・采配に差があったことは明らか。


2年契約だったのを藤田監督のたっての願いで1年延長した1983年に再び巨人は優勝するのですが・・・実は牧野氏は再入団した年から膀胱癌に侵されていたのです。


1981年のオールスター戦の最中に医師から告知を受けていたのですが、チーム事情を優先した牧野氏は入院せず、手術もシーズン終了後に。


1983年シーズンオフにユニホームを脱ぎ、翌年5月に再手術したものの、既に手遅れだったとか。


そしてその約半年後の12月2日・・56歳の若さで天に召されました。


彼がいかに優れた参謀であったかは、〝野球の神様〟・川上哲治氏をして


「もし牧野君がいなかったら、巨人の9連覇は達成できていなかっただろう」


と言わしめ、また1991年にコーチとして初の野球殿堂入りしたことでも立証されているでしょう。


プロ野球屈指の理論家にして、我が野球の恩師でもあった牧野氏のご冥福をお祈り致します。笑3

最後に、先にご紹介した牧野氏の解説を含め、過去の野球解説者の名(迷?珍?)解説を集めた本をご紹介しましょう。

『ブロ野球解説者を解説する』(広尾 晃・著 イーストプレス・刊)


        


「う~ん、大事な試合ですが、やはり1点でも多く取った方が勝つんじゃないですか?」

「結局、バッティングは、打つべき時に打つべき球を打つことなんですネ。」

・・・これらが誰の解説かは、プロ野球ファンならお分かりですょネ。

今はシーズン・オフですが、この本でプロ野球を違った角度からお楽しみください。野球ボール



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タイトルの英語が、どんなモノを指すのかは何となくお分かりいただけると思います。

今日・12月1日は、その

 カイロの日

なのだそうな。 カイロの需要が増す時期の12月の最初の日・・・というのが、制定の理由だとか。

実はこのカイロ(懐炉)、日本が生んだ日本独自の保温器具なんです。


ルーツは、江戸時代に石を温めて懐に入れた〝温石(おんじゃく)〟。

明治時代に入ると、麻殻や殿炭粉を袋に詰めたりして燃やす〝懐炉炭〟が使われ、更に大正時代に入るとベンジンの気化ガスと白金の触媒作用を利用した〝ベンジンカイロ〟が登場。

私が子供の頃に大人が使っていた懐炉は、そのベンジンを注入する一見ライターのような『ハクキンカイロ』でした。(↓)


           

現在でも販売されており、愛用している中高年の方もいらっしゃるかもしれません。


しかし今や一般的にカイロと言われるのは、いわゆる〝使い捨て〟タイプ。


空気に触れると酸化・発熱する鉄粉の化学反応を利用した使い捨てカイロは、1950年の朝鮮戦争時にアメリカ兵が寒冷地で水筒のような容器に鉄粉と食塩を入れて温まっていたことをヒントに、旭化成工業(現・旭化成)が1975(昭和50)年に 『アッタカサン』 という商品名で発売。

しかしこれはあくまで九州限定。

これをプロトタイプとして、日本純水素(現・日本バイオニクス)社がパッケージを開くと温まるタイプのカイロを開発し、ロッテ電子工業(現・ロッテ健康産業)社が大々的にテレビCMを打って販売したのが、皆さんもよくご存知の『ホカロン』。


当時1個100円程度という低価格だったこともあり、アッという間に人気商品となった使い捨てカイロは、その後1988年に貼るタイプが登場するなど様々なニーズに答える形で進化しています。

       

寒がりなウチの女王様は、真冬はお腹と背中に貼ってますが、私も冬場にゴルフした際はポケットに小さなカイロを入れて手を温めたものです。

しかし、この使い捨てカイロにも使用上の注意が・・・それは、低温ヤケド。

ちょうど心地よい暖かさを感じる60℃くらいでも、1分間圧迫し続けるとヤケドするそうで、更に低い50度でも3分が限度とか。

この低温ヤケドを防止するためには、

 
◆ カイロを直接肌にあてない。
 ◆ カイロのあたっている箇所を圧迫しない。
 ◆ 同じ場所に長時間あてない。
 ◆ 就寝時に使用しない。

ことが大事。

更にもう一つ注意事項が。 それは、カイロの捨て方。

いくら鉄を燃やす商品とはいえ、東京都条例では『燃えないゴミ』に分別しなければならないとされています。

ただこの分別に関しては各自治体によって扱いが違うそうですので、お住まいの地域ごとに確認が必要ですが。

正しい使い方と捨て方をマスターして、これからの寒い冬を凌ぎましょう!笑2


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・・・と言っても、零式戦闘機〝ゼロ戦〟の話ではありません。

昭和の、あるいは戦後復興のシンボルといえる


 新幹線〝0系〟電車


が定期旅客走行から完全引退して私たちの目の前から姿を消したのが、今から8年前の今日・2008年11月30日のことでした。


1964年10月1日、東京オリンピック開幕に間に合わせる形で開業した東海道新幹線・・・そのために開発されたのが、後に〝0系〟と呼ばれるようになったこの車両でした。


今主力となっているアヒルやカモノハシの顔を連想(失礼)させる新型車両よりも、私にとって新幹線といえばこの〝0系〟なんです。


飛行機を意識して空と雲をイメージした、アイボリーホワイト&ブルーのツートンカラーは、日本海軍の双発爆撃機『銀河』をモチーフにしたとされる、当時としては斬新なデザインの車両にマッチしていましたネ。


その前年まで碓氷峠をギアを噛ませて急坂を登り降りするアプト式電車が走っており、私の郷里・長野から上野駅までは片道8時間以上もかかった時代。

その長野からはるばる上京して初めて東京駅で新幹線の車両を見たのは、私が小学校1年生の頃・・・その滑らかに走る美しい姿に暫し見とれ、


 プァァァァ~ン!


という、聞いたことのない宇宙的(?)な警笛音にビックリした事を憶えています。


         新幹線 0系


それから数年後、初めて東京~名古屋間を新幹線に乗って旅した時・・・それは、初めて飛行機に乗った時と同じ位の感動がありましたねェ。笑2


動き出したかどうか分からないくらい静かな発進、新横浜を過ぎて徐々にスピード・アップしていく車両が、田舎電車のように〝ガタンゴトン〟ではなく、〝カタカタッ、カタカタッ〟という細かい(横触れ)振動だけで走行。


未体験のスピードに緊張で体を強張らせ、肘掛けの間に大きなお尻をすっぽり埋め、手に汗かきながら・・・スッ飛んでいく窓の景色を見続けていたものです。


一方、大昔のTVクイズ番組で、


「新幹線の先頭にある円形カバーの中にはナニが入っているでしょう?」


という問題が出され、『非常用連結器』という正解に何となく意外というかガッカリ。


更に大学生の頃、実際に連結器をむき出しにして走行する不恰好な新幹線を見て、子供の頃の夢を壊された(?)気持ちになったこともありました。


高度経済成長を支え、多くの日本人の希望を乗せて走った0系車両。


〝夢の超特急〟といわれ、最高時速220kmで走行した初期の新幹線も、現在の新型車両に混じって走るにはスピードが足りないのが引退の理由だったとか・・・時代の流れ・技術革新を否応なく感じさせられます。


しかし自動列車制御装置(ATC)や車内信号システム、踏切のない全線閉鎖軌道など、とにかく安全第一を貫いた設計主任の島秀雄氏が、

「新幹線は事故を起こしません。 そのように作りましたから。」

と豪語した通り、開業から44年間の走行で死亡事故は
〝0〟。

※島秀雄氏に関する過去記事は、こちら。(↓)
 http://ameblo.jp/warmheart2003/entry-11901244332.html

まさに〝0系〟車両の名に相応しい実績を残してくれました。

2007年に機械遺産として認定されたこの歴史的な元祖新幹線に乗って、今一度東京~新大阪間を3
時間かけて旅してみたい・・・そう願うのは、私だけでしょうか?笑2


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・・・と言っても、麻雀の話ではありません。

若者には馴染みがないかもしれませんが、中高年には懐かしいゲーム

 ポ  ン

  PONG

が発売されたのが、今から44年前の今日・1972年11月29日のことでした。

名前で分からなくても、この画面を見れば「ああ、これネ」と思い出す方は多いはず。

      


画面上を飛び回る〝点〟を交互にバーで打ち合う・・・そう、昔温泉旅館に置いてあったプラスチックの円盤をカチャカチャ打ち返す 『エアホッケー』 みたいなテレビゲームです。


販売を手掛けたのは、ノーラン・ブッシュネル(Nolan Bushnell )という当時30歳の実業家。

子供の頃からパズルや電気工作が得意だった理系少年だった彼は、ユタ州立大学在学時に近所の遊園地でアルバイトをした経験から、将来はゲームビジネスで儲けようと内心決意したそうな。

大学卒業後、テープレコーダー会社・アムベックスに就職した彼は、1972年春にカリフォルニア州で実演展示されていたマグナボックス社が開発した卓上ゲーム機 『オデッセイ』 をプレーしたことが大きな転機に。

これをアーケードゲーム(大型の業務用ゲーム機)に応用することを思いついた彼は、アムベックス社から数人のエンジニアを引き抜いて、アタリ(ATARI )社を設立。

同年11月29日に卓球のピンポン(Ping Pong )から〝ポン〟と名付けて発表したのです。

          

               初期のゲーム機とブッシュネル

今から見れば、実に緩慢な動きと言うか単純なゲームなのですが、日立製の家庭用テレビをそのまま嵌め込んだテスト機は、デモンストレーションで置いた店で大ウケ。

その反響を見てブッシュネルは自社生産を決断。
2年間で約1万台された同機は欧米に拡散して大人気を博し、ゲーム市場を大きく開拓。

1976年にはブロックくずしゲームの 『ブレイクアウト』 を発売するなどアタリ社を一気に大会社へと急成長させたブッシュネルは、当然のことながらアイデア元のマグナボックス社から訴訟を起こされましたが、巨額の賠償金を支払ってもなお億万長者になり〝ビデオ
ゲームの父〟と呼ばれるように。

一時期、アタリ社は日本でもテレビCMを流す程絶好調。
その後彼は会社を売却しましたが、まさに一攫千金、アメリカン・ドリームの体現者となりました。

その後アーケードゲームはテーブル型へと発展。

その最たる例が、1978年にタイトーから発売された『スペースインベーダー』。

ちょうど私が大学生の頃で、喫茶店には100円玉を何個も持ったお客が列をなしていましたっけ。

その後パックマン(1980年)、テトリス(1988年)とゲームは進化し続け、現在に至っています。

個人的には社会人になって以降この種のゲームとはすっかり疎遠になってしまいましたが、もしかしたら今後またお世話になるかもしれません。

だって、手先を使うこのゲームは、ボ〇防止に効果があるそうですから・・・。あせあせ


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3、40歳代以下の若い方には〝JR〟という言い方が何の違和感もないでしょうが、私を含め50歳代以上の方には〝国鉄〟という呼称が懐かしく感じる人が少なくないかも。

その日本国有鉄道が解体され、〝JR〟と名の付く複数の株式会社に

 分割民営化

されることになった
日本国有鉄道改革法など国鉄改革関連8法案が国会で成立したのが、今からちょうど30年前の今日・1986(昭和61)年11月28日のことでした。

もともと戦争引揚者の雇用対策として国鉄に大量に採用された職員の高齢化に伴う賃金コストの上昇と、自動車・飛行機の普及による鉄道離れにより、東海道新幹線が開業した1964(昭和39)年から赤字に転落した国鉄。


      

               懐かしい国鉄のロゴマーク

1980年以降は毎年1兆円もの巨額な赤字を垂れ流している一方で、組合活動が先鋭化し違法なストが横行。

国鉄内では手に負えず毎年のように運賃が値上げされ、ますます国民から批判を浴びるという悪循環を繰り返す中、1982年に臨時行政調査会(臨調)が全国一元の組織を地域ごとに分割・民営化することを提案。

当然組合側は猛反発、総評を支持母体とする社会党や共産党は反対。

1985年11月には中核派が通信ケーブルを切断するなどの国鉄同時多発ゲリラ事件を起こして首都圏の国電をほぼ1日マヒさせて抵抗しましたが、これが逆に国民の反感を買うことに。

そして翌1986年7月にこの分割民営化を争点にした衆参同時選挙が行われ、自民党が圧勝。

一気に民営化へと勢いがついたところは、小泉内閣が決断した〝郵政民営解散〟と流れが似ています。

上記関連法案が可決され、国鉄は現在のJR各社(北海道・東日本・東海・西日本・四国・九州)と、現在は各社に吸収されましたがJR貨物・新幹線鉄道保有機構など12社に分割され、翌1987年4月1日に民営化が実施されました。

さて、分割民営化されたことで国鉄時代と何が変わったか?

まずは(消費税の増税以外に)運賃の値上げがなくなったこと。(

     


それに利用客に対する対応・サービスの向上。

私自身、小学生の頃に長野駅で賃上げ要求のビラがベタベタ張られた車体にバケツの水をかけて剥がそうとした職員に、制服のボタンを外した半グレのような組合員が多くの乗客の前で掴み掛かるのを目撃した記憶がありますが、今ではそんな醜態を晒すことはまずなくなりました。

更に事故件数も大きく減少。
(1988年度900件だった事故は、2002年度には468件。)

これらは、明らかに活動家たちの排除が功を奏したともの。

それが証拠に、彼らが生き残っている一部JR社では未だに信じられない初歩的なミスによる事故が多発していますから。

当事者のご苦労は想像を絶するものがあったと思いますが、間違いなく中曽根内閣の歴史に残る大事業だったと言えましょう。


また地方にはまだ赤字路線がありますが、今後事業の多角化で利益を出しつつ住民の足としてその役割を全うしてほしいと思います。

しかしここで思うのは、国鉄の分割民営化はそれなりの成果があったのに、郵政民営化に関してはその改革が目に見えないというか実感できないというか・・・。

その違いは、一体何なのでしょう?うー



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いきなりですが、皆さんは


 ジェームズ・ロバート・ケード 

    James Robert Cade


という、アメリカの医学・生物学博士をご存知でしょうか?


          


実は今日が彼の命日(2007年11月27日没)なのですが・・・おそらく殆どの方は、彼のことを知らずとも彼が開発した飲み物のことはご存知のはず。

それが何か? ヒントは、上の画像の右下にチラッと見えて・・・そう、それは


  ゲータレード
  Gatorade


いわゆるスポーツ・ドリンクの元祖ですネ。


キッカケは、彼が教鞭を取っていたフロリダ大学のフットボールチーム〝フロリダ・ゲーターズ〟から依頼を受けたこと。

水よりも体内への吸収効率を高める飲料として開発したもので、チーム名のGatorsと、飲料を意味するade の合成したネーミングにしたとか。

あのエルビス・プレスリーが愛飲していて、「これはワニ用の飲物」 だなんて言っていたそうな。


フロリダ・ゲーターズは、1965年から販売が開始されたこの飲料をその2年後から公式に導入、いきなりオレンジボウルに初出場して勝利を収め、一気に注目を集めました。


この爆発的流行のおかげで、ケード教授とフロリダ大学側との間に販売権を巡って訴訟沙汰になった・・・というところがいかにもアメリカらしいですが、紆余曲折の末ペプシコ傘下のブランドに収まっています。

日本ではサントリーフーズが販売しており、現在でもスポーツ・ドリングの販売量は世界一を誇っているとか。


私が高校生の頃にこの商品が出回り、運動部員たちがこぞって水に粉末を溶かして飲んでました。


私自身は、何となく子供の頃飲んでいた 『渡辺のジュースの素』 を思い出したものですが・・・実は、私はどうしてもこの飲料を口に出来ません。

その理由は・・・あの毒々しい派手な色。

         

一説によると、日本人は墨の濃淡で表現する水墨画文化に慣れているため、淡い色合いを好み、油絵文化の欧米人は極彩色を好むとか。

だからかもしれませんが、私にはこの絵の具を溶かしたようなゲータレードはどうしても口にできません。

ポ〇リとかア〇エ〇ア〇
のような、半透明でなければ・・・。あせあせ


ただし、その極彩色が映える場面があるんです。

それが〝ゲータレード・シャワー〟。


アメリカのフットボールなどの試合では、タンクに入った大量のゲータレードを勝った瞬間にヘッドコーチにぶっかけることがあります。

今年2月に行われた第50回スーパーボウルの時も、こんな感じで・・・。

     

これが半透明の液体じゃ盛り上がりませんょネ。

日本でもビールかけはしますけど、秋口でも風邪をひかないように常温のまま。

しかしこのゲータレード・シャワーは真冬の氷点下でも氷入り。

かけられた方はたまったもんじゃないでしょうに・・・って、嬉しければ冷たくないのかナ?

ケード博士には申し訳ないですが、私にとってゲータレードとは飲み物ではなくかける物!? うー



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先日、エネゴリ君の店に行った時の事。

カウンター席につくなり、オーナーが話しかけてきました。

「渡辺さん、ニュースですョ。 エネゴリ君に好きな女性が出来たんですって。」

「へぇ~、それは目出度いことじゃない。 

火傷で酷い目にあったけど、人生捨てる神あれば、拾う神アリだネ。」

「な、なんですか、その神様が2人いるのって?」

「あはは、まぁいいや。 それより
、お相手はまたキャパ嬢?」

ここでは個人情報の開示になってしまいますので詳しくは書きませんけど、私は彼の女性遍歴(?)を知っているので即座にそう聞いたのですが、 彼は

「いえ、今度は違います!」

と、言下に否定。

「あっ、そう。 そりゃ珍しい・・・で、何をやってる人なの?」

「今は、料理屋でバイトしてます。」

「そんな女性と、どうやって知り合ったのョ?」

「えっ、それは・・・少し前にキャバクラで。」

「なんだょ、やっぱりキャバ嬢なんじゃん。 ウソついたナ~。」 

「いえ、今はもう辞めたんで、キャバ嬢じゃありません!」 怒り顔 キッパリ!


             


「オイラに言わせれば、同じだけどなァ。 
それでキミ、付き合ってるの、その元キャバ嬢と。」

「いえ、まだそこまでは・・・。」

「じゃあ、そのバイトしている店には行ったことあるの?」

「はい、1度。」

「じゃあ、彼女もこの店に来たことはあるの?」

「いえ、まだありません。」

「なんだョ。 前付き合ってたキャバ嬢は、オレの後ろでパスタ食べてたじゃん。」

「あ、彼女はお互いギブアンドテイクで・・・自分が行かなくなったら、彼女も来なくなりました。」

「そりゃ彼女でも何でもない、お互いただのお客だったってことだろうょ。
 で、今の彼女は店に呼ばないの?」

「え、えぇ。 そういう関係じゃないんで。」

「じゃあ、どういう関係なんだョ。」怒


と、ここでオーナーが怒ったように口を挟みますが、そりゃ当然ですょネ。

「で、キミは彼女と今後どういうアプローチをするわけ?」

「う~ん、良く分からないんですょ、自分でも。 
取りあえずその店に通おうと思ってるんですけど・・・渡辺さん、どうすればいいでしょう?」

と目を潤ませて私に聞くんですょ。 まぁ彼の今後は、

 ① ストーカー
 ② 彼女(というか勤務先の)いいカモ
 ③ プラトニックな片思い


のどれかになる気がするんですが・・・私と違って恋愛経験豊富な読者の皆さんには、この恋の結末の予想と、彼へのアドバイスをお願い致します。



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様々な教材が市場に溢れている現代と違い、私が中・高校生の頃は本格的な英会話を勉強しようとすれば、リンガフォンくらいしかありませんでした。

その高価な教材に手が出ない私のような学生に助けとなったのは、NHKテレビ・ラジオの英会話番組。

毎朝6時にテキスト片手にラジオにかじりついていた頃を懐かしく思い出します。

そんな私の記憶に残っている講師としては、松本亨先生、マーシャ・クラッカワー先生・・・そして、もう一人が

 國弘 正雄 先生

今日は、英語講師でもあり同時通訳の草分け的存在だった彼の、命日・三回忌にあたります。

1930年に東京・北区で生まれた國広先生が英語に興味を持ったのは、中学生時代。

『武士道』の著者・新渡戸稲造の伝記を読んで感銘し、英語の猛勉強を開始すると、父親の転勤で移り住んだ神戸で進駐軍の兵士に手当たり次第に話しかけたとか。

そしてひたすら教科書の音読を繰り返し、これが後に道元禅師の提唱した〝只管打坐〟をもじった〝只管音読〟という彼独自の勉強法につながりました。

1955年にハワイ大学を卒業すると予備校講師を経て日本生産性本部とアメリカ国務省の文化交流計画に参画し、ワシントンDCに常駐して訪米した日本人に随行して全米各地を訪問。

1963年に帰国すると、2年後に通訳エージェント 『サイマル・インターナショナル』 を設立すると共に、NHK教育テレビ 『英会話中級』の講師を務めました。

私が國弘先生を知ったのは、まさにこの番組。

そして彼の名を一躍有名にしたのは、1969年7月のアポロ11号月面着陸の中継を同時通訳したこと。

〝同時通訳の神様〟などと呼ばれ、日本の英会話教育界の第一人者としての地位を確立しました。

           


1971年からはNHK教育テレビの『トークショー』の司会を務め、E・ライシャワー氏やD・キーン氏などの著名人と議論を重ねましたが・・・それでは、ここでその〝神様〟の英語をお聴きください。(


   https://www.youtube.com/watch?v=r1hbnAD-MH4

帰国子女でもなく、非英語圏の日本で学んだとは思えない見事な発音ですょネ。

また文化放送やラジオたんぱで1958~1992年まで放送された老舗英語番組 『百万人の英語』 でも活躍した國弘先生は、1978年から日テレのニュース・キャスターも担当。

この起用にはちょっと驚きましたが・・・もっと驚いたのは1989年、先生が参院選に立候補したこと。

それも日本社会党から。

今でこそ昨年来から盛んに憲法改正に反対する憲法学者がメディアに露出して、いわゆる〝学者バ〇
〟ぶりを発揮する光景は見慣れましたが、当時はちょっと信じられませんでした。

先生自身、神戸で空襲に遭い親友の最期を看取ったことから強い反戦思想を持ったことが社会党から立候補した根拠だったようですが、個人的には残念な出来事。

できれば國弘先生には、英語の先生だけでいて欲しかった気がします。

しかし1995年には落選し、政界を引退。 

その後大学の客員研究員や、個別指導型の英語資格取得専門塾の顧問を務めていた國弘先生が老衰により84歳でこの世を去ったのは、2014年11月25日。


あらためて英語教育界の重鎮のご冥福をお祈り致します。笑3

久々に、ラジオの英会話番組を聴いてみようかナ・・・。



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日本人には殆ど馴染みはありませんが、アメリカでは毎年11月の第4木曜日が

  感 謝 祭
 Thanksgiving Day


・・・つまり、今年は今日・11月24日がこの祝日にあたります。

感謝祭とは、イギリスからマサチューセッツ州のプリマス植民地に移住したピルグリム・ファーザースの最初の収穫を記念する、昨日ご紹介した我が国の新嘗祭に相当する行事と言えましょうか。

しかしその歴史の裏には、意外な事実が・・・。

この点に関して、上智大学名誉教授の渡部昇一氏がこう解説されています。

          ◆     ◆     ◆     ◆

1620年11月、102人の清教徒、ピルグリム・ファーザースを乗せたメイフラワー号は大西洋を渡り、アメリカ大陸に到着しました。

しかし、信仰の自由を求めて渡った未知の土地は過酷でした。

作物は実らず食料に事欠き、翌年の4月までにほぼ半数が死んでしまったのです。

だが、その悲惨な状態に同情して助ける人たちが現れました。

人間が住んでいるとも思えなかった土地にも、暮らしている人間・・・すなわち未開の原住民、インディアンです。

彼らは見知らぬ移民たちに食料を与え、穀物や野菜の栽培を教えて助けました。

こうしてビルグリム・ファーザーズは苦境から救われたのです。

インディアンに栽培を教えられた作物も見事に実り、感謝祭が行われました。 

それは実った作物への感謝であると同時に、苦境を助けてくれたインディアンへの感謝でもありました。


        


さて、信仰の自由を求めて新大陸に渡った人たちが安らかに暮らしているという話がヨーロッパに伝わると、同じ信仰の人たちのみならず、いろんな人たちが陸続として大西洋を渡ることになります。

その数はたちまち原住民の数を圧倒するようになり、アメリカ建国ということになります。

その過程で原住民のインディアンはどういうことになったか・・・その悲惨さは、今更述べるまでもないでしょう。

アメリカでは今でも感謝祭が盛んです


ですが、そこで実った作物への感謝が語られることはあっても、ピルグリム・ファーザーズを助けたインディアンへの感謝は出てきません。

20世紀後半に出された百科事典には、

「感謝祭は、収穫に対する神への感謝とインディアンとの戦争に勝ったことに対する感謝のお祭りである。」

と書いてあります。 何という変化か!

異なる文化を持った異なる民族が接触して暮らすと何が起きるのか?
この話は端的にそのことを示しています。

          ◆     ◆     ◆     ◆


昨年来、イスラム系移民の流入で混乱するヨーロッパを見れば、渡部氏の話は納得できます。

我が国でも労働力不足を補うために移民の積極的な受け入れを主張する向きがありますが、インディアン同様に親切な日本人が彼らに裏切られたり掻き回されることは、火を見るよりも明らか。

歴史から教訓を学ぶのが、賢明な民族。
歴史を繰り返すのが、愚かな民族。

さて、日本人は・・・どっち?うー


 

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