ブログタイトルだけで、主人公が誰なのかはお分かりでしょう。
今日は、戦後日本を統括したGHQ最高司令官
ダグラス・マッカーサー
Douglas MacArthur
の命日・没後60周年にあたります。
マッカーサーは1880年にアーカンソー州で生まれました。
父親も初代フィリピン軍政総督を務めた著名な中将で、兄も海軍兵学校から海軍大尉になった、まさに軍人一家で育ちます。
祖父がサーの称号を持つイギリス貴族の血を受け継ぎ、F・ルーズベルトやW・チャーチルとも縁戚関係にあるというサラブレッドで、1899年陸軍士官学校にトップの成績で入学。
1930年に首席で卒業後陸軍少尉としてフィリピンに配属され、その2年後には東京勤務も経験しています。
陸軍省に戻ったマッカーサーは、第一次世界大戦時に自ら大統領に提案し組織した第42師団の参謀長・旅団長として戦線に参加。
2回の負傷をものともせず最前線で部隊を指揮し続け、その功績を評価されて史上最年少で少将に昇進。
更に1930年、これまた史上最年少で陸軍参謀総長に就任し一気に大将となります。
ところがF・ルーズベルト大統領と衝突して1935年に参謀総長を退任。
少将に降格(?)してフィリピンの軍事顧問に就任後、1937年には陸軍を退役。
しかし東南アジア方面を誰よりも知り尽くした彼を、ルーズベルト大統領は1941年に中将として現役復帰させ、アメリカ極東軍司令官を命じます。
そして同年12月に大東亜戦争が始まると、ルソン島に上陸しすさまじい勢いで攻撃してくる日本軍に押され、大統領命令により一旦オーストラリアに撤退を余儀なくされます。
その時に口にしたのが〝I shall return 〟だったわけですが、本人の意思に反して撤退させられた悔しさが、この言葉に滲み出ていますネ。
しかその予言(?)通り、1944年に反攻作戦を指揮して再びフィリピンに戻ったマッカーサーは、日本のポツダム宣言受諾による降伏を受けて1945年8月30日に専用機で厚木海軍飛行場にコーンパイプをくわえて降り立ちました。(冒頭写真)
そして朝鮮戦争の戦術を巡ってトルーマン大統領と衝突し1951年4月に解任されるまで、GHQ総司令官として戦後日本の統治を指揮しました。
絶対的な権力をふるったマッカーサーでしたが、ドイツや朝鮮半島のように分断されることなく日本の国体が維持されたのは、彼の力によるところ大だったと思います。(↓)
父の代から東南アジアに接し、日本勤務経験から日本人気質をある程度理解していたことが大きな要因だったのかもしれません。
占領軍トップでありながら被統治国の民衆から何十万通のファンレターが届き、帰国の際は20万人もの人々が見送りのために羽田空港までの沿道を埋め尽くしたという世界史に例を見ない人気ぶりは、決して日本国民が従順であったからだけではないでしょう。
もし東京大空襲を指揮した武闘派カーチス・ルメイが総司令官に着任していたら・・・と思うと、ゾッとします。
退任に際して、本国の上下院の合同会議において演説をした際に語った
「老兵は死なず、ただ消え去るのみ」
(Old soldiers never die, they just fade away.)
も、後世に残る名文句となりました。 もっとも彼自身は1964年4月5日に84歳で亡くなるまで、アメリカ軍元帥のままだったそうですが。
また米議会での公聴会でも、「大東亜戦争は侵略ではなく日本が自衛のために起こした」という貴重な証言もしています。(↓)
野望を抱いていた大統領就任は遂に果たせませんでしたが、その功績を讃えられて国葬が執り行われた元帥の冥福を、あらためてお祈り致します。