会 見 | ナベちゃんの徒然草

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還暦を過ぎ、新たな人生を模索中・・・。

今から78年前の今日・1945(昭和20)年9月27日、日本の将来を決定づけたと言っても過言ではない会見が行われました。

話し合ったのは、昭和天皇とマッカーサー元帥のお二人。

この会見の約1ヶ月前の8月30日に、マッカーサーが来日。


その3日後・9月2日に戦艦ミズーリの甲板で降伏文書に調印(↓)が行われると、GHQは本部を横浜から皇居脇に移転。

 

そして9月11日、事前通告なしに東条英機元首相ら37名を戦争犯罪人として逮捕・拘留しました。

 

時を同じくしてアメリカでは天皇を戦犯として裁く決議案が議会に提出され、連合国の中にも天皇に対して厳罰を要求する空気が存在する中、何としてもそれを避けたい日本側は緊張に包まれます。

 

そんな中で昭和天皇が極秘で赤坂のアメリカ大使館に出向き、マッカーサーと通訳1人(外務省の奥村勝蔵・御用掛)を介して2人だけで37分間話し合ったのです。

 

その中身については、当初両国とも公表せず。

 

天皇陛下も 「マッカーサー司令官と、これはどこにも言わないと約束を交わしたことですから。 男子の一言の如きは、守らなければならない。」 と後日記者会見で述べられ、内容を明かされていません。

 

しかしマッカーサーは、後の回想記で次のように述べています。

 

『天皇は、「私は国民が戦争遂行するにあたって、政治・軍事両面で行ったすべての決定と行動に対する全責任を負うものとして、私自身を、あなたの代表する諸国の採決に委ねるため、お訪ねした」 とおっしゃった。

 

私はこの瞬間、私の前にいる天皇が日本の最上の紳士であることを感じ取ったのである。』

 

会見終了後、マッカーサーの天皇陛下に対する態度は一変。

 

予定になかったにもかかわらず、彼は自ら天皇陛下を玄関までお見送りして最大の敬意を表わしたといいます。

 

そしてこの約2ヵ月後、アメリカ本国からの天皇の戦争責任に関する調査要請に対し、マッカーサー 「戦争責任を追及できる証拠は一切ない」 と回答。

 

結果、翌年公布された日本国憲法・第一条には 「天皇は日本国の象徴であり、日本国民統合の象徴であって・・・」 と起草されるに至りました。


そしてこの2日後・29日の朝刊全紙に、会見に先立って撮影された1枚の写真が掲載されました。

 

    ウォームハート 葬儀屋ナベちゃんの徒然草-昭和天皇とマッカーサー

 

それまで〝現人神(あらひとがみ)〟であった天皇が新聞紙上に写真で姿をお見せになったことはもちろん、陛下がモーニングの正装で直立されているのに対し戦勝国のトップが軍服姿でしかも両手を脇にあてているラフな姿勢はあまりに対照的であり、これを見た当時の国民にとっては衝撃的な1枚であったはず。
(※撮影された写真は全部で3枚。)

 

ではなぜこの写真が翌日の朝刊ではなく2日後になったのか?

実は翌日の新聞各紙は、会見の事実を報道したものの 「不敬にあたる」 という政府の指示で写真を掲載しなかったのです。

 

これにGHQが激怒、掲載命令を下し翌日の新聞一面を飾ることに。

 

日本が敗戦国になったことを、あらためて国民に知らしめる視覚効果を狙ったことは確かでしょうネ。

 

それはともかく、国家の将来を慮って我が身を差し出す決意で自ら会見に赴かれた昭和天皇・・・岸田総理ら現代の政治家に、これ程の覚悟と行動力があるや、なしや?

 

 

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