学校の音楽室には多くの作曲家の肖像画が飾られていましたが、あのバッハの横には必ずといっていい程彼の肖像画が飾られていたはず。
今日はその、〝音楽の父〟バッハに対して〝音楽の母〟と(日本でのみ)呼ばれる
ゲオルク・フリードリヒ・ヘンデル
George Frideric Handel
の命日にあたります。
ヘンデルはバッハ(↓)と同じ1685年に、現ドイツのザクセン=アンハルト州のハレで生まれました。
幼少時から音楽の才能を見せていましたが、地域を支配するザクセン=ヴァイセンフェルス公爵アウグストに医師兼従僕として仕えていた父親は、息子を法律家にしたいと考えており、音楽家になることには反対でした。
しかし幸いなことに、父の主人・ヴァイセンフェルス公爵がヘンデルのオルガン演奏を気に入り、彼を援助したことで、音楽の道に進むことが出来ました。
ハレにある聖母マリア教会のオルガニスト・ツァハウに作曲とオルガン、チェンバロを学んだ彼は、1702年ハレ大学に進学すると共に同学にあったハレ大聖堂のオルガニストとして契約。
翌1703年にはハンブルグに出ると、当時のハンブルグ・オペラの中心的作曲家ラインハルト・カイザーの影響を受け、オペラ『アルミーラ』を作曲・上演し、成功します。
そして1706~10年にかけてイタリア各地を旅行し、その間スカルラッティと鍵盤楽器の共演をして彼に影響を与えました。
またヴェネツィアではオペラ『アグリッピーナ』が連続27回も公演されて大成功を収めています。
1710年にハノーヴァー選帝侯の宮廷楽長となったもののその地位に満足せず、1712年にはロンドンを訪れ、当地でオペラ 『リナルド』 を初演し大成功を収めると、そのままロンドンに留まり、1727年にはイギリスに帰化。
1720年には貴族たちによってオペラ運営会社『王室音楽アカデミー』が設立され、ヘンデルはその芸術部門の中心人物となりました。
その後英語でのオペラをいくつか作曲しましたが、結局アカデミーの運営はうまく行かず倒産。
しかし作曲の方は好調で、1741年には彼の最も有名な作品『メサイア』を発表。
この中で歌われる〝ハレルヤ・コーラス〟は、皆さんもよくご存じのはず。(↓)
その後も有名な管弦楽組曲 『水上の音楽』 や 『王宮の花火の音楽』 を世に出しましたが、1751年に左目の視力を失い、間もなく右目の視力が悪化。
1752年に手術を受けたものの視力は回復せず、完全に失明。
そのため演奏活動は続けたものの作曲が出来なくなった彼は、1759年4月14日に74歳で他界しました。
同い年だったバッハが主として教会の礼拝で用いる教会音楽で活躍したのに対し、ヘンデルはオペラやオラトリオなど劇場用の音楽が中心。
またバッハが音楽家一族の生まれだったのに対し、ヘンデルは音楽とは無関係な家系の生まれ。
そしてバッハが2度結婚して20人もの子供(成人した子供は半数)に恵まれたのに対し彼は生涯独身で子供がないなど、同世代に活躍した音楽家としては対照的な生涯を送ったと言えます。
そしてこの御両人、一度も会ったことがなかったのだそうな・・・。
そんなヘンデルの冥福を、これも皆さんが知っているこの曲を聴きつつ祈りたいと存じます。