黒沢俊夫

1914年6月10日~1947年6月23日

大阪府出身 外野手 左投左打

 

 

大阪八尾中学時代には春夏合わせて5回甲子園大会に出場、

関西大学では4番を打ち、のちに阪神で活躍する西村幸生投手と共に

関西大学の黄金時代を作った。

 

1936年名古屋金鯱軍に創設時に入団。

3番左翼でレギュラーとなり、打率も高く、盗塁も多く、

好走守そろった選手として活躍した。

 

招集と復帰を繰り返しながら、職業野球選手として活躍

1943年に所属していた西鉄軍が解散したため、

選手層の薄くなった巨人軍に移籍し、投手は藤本英雄

野手では黒沢俊夫が巨人を支えた。

黒沢は巨人初の移籍選手のひとりでもある。

 

 

 

戦後、巨人でプロ野球界に戻り、1946年戦後最初の公式戦(4月26日)では

戦後初の巨人軍4番打者として出場し、

3打数3安打3四球と打率、出塁率10割の活躍。

6月30日に川上哲治に譲るまで4番を打った。その後は5番で出場した。

1946年は105試合全試合出場、打率.308(8位)、60打点はチーム2位の成績で

巨人軍復活の大事な選手として活躍した。

 

足が速いので、盗塁が多いのは当然だが

ホームスチールを10回成功させているのは、

試合の空気を読む事と度胸の良さかもしれない。

ロイドメガネの風貌から、スピードのあるプレーのギャップ感が面白い。

 

1947(昭和22)年も5番打者として出場、

たまに2番打者として器用なバッティングを見えていた。

しかし、腸チフスに感染、責任感が強い黒沢は当時の三原監督に黙っていた。

そのため、病気が進み、6月5日南海戦を最後に入院したが

6月23日現役のまま亡くなった。

亡くなる前には「巨人のユニフォームをまとって死にたい」と訴えた。

 

チーム内ではまじめで、えばらず、後輩にも優しかった黒沢の死は

巨人軍に衝撃を与え、チームリーダーだった千葉茂が中心となり、

巨人軍が大変な時に支えた黒沢の背番号4を永久欠番にして欲しいと

球団に頼み。沢村栄治の14と共に日本初の永久欠番となった。

大リーグでもルー・ゲーリッグの背番号4が最初の永久欠番になっていた。

 

そして、後日黒沢俊夫追悼試合があり、急死したご家族を援護のために

試合の収益金を送ったそうだ。

 

 

黒沢俊夫の名前を知るようになったのは

漫画「侍ジャイアンツ」の主人公番場番が付けた背番号4の由来を描かれたことで

当時の野球少年は永久欠番の重みも知ったかもしれない。

 

 

 

 

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