調味料バトン
なぜか、昨日から曜日の感覚がずれてた、、、。
今日はもう金曜日だと、昨日から硬く信じていた、、、。
昨日、おとといと、ここの所ずっと引きずっていたコマコマした用事が、いくつも片付いたせいかな、、、。
昼過ぎに金曜日の午後と土曜日に入っている研修の話を、今日の午後と明日のことだと思い込んだまま、同僚に確認した時に、事実が判明。
なーんだ、もう一日あるんだ。
なんだかちょっと得した気分♪
は、いいんだけど、なんだか仕事する気がなくなってしまった。
ということで久しぶりにBlogの更新。
しかもテーマは、はるか昔、2週間以上前に受け取っていた『調味料バトン』☆
『がんばれ異邦人☆』のgoudas-gildeさん 、回してくれてどうもありがとう♪
「ドイツ生活で、味覚って変わりました?」
昔っから濃い味が好きだったんですが、ますます濃い味が好きになった気がします。
なぜって、ドイツの料理って何でも味が濃いーーーーんです。
ドイツ料理だけじゃなくって、東アジア系、中央アジア系、東欧系キッチン、イタ料理、スペ料理、ギリ料理、、、そしてもちろん学食も。
料理をしている時は、調味料っていつもかなり適当に気分次第で、手当たり次第目に付いたものを片っ端から使うので、友達から味付けは何って聞かれるのが一番困ります。
もう何料理を作っているのかさっぱりわかりません。
次のメニューに調味料はかけますか?薬味は含みません。
*目玉焼き: 基本は塩コショウ、あとは醤油、時にはケチャップ
*納豆: 醤油
*冷奴: あぁ、冷奴なんてもうずいぶん食べてないねえ、、、(溜息)。醤油
*餃子: 焼餃子には醤油か味ポン、水餃子なら味ポン。
中国人が大勢で手作りしてくれる餃子パーティの時は醤油しか無かったかな(←すんごい美味しかった)。
*カレーライス: 辛いものは苦手なので基本的に食べない。食べるとしたら調味料はなし。
*ナポリタン: ナポリタン、、、食べないなあ。はるか昔、お子様ランチに付いて来たのを食べたような気もするけど、、、。
*ピザ: 調味料なし。
*生キャベツ: 日本なら中濃ソースやトンカツソース。ドイツに居る時は、普通にサラダソース(→サラダを参照)。
*トマト: サラダソース(→サラダを参照)、面倒な時は、オリーブオイルと塩コショウ、気分によってバルサミコも
*サラダ:
日本なら市販のドレッシング。
特にノンオイルタイプのさっぱりした青ジソドレッシングや、ちょっとこってりしたゴマドレッシングが大好き。
こういうの、私の居る町では絶対に手に入らないし(涙)
ドイツに居る時は、その日の気分でサラダソースを作る。
一番多いのは、オリーブオイルとバルサミコに塩コショウをベースに、オレガノやバジリコ、ディルを加える。
最近良く作るのは、ゴマを使うソース。
白ゴマを煎って擂って、サラダオイルや普通のお酢、醤油、塩コショウなどを加える。
ゴマを煎って擂る手間が掛かるけど、良い香りがキッチンいっぱいに広がって、食欲をそそる。
それに、欧米人アジア人ラテン系、誰にでもとっても評判が良い。
*牡蠣フライ: これは日本でしか食べないなあ。中濃ソースやトンカツソース。
*メンチカツ、*コロッケ: これも日本でしか食べないシリーズ。中濃ソースやトンカツソース。
*天ぷら:
あげたてなら塩か天ツユ。
昨日の残りとかスーパーで買ってきたものなら中濃ソース/トンカツソース。
残り物やスーパーで買ってきた物は、うどんの具にすることも多い。
*とんかつ:
中濃ソースかトンカツソース。
一度、トンカツ専門店で出てきたソース、すり鉢にゴマが入って出てきて自分で擂って白っぽいソースと混ぜるやつ、すごく美味しかったなあ。
あの時の感動が忘れられない、、、。
どこで食べたのかさっぱり覚えてないんだけど。
*ゴハン:
肉か魚のおかずがあれば、調味料は必要ないんだけど。
白いご飯だけしかない時は、ふりかけか韓国海苔。
白いご飯だけって食べられない。
日本人のくせに、昔っから白米が好きじゃなくって、逆に毎日朝晩、家で食べさせられるのが苦痛で仕方が無かった。
だから、ドイツにいても日本の白米が食べられないのは苦にならない。
だから、
「お米が食べられないのが辛いですよねえ」
と、在独日本人に悲痛な表情で同意を求められても、
「、、、そうですね」
と、実感のこもらない社交辞令な返事しか返せないのだ。
妙なところで妙な習性が味方するものだ。
周囲に意外と驚かれる好きな組み合わせは??
むかーし、友達に
「天ぷらもエビフライもトンカツも、ぜーんぶ(中濃/トンカツ)ソース」
と言ったら、
すごーーーーーーく、驚かれて、しばらく味音痴と言われた(涙)
その後しばらくして、母が天ぷらには必ず天ツユを作るようになり、ソースを無事卒業した。
実はこれ、ずーっと同居していた祖父の習慣で、どんな食べ物にも醤油かソースをじゃんじゃんぶっ掛けて食べる人だった。
晩ご飯時のの家族団欒では毎晩のように、我が家のシェフである母の
「ちゃんと味ついてるんだから、そんなもの掛けないでよっ(怒)」
っていう、悲鳴に近いヒステリックな怒号が響き渡った(注:この死んだ祖父は、母の実父)ものだったが、
この祖父、母がヒステリックに反応すればするほど、意固地になってますます暴走するのだった。
似たもの親子(笑)
この、もうずいぶん前に死んだ祖父は本当に本物の味音痴ツワモノだった。
納豆には長ネギ、醤油、辛子、
ここまでは普通なんだけど、
最後に砂糖を、こんもりと、スプーンで2杯ほど。
ぅげぇぇぇぇぇぇぇぇ。
これはさすがの私も驚愕を覚えて瞬きするのも忘れて見守った記憶がある。
それが一般的だとわかっているのに苦手な組み合わせは??
調味料じゃないけど、
ご飯に生卵。
どうしても生理的に受け付けない。
想像しただけで食欲が失せる、、、。
それと、なんでか、昔っから
鳥の巣を荒らして次々と卵を丸呑みにする蛇のイメージが浮かんできて、気分が悪くなる、、、。
って、生卵が嫌いなのか。
バトンを回したい人は、、、どうしよう、、、どなたか、受け取ってもらえますか???
今日はもう金曜日だと、昨日から硬く信じていた、、、。
昨日、おとといと、ここの所ずっと引きずっていたコマコマした用事が、いくつも片付いたせいかな、、、。
昼過ぎに金曜日の午後と土曜日に入っている研修の話を、今日の午後と明日のことだと思い込んだまま、同僚に確認した時に、事実が判明。
なーんだ、もう一日あるんだ。
なんだかちょっと得した気分♪
は、いいんだけど、なんだか仕事する気がなくなってしまった。
ということで久しぶりにBlogの更新。
しかもテーマは、はるか昔、2週間以上前に受け取っていた『調味料バトン』☆
『がんばれ異邦人☆』のgoudas-gildeさん 、回してくれてどうもありがとう♪
「ドイツ生活で、味覚って変わりました?」
昔っから濃い味が好きだったんですが、ますます濃い味が好きになった気がします。
なぜって、ドイツの料理って何でも味が濃いーーーーんです。
ドイツ料理だけじゃなくって、東アジア系、中央アジア系、東欧系キッチン、イタ料理、スペ料理、ギリ料理、、、そしてもちろん学食も。
料理をしている時は、調味料っていつもかなり適当に気分次第で、手当たり次第目に付いたものを片っ端から使うので、友達から味付けは何って聞かれるのが一番困ります。
もう何料理を作っているのかさっぱりわかりません。
次のメニューに調味料はかけますか?薬味は含みません。
*目玉焼き: 基本は塩コショウ、あとは醤油、時にはケチャップ
*納豆: 醤油
*冷奴: あぁ、冷奴なんてもうずいぶん食べてないねえ、、、(溜息)。醤油
*餃子: 焼餃子には醤油か味ポン、水餃子なら味ポン。
中国人が大勢で手作りしてくれる餃子パーティの時は醤油しか無かったかな(←すんごい美味しかった)。
*カレーライス: 辛いものは苦手なので基本的に食べない。食べるとしたら調味料はなし。
*ナポリタン: ナポリタン、、、食べないなあ。はるか昔、お子様ランチに付いて来たのを食べたような気もするけど、、、。
*ピザ: 調味料なし。
*生キャベツ: 日本なら中濃ソースやトンカツソース。ドイツに居る時は、普通にサラダソース(→サラダを参照)。
*トマト: サラダソース(→サラダを参照)、面倒な時は、オリーブオイルと塩コショウ、気分によってバルサミコも
*サラダ:
日本なら市販のドレッシング。
特にノンオイルタイプのさっぱりした青ジソドレッシングや、ちょっとこってりしたゴマドレッシングが大好き。
こういうの、私の居る町では絶対に手に入らないし(涙)
ドイツに居る時は、その日の気分でサラダソースを作る。
一番多いのは、オリーブオイルとバルサミコに塩コショウをベースに、オレガノやバジリコ、ディルを加える。
最近良く作るのは、ゴマを使うソース。
白ゴマを煎って擂って、サラダオイルや普通のお酢、醤油、塩コショウなどを加える。
ゴマを煎って擂る手間が掛かるけど、良い香りがキッチンいっぱいに広がって、食欲をそそる。
それに、欧米人アジア人ラテン系、誰にでもとっても評判が良い。
*牡蠣フライ: これは日本でしか食べないなあ。中濃ソースやトンカツソース。
*メンチカツ、*コロッケ: これも日本でしか食べないシリーズ。中濃ソースやトンカツソース。
*天ぷら:
あげたてなら塩か天ツユ。
昨日の残りとかスーパーで買ってきたものなら中濃ソース/トンカツソース。
残り物やスーパーで買ってきた物は、うどんの具にすることも多い。
*とんかつ:
中濃ソースかトンカツソース。
一度、トンカツ専門店で出てきたソース、すり鉢にゴマが入って出てきて自分で擂って白っぽいソースと混ぜるやつ、すごく美味しかったなあ。
あの時の感動が忘れられない、、、。
どこで食べたのかさっぱり覚えてないんだけど。
*ゴハン:
肉か魚のおかずがあれば、調味料は必要ないんだけど。
白いご飯だけしかない時は、ふりかけか韓国海苔。
白いご飯だけって食べられない。
日本人のくせに、昔っから白米が好きじゃなくって、逆に毎日朝晩、家で食べさせられるのが苦痛で仕方が無かった。
だから、ドイツにいても日本の白米が食べられないのは苦にならない。
だから、
「お米が食べられないのが辛いですよねえ」
と、在独日本人に悲痛な表情で同意を求められても、
「、、、そうですね」
と、実感のこもらない社交辞令な返事しか返せないのだ。
妙なところで妙な習性が味方するものだ。
周囲に意外と驚かれる好きな組み合わせは??
むかーし、友達に
「天ぷらもエビフライもトンカツも、ぜーんぶ(中濃/トンカツ)ソース」
と言ったら、
すごーーーーーーく、驚かれて、しばらく味音痴と言われた(涙)
その後しばらくして、母が天ぷらには必ず天ツユを作るようになり、ソースを無事卒業した。
実はこれ、ずーっと同居していた祖父の習慣で、どんな食べ物にも醤油かソースをじゃんじゃんぶっ掛けて食べる人だった。
晩ご飯時のの家族団欒では毎晩のように、我が家のシェフである母の
「ちゃんと味ついてるんだから、そんなもの掛けないでよっ(怒)」
っていう、悲鳴に近いヒステリックな怒号が響き渡った(注:この死んだ祖父は、母の実父)ものだったが、
この祖父、母がヒステリックに反応すればするほど、意固地になってますます暴走するのだった。
似たもの親子(笑)
この、もうずいぶん前に死んだ祖父は本当に本物の味音痴ツワモノだった。
納豆には長ネギ、醤油、辛子、
ここまでは普通なんだけど、
最後に砂糖を、こんもりと、スプーンで2杯ほど。
ぅげぇぇぇぇぇぇぇぇ。
これはさすがの私も驚愕を覚えて瞬きするのも忘れて見守った記憶がある。
それが一般的だとわかっているのに苦手な組み合わせは??
調味料じゃないけど、
ご飯に生卵。
どうしても生理的に受け付けない。
想像しただけで食欲が失せる、、、。
それと、なんでか、昔っから
鳥の巣を荒らして次々と卵を丸呑みにする蛇のイメージが浮かんできて、気分が悪くなる、、、。
って、生卵が嫌いなのか。
バトンを回したい人は、、、どうしよう、、、どなたか、受け取ってもらえますか???
中国の現代お見合い事情(?)
さて、さっき学食でChunから聞いたばっかりの話。
本当はこの話を書きたかったんだけど、Chunのキャラクター紹介が長くなってしまった。
彼女には、少し年上のお兄さんとちょっと年の離れた弟がいる。
お兄さんはChunが結婚する前に結婚して子供もいる。
Chunも20代後半に結婚しているから、かれこれもう15年近く経っている。
彼女の世代では、女性は24歳を過ぎると『嫁き遅れ』と言われたそうだ。
当時、まだ結婚にはあんまり興味のなかった彼女も、周りの友達が次々と結婚していくのを見、両親にも心配されて、さすがに内心焦ったと話していた。
しかし、この10年程度の間に、中国の経済は大幅に成長し、社会も急激に変化した。
中国トップの大学で情報工学を学び、エリートとして就職したChun弟は、カナダの大学への留学奨学金を得た。本当に、本人は何の苦労もせずにもらったという感じだった。
そうして1年近くカナダの大学に留学していたのだが、生活に馴染めなかったのか、帰ってきてしまった。
その後、再び収入の良い職を経て、働いているのだが、
カナダへ行った時に遠距離で付き合っていた彼女からは振られてしまった。
何でも、その彼女はカナダへ行きたくて、彼と付き合っていたんだそうだ。
それが数年前で、その後Chun弟には彼女ができなかった。
8歳近く年の離れたとても仲の良い弟に彼女ができないというのは彼女の心配事の一つだった。
Chunの弟は今年31歳になったが、本人は仕事で忙しく、彼女を作ることにも興味も持っていないみたいだ、「あの子は若い世代に属していて考え方が私の世代とはちょっと違うから」
と、時々苦笑しながら話してくれた。
その弟が、「結婚したの」と、Chunが興奮しながら語り始めた。
4月の半ばに中国に帰る時にはそんな話聞いてなかったから、本当に数ヶ月の『電撃結婚』ってやつである。
「結婚?誰と?だって、彼女居ないって言ってたじゃない?!」
嫁き遅れ日本代表がビックリして声を張り上げる(笑)
「それがねぇぇぇぇぇ」
と、複雑な表情を見せながら語ってくれた話はこうだった。
北京には最近、公園でシングルの子を持つ親の集まりがあるらしい。
そろそろ結婚して欲しい年齢にも関わらずシングルで、パートナー探しの時間も無いような若者の母親が、データを持ち寄って互いに話し合い、合意するとデートの約束などをするのだそうである。
Chunの実家の近くの公園でもそういう集まりがあって、息子の心配をするChunお母さんがそこに通っていた。
そこで色んな娘さんとのお見合いデートを取り付け、息子と会わせる。
Chun弟もそろそろ結婚したいなと思っていたので、母親が約束してくる娘さんたちに何人も会ってみたそうである。
その中でお互いに、「感じがいい人」と思ったそうだ。
それから、お互いの家族を紹介しあったり、毎週デートを重ねていった。
そして先日、役所に婚姻届を提出したという。
「はっやーーーーーーーー、じゃ、結婚式はなし?、、、もしかして、彼女妊娠してるとか?」
というのは、もちろん日本人の私の発想。
中国では、まず役場に婚姻届を提出して、1ヶ月とかすると、公式に結婚しましたという書類が届くそうだ。
結婚式はそれからっていうのは普通なんだとか。
多分来年の旧正月頃じゃない、ということだった。
すぐお隣の国なのに、毎回「へえぇぇぇぇ」と思うことばかりだ。
実は二人は、数ヶ月デートをした後で、一緒に住みたいと思ったそうだ。
しかし、そこは儒教の国、まだまだ保守的な面も見せる中国。
娘さんの両親が結婚前の同居に反対し、「一緒に住みたいなら結婚しなさい」と。
それで、「じゃあ結婚する」という運びになったららしい。
「最近の若い人でしょ」
Chunは短すぎる交際期間での電撃結婚に戸惑いを隠せないようだが、彼女自身は保守的なわけではない。
むしろ、二人がもっとよく知り合うために、結婚前に同居することに賛成したかったようだ。
婚姻届を提出する前に電話で二人と話した時にも、
「もっとよく知り合ってからのほうが良いんじゃない?」
と、聞いたらしい。
しかし、もう結婚してしまった以上は、そんな後ろ向きなコトは言わない。
二人には幸せになって欲しい。
そんな思いを込めて、Chunが新婚の二人に贈ったと言う言葉、
「結婚する前はしっかりと両目を開けて、結婚した後は片目をつぶって、相手を見なさい」
さすが、遠距離結婚生活を長年維持してきた女性の言葉だ。
本当はこの話を書きたかったんだけど、Chunのキャラクター紹介が長くなってしまった。
彼女には、少し年上のお兄さんとちょっと年の離れた弟がいる。
お兄さんはChunが結婚する前に結婚して子供もいる。
Chunも20代後半に結婚しているから、かれこれもう15年近く経っている。
彼女の世代では、女性は24歳を過ぎると『嫁き遅れ』と言われたそうだ。
当時、まだ結婚にはあんまり興味のなかった彼女も、周りの友達が次々と結婚していくのを見、両親にも心配されて、さすがに内心焦ったと話していた。
しかし、この10年程度の間に、中国の経済は大幅に成長し、社会も急激に変化した。
中国トップの大学で情報工学を学び、エリートとして就職したChun弟は、カナダの大学への留学奨学金を得た。本当に、本人は何の苦労もせずにもらったという感じだった。
そうして1年近くカナダの大学に留学していたのだが、生活に馴染めなかったのか、帰ってきてしまった。
その後、再び収入の良い職を経て、働いているのだが、
カナダへ行った時に遠距離で付き合っていた彼女からは振られてしまった。
何でも、その彼女はカナダへ行きたくて、彼と付き合っていたんだそうだ。
それが数年前で、その後Chun弟には彼女ができなかった。
8歳近く年の離れたとても仲の良い弟に彼女ができないというのは彼女の心配事の一つだった。
Chunの弟は今年31歳になったが、本人は仕事で忙しく、彼女を作ることにも興味も持っていないみたいだ、「あの子は若い世代に属していて考え方が私の世代とはちょっと違うから」
と、時々苦笑しながら話してくれた。
その弟が、「結婚したの」と、Chunが興奮しながら語り始めた。
4月の半ばに中国に帰る時にはそんな話聞いてなかったから、本当に数ヶ月の『電撃結婚』ってやつである。
「結婚?誰と?だって、彼女居ないって言ってたじゃない?!」
嫁き遅れ日本代表がビックリして声を張り上げる(笑)
「それがねぇぇぇぇぇ」
と、複雑な表情を見せながら語ってくれた話はこうだった。
北京には最近、公園でシングルの子を持つ親の集まりがあるらしい。
そろそろ結婚して欲しい年齢にも関わらずシングルで、パートナー探しの時間も無いような若者の母親が、データを持ち寄って互いに話し合い、合意するとデートの約束などをするのだそうである。
Chunの実家の近くの公園でもそういう集まりがあって、息子の心配をするChunお母さんがそこに通っていた。
そこで色んな娘さんとのお見合いデートを取り付け、息子と会わせる。
Chun弟もそろそろ結婚したいなと思っていたので、母親が約束してくる娘さんたちに何人も会ってみたそうである。
その中でお互いに、「感じがいい人」と思ったそうだ。
それから、お互いの家族を紹介しあったり、毎週デートを重ねていった。
そして先日、役所に婚姻届を提出したという。
「はっやーーーーーーーー、じゃ、結婚式はなし?、、、もしかして、彼女妊娠してるとか?」
というのは、もちろん日本人の私の発想。
中国では、まず役場に婚姻届を提出して、1ヶ月とかすると、公式に結婚しましたという書類が届くそうだ。
結婚式はそれからっていうのは普通なんだとか。
多分来年の旧正月頃じゃない、ということだった。
すぐお隣の国なのに、毎回「へえぇぇぇぇ」と思うことばかりだ。
実は二人は、数ヶ月デートをした後で、一緒に住みたいと思ったそうだ。
しかし、そこは儒教の国、まだまだ保守的な面も見せる中国。
娘さんの両親が結婚前の同居に反対し、「一緒に住みたいなら結婚しなさい」と。
それで、「じゃあ結婚する」という運びになったららしい。
「最近の若い人でしょ」
Chunは短すぎる交際期間での電撃結婚に戸惑いを隠せないようだが、彼女自身は保守的なわけではない。
むしろ、二人がもっとよく知り合うために、結婚前に同居することに賛成したかったようだ。
婚姻届を提出する前に電話で二人と話した時にも、
「もっとよく知り合ってからのほうが良いんじゃない?」
と、聞いたらしい。
しかし、もう結婚してしまった以上は、そんな後ろ向きなコトは言わない。
二人には幸せになって欲しい。
そんな思いを込めて、Chunが新婚の二人に贈ったと言う言葉、
「結婚する前はしっかりと両目を開けて、結婚した後は片目をつぶって、相手を見なさい」
さすが、遠距離結婚生活を長年維持してきた女性の言葉だ。
ドイツで知り合った中国人の親友
中国人の親友Chunが昨日戻ってきた。
博士論文の研究に中国に関するテーマを選んだ彼女は、データを収集するために4月の半ばから中国で調査活動をしていた。
と言っても、今回は2週間の滞在でまた中国に戻り、12月の半ばにまたこっちに来る。
彼女とは、マスターをやっていた時期も少し重なっていて、その頃からの友達。
お互いにドイツ語で講義を受け、試験をパスし、修士論文を提出してきて、常に苦労を分かち合ってきたので、すっかり気心が知れている。
私よりも年上のChunには、20代後半で結婚していて、もうすぐ10歳になる一人娘がいる。
彼女がドイツへ留学しに来てすでに5年以上経っているはずだが、その間、旦那さん娘さんとは離れ離れで頑張ってきた。
この話をすると、ドイツ人やヨーロッパ人だけではなく、日本人もアジア人もみんな驚く。
そりゃあそうだろう。
まだまだお母さんに甘えたい盛りの小さな娘を残して、単身でドイツに留学に来ているんだから。
言われるまでもなく、彼女にしたってすごく辛いはずだ。
しかし、そのことに触れられると彼女は、何の気負いもなく凛として答える。
「でも、娘は全寮制の小学校に入っていて、中国に居たってどっちみち週末しか会えないの。夫も仕事で忙しく飛び回っているから週末くらいしか帰ってこない。娘のことはもちろん大切だけど、子供と一日中二人っきりで一緒に居るのは子供のためにも良くないと思うし、私には想像できない。私も一人で家に居るよりも外で仕事をしたい。でも以前やっていた仕事とは違うことをやりたいから、勉強しなきゃいけないの」
賛否両論あるだろう。
私は彼女の一点の曇りも無く、明解で前向きな理屈がすごく好きだ。
母親が信念を持って突き進んでいれば、子供っていうのはそれを当然のこととして受け取るものだ。
周りの大人たちが、「子供がかわいそうだ」とか「ヒドイ母親だ」なんて無責任なコトさえ言わなければ、子供は子供なりに納得するものだ。
話はそれるけど、
私の母はずっと働いていたので、私は生後2ヶ月の頃から公立保育園に行っていた。
もちろん、記憶にあるのはせいぜい2歳くらいからだけど。
いまだにその話をすると、一瞬目を見開いて、それから批判めいた表情をする人がドイツにも日本にもたくさん居るけれど、当の本人は結構愉しんでいた。
私の母もそれについて良心の呵責などは一切感じていなかったし、だから私も毎日保育園に行くことを日常として受け入れていた。
もちろんChunだって時には娘さんや旦那さんが恋しくてたまらないことがある。
日に日に成長する愛しい娘の成長を、そばで見守ってあげないなんて、何てヒドイ母親だろうと自分で自分を責めることもある。
でも、大学に通うなら今しかない、もっと年を取ってからでは就職するチャンスが無い。
今、高い学位を取って、やりたい仕事に就けるチャンスを手にしたい。
彼女のように子供や旦那を残して留学している中国人女性を、私は他にも知っている。
旧東ドイツと同じように共産圏の中国では女性も一生働き続けることが当然であるらしい。
(もっとも旧東ドイツではそれでも伝統的な男女の役割分担が根付いていたという話も聞くが)
だから社会全体的に、妻が夫と子をを残して留学するという事態を受け止める素地があるのだろうか?
話を聞いていると、旦那さん達も彼女達が単身留学することに理解を示し待っていてくれているようだし、
双方の両親や兄弟が、時には子供の面倒をみたりと、ばっちりとサポートしてくれているようである。
そういった意味で中国の女性達は自由なのかもしれない。
しなやかで力強く、向上心を持ち、自分の道を拓こうとする中国の女性達は、惚れ惚れするほどすがすがしい。
博士論文の研究に中国に関するテーマを選んだ彼女は、データを収集するために4月の半ばから中国で調査活動をしていた。
と言っても、今回は2週間の滞在でまた中国に戻り、12月の半ばにまたこっちに来る。
彼女とは、マスターをやっていた時期も少し重なっていて、その頃からの友達。
お互いにドイツ語で講義を受け、試験をパスし、修士論文を提出してきて、常に苦労を分かち合ってきたので、すっかり気心が知れている。
私よりも年上のChunには、20代後半で結婚していて、もうすぐ10歳になる一人娘がいる。
彼女がドイツへ留学しに来てすでに5年以上経っているはずだが、その間、旦那さん娘さんとは離れ離れで頑張ってきた。
この話をすると、ドイツ人やヨーロッパ人だけではなく、日本人もアジア人もみんな驚く。
そりゃあそうだろう。
まだまだお母さんに甘えたい盛りの小さな娘を残して、単身でドイツに留学に来ているんだから。
言われるまでもなく、彼女にしたってすごく辛いはずだ。
しかし、そのことに触れられると彼女は、何の気負いもなく凛として答える。
「でも、娘は全寮制の小学校に入っていて、中国に居たってどっちみち週末しか会えないの。夫も仕事で忙しく飛び回っているから週末くらいしか帰ってこない。娘のことはもちろん大切だけど、子供と一日中二人っきりで一緒に居るのは子供のためにも良くないと思うし、私には想像できない。私も一人で家に居るよりも外で仕事をしたい。でも以前やっていた仕事とは違うことをやりたいから、勉強しなきゃいけないの」
賛否両論あるだろう。
私は彼女の一点の曇りも無く、明解で前向きな理屈がすごく好きだ。
母親が信念を持って突き進んでいれば、子供っていうのはそれを当然のこととして受け取るものだ。
周りの大人たちが、「子供がかわいそうだ」とか「ヒドイ母親だ」なんて無責任なコトさえ言わなければ、子供は子供なりに納得するものだ。
話はそれるけど、
私の母はずっと働いていたので、私は生後2ヶ月の頃から公立保育園に行っていた。
もちろん、記憶にあるのはせいぜい2歳くらいからだけど。
いまだにその話をすると、一瞬目を見開いて、それから批判めいた表情をする人がドイツにも日本にもたくさん居るけれど、当の本人は結構愉しんでいた。
私の母もそれについて良心の呵責などは一切感じていなかったし、だから私も毎日保育園に行くことを日常として受け入れていた。
もちろんChunだって時には娘さんや旦那さんが恋しくてたまらないことがある。
日に日に成長する愛しい娘の成長を、そばで見守ってあげないなんて、何てヒドイ母親だろうと自分で自分を責めることもある。
でも、大学に通うなら今しかない、もっと年を取ってからでは就職するチャンスが無い。
今、高い学位を取って、やりたい仕事に就けるチャンスを手にしたい。
彼女のように子供や旦那を残して留学している中国人女性を、私は他にも知っている。
旧東ドイツと同じように共産圏の中国では女性も一生働き続けることが当然であるらしい。
(もっとも旧東ドイツではそれでも伝統的な男女の役割分担が根付いていたという話も聞くが)
だから社会全体的に、妻が夫と子をを残して留学するという事態を受け止める素地があるのだろうか?
話を聞いていると、旦那さん達も彼女達が単身留学することに理解を示し待っていてくれているようだし、
双方の両親や兄弟が、時には子供の面倒をみたりと、ばっちりとサポートしてくれているようである。
そういった意味で中国の女性達は自由なのかもしれない。
しなやかで力強く、向上心を持ち、自分の道を拓こうとする中国の女性達は、惚れ惚れするほどすがすがしい。
トスカーナ - サン・ガルガーノ
前の日の夜遅くから降り出した雨は、夜中降ったり止んだりを繰り返し、
この日の午前中はまだ雨がパラついていた。
キャンプって基本的にすっごく好きなんだけど、
それでも、雨が降っている中でのキャンプ生活ほど嫌なものはない(笑)
足も服も、荷物も何から何まで濡れて、テントの中に逃げ込んでも、テントの中はしっとりと湿っている。
外が乾かない限りは中でモノが乾燥することはない。
雨が降り続けば、テントの中まで水がしみ込んでくる。
朝、まだ虚ろな意識の中で雨の音を聞きながら、もう憂うつな気分になっていた。
大体テントの中に居ると、雨の音がやけに大きく響いてきて、
まるで空がちっぽけな人間をあざ笑っているみたいだ。
そんなことをボーっと考えていたら、彼も目を覚ました。
「雨降ってるよ」
「降ってるね」
「今日何する?」
「良い質問だね」
ダラダラと10時近くまでテントに居たら、雨が小降りになり、ほとんど止んでくれた。
相変わらず空は雲で覆われていて、そのうちまた振られそうだが、
とにかく外で何かできそうだ。
「こういう天気は歩くのに最適だね」
ということで、今日のプログラムはハイキングに決定。
San Galgano/サン・ガルガーノは、シエナから南西に20kmほどのところに位置している。
その手前のMonticiano/モンティチアーノという町まで車で行き、
そこからサン・ガルガーノという朽ち果てた教会まで、約1時間半ほどのハイキングだ。
モンティチアーノにある教会の鐘。
トスカーナでは、教会の鐘がこんな風に外から見えるように取り付けられていることが多かった。
ドイツでは教会の鐘が外から丸見えになっていることって滅多にないから不思議だった。
教会の内部に入ると、側面の墓地へ続くドアが開いていた。
教会の内部の薄暗さと外をつないでいる、木のドアの表面に映る柔らかい光が印象的だった。
モンティチアーノからサン・ガルガーノへと歩く途中、サン・ガルガーノのすぐ手前を流れるMerse川に掛かる橋。
こんなシンプルな木の橋にお目に掛かれるなんて、感動モノ。
ハイキングっていったって、比較的平坦だし長くもないし、歩きやすくて割とお手軽なコースなんだけど、この橋のこの構造から察するところ、歩く人は相当少ないんだろう。
たびたびドイツ人の口から出る、「イタリア人は歩かないから」という言葉の意味が分かる気がする。
実際、このコースを歩いていて見かけたのは一組のカップルだけだった。
静かで良かったけど。
木の橋を渡り、畑の中の道を抜けて、ダラダラと上り坂を登っていく。
丘の中腹で、もう一本の道にT字でぶつかると、左手の視線を遮っていた藪が終わり、突然、朽ちかけている教会が姿を現す。
劇的とも言える出現、圧倒的な大きさ、迫力ある姿
これが、サン・ガルガーノ。
もともとは13世紀頃に修道院として建築されたらしいが、16世紀頃には廃墟となり、
18世紀頃に屋根が壊れてから、修理されることもなく野ざらしになっている。
まさしく、
祇園精舎の鐘の声、諸行の無常の響きあり
と言った趣があった。
ハイキングコースではほとんど人っ気を感じなかったのに、
このサン・ガルガーノは観光客でごった返していた(笑)
全然知らなかったのだけど、アンドレイ・タルコフスキーというソヴィエトの映画監督の撮った「ノスタルジア」という映画のラストシーンでこの教会が使われているらしい。
是非、観てみたいと思う。
丘の頂上に立つ、洗礼教会の天井
この日の午前中はまだ雨がパラついていた。
キャンプって基本的にすっごく好きなんだけど、
それでも、雨が降っている中でのキャンプ生活ほど嫌なものはない(笑)
足も服も、荷物も何から何まで濡れて、テントの中に逃げ込んでも、テントの中はしっとりと湿っている。
外が乾かない限りは中でモノが乾燥することはない。
雨が降り続けば、テントの中まで水がしみ込んでくる。
朝、まだ虚ろな意識の中で雨の音を聞きながら、もう憂うつな気分になっていた。
大体テントの中に居ると、雨の音がやけに大きく響いてきて、
まるで空がちっぽけな人間をあざ笑っているみたいだ。
そんなことをボーっと考えていたら、彼も目を覚ました。
「雨降ってるよ」
「降ってるね」
「今日何する?」
「良い質問だね」
ダラダラと10時近くまでテントに居たら、雨が小降りになり、ほとんど止んでくれた。
相変わらず空は雲で覆われていて、そのうちまた振られそうだが、
とにかく外で何かできそうだ。
「こういう天気は歩くのに最適だね」
ということで、今日のプログラムはハイキングに決定。
San Galgano/サン・ガルガーノは、シエナから南西に20kmほどのところに位置している。
その手前のMonticiano/モンティチアーノという町まで車で行き、
そこからサン・ガルガーノという朽ち果てた教会まで、約1時間半ほどのハイキングだ。
モンティチアーノにある教会の鐘。
トスカーナでは、教会の鐘がこんな風に外から見えるように取り付けられていることが多かった。
ドイツでは教会の鐘が外から丸見えになっていることって滅多にないから不思議だった。
教会の内部に入ると、側面の墓地へ続くドアが開いていた。
教会の内部の薄暗さと外をつないでいる、木のドアの表面に映る柔らかい光が印象的だった。
モンティチアーノからサン・ガルガーノへと歩く途中、サン・ガルガーノのすぐ手前を流れるMerse川に掛かる橋。
こんなシンプルな木の橋にお目に掛かれるなんて、感動モノ。
ハイキングっていったって、比較的平坦だし長くもないし、歩きやすくて割とお手軽なコースなんだけど、この橋のこの構造から察するところ、歩く人は相当少ないんだろう。
たびたびドイツ人の口から出る、「イタリア人は歩かないから」という言葉の意味が分かる気がする。
実際、このコースを歩いていて見かけたのは一組のカップルだけだった。
静かで良かったけど。
木の橋を渡り、畑の中の道を抜けて、ダラダラと上り坂を登っていく。
丘の中腹で、もう一本の道にT字でぶつかると、左手の視線を遮っていた藪が終わり、突然、朽ちかけている教会が姿を現す。
劇的とも言える出現、圧倒的な大きさ、迫力ある姿
これが、サン・ガルガーノ。
もともとは13世紀頃に修道院として建築されたらしいが、16世紀頃には廃墟となり、
18世紀頃に屋根が壊れてから、修理されることもなく野ざらしになっている。
まさしく、
祇園精舎の鐘の声、諸行の無常の響きあり
と言った趣があった。
ハイキングコースではほとんど人っ気を感じなかったのに、
このサン・ガルガーノは観光客でごった返していた(笑)
全然知らなかったのだけど、アンドレイ・タルコフスキーというソヴィエトの映画監督の撮った「ノスタルジア」という映画のラストシーンでこの教会が使われているらしい。
是非、観てみたいと思う。
丘の頂上に立つ、洗礼教会の天井
トスカーナ - サン・ジミニャーノ
シエナから北西に行ったところに位置するサン・ジミニャーノ。
塔の町として知られている。
大昔、この町にはいくつかの力のある家族が住んでいて、財力や権力を争っていたんだとか、
それぞれが自分達の力を見せつけるために、競って高い塔を建てていったために、塔が林立する町が出来上がった、ということらしい。
ただし、市庁舎の塔よりも高い塔を建ててはいけなかったそうだ。
塔の高さが権威の象徴だったことが分かる。
面白いのは、ドイツだと旧市街の中で一番高い塔を持つ建物は教会なのに、
イタリア、少なくともこのトスカーナでは市庁舎だ。
ドイツでは中世の頃、教会の塔よりも高い塔を建設することを、神に対する冒涜として禁じていたと聞いた。
イタリアは、ドイツなんかよりももっと敬虔なキリスト教徒の国というイメージのあったんだけど、、、。
もっとも、ここで考慮しなければならないのは、建築様式と時代のこと。
トスカーナで見た教会の多くは、ロマネスク様式だった。
ロマネスク様式は、素朴でどっしりとしており、装飾が少ない。
ドイツでよく見られる教会の高い塔は、ゴティック様式の建築技術によって初めて実現したものだと聞いたことがある。
実際、トスカーナで見た教会はドイツのような空を突くような塔がなかった。
石を積み上げて建てられた家は、冷たさと温かさを両方持っていて、
その壁にテクスチャーや色の違う石の組み合わせで描き出される表情は、
いつまで見上げていても飽きない。
塔の町として知られている。
大昔、この町にはいくつかの力のある家族が住んでいて、財力や権力を争っていたんだとか、
それぞれが自分達の力を見せつけるために、競って高い塔を建てていったために、塔が林立する町が出来上がった、ということらしい。
ただし、市庁舎の塔よりも高い塔を建ててはいけなかったそうだ。
塔の高さが権威の象徴だったことが分かる。
面白いのは、ドイツだと旧市街の中で一番高い塔を持つ建物は教会なのに、
イタリア、少なくともこのトスカーナでは市庁舎だ。
ドイツでは中世の頃、教会の塔よりも高い塔を建設することを、神に対する冒涜として禁じていたと聞いた。
イタリアは、ドイツなんかよりももっと敬虔なキリスト教徒の国というイメージのあったんだけど、、、。
もっとも、ここで考慮しなければならないのは、建築様式と時代のこと。
トスカーナで見た教会の多くは、ロマネスク様式だった。
ロマネスク様式は、素朴でどっしりとしており、装飾が少ない。
ドイツでよく見られる教会の高い塔は、ゴティック様式の建築技術によって初めて実現したものだと聞いたことがある。
実際、トスカーナで見た教会はドイツのような空を突くような塔がなかった。
石を積み上げて建てられた家は、冷たさと温かさを両方持っていて、
その壁にテクスチャーや色の違う石の組み合わせで描き出される表情は、
いつまで見上げていても飽きない。
チャーリーとチョコレート工場 (2005年)
CHARLY AND THE CHOCOLATE FACTORY
現在公開中で、評判の高いこの映画を、観てきた。
この映画は、「WILLY WONKA & THE CHOCOLATE FACTORY」という70年代に作られた映画のリメイクで、
さらに原作は初版から40年以上も経った今でも子供達から愛されている本のベスト3にランクインしてるんだとか(映画「チャーリーとチョコレート工場」オフィシャルサイト より)。
チャーリーの家は、今日食べるものにも困るような貧しい家庭だ。
でも、若い夫婦が4人のおじいさん、おばあさんの面倒を見て、幼いチャーリーは心のまっすぐな優しい少年だ。
それに対して、ジョニー・デップが演じている世界一のチョコレート工場を持つ、成功者のウィリー・ウォンカ。
幼い頃に父親と別離してから、それがトラウマとなり「ペアレンツ」という言葉に対するアレルギー反応を持ち、
15年以上前に従業員から工場の秘密を持ち出されてからというもの、人間を信用することのできなくなったという
自分の世界に閉じこもって生きている変わり者。
こう書くと、クリスマス・キャロルのような意地の悪い偏屈なおやじかと想像するところだが、
世間の感覚からズレまくっている、究極に変わっているオタクなキャラクターに作り上げてしまったところがすごい。
さすがティム・バートンとジョニー・デップのゴールデンコンビという感じ。
自分の発明を嬉々として紹介し、自分も手を叩いて喜ぶような、子供のように純粋なウィリー。
一方で傷つけられるのが嫌で、人とは深く交わりたくない繊細な男を、ジョニー・デップが非常にコミカルに演じている。
カリブの海賊に続いてまたまたコミカルなジョニーデップだ。
こういう役をやると、彼の存在感と表現力が一際光って見える気がする。
「ネバーランド」も悪くは無かったけれど、今ひとつ面白みに欠けていた気がする。
ああいうベタな2枚目役は、乱暴に言えば誰でもできるので、彼の魅力を生かしきれてなかった気がする、、、。
そしてこのチョコレート工場の中で孤独な男の元で忠実に働くウンパ・ルンパ達。
ストーリー自体には関係ないんだけど、このエンターテイメントがこの映画に華を添えて、常に笑いをさらっていく。
ちょっとそれ、卑怯なんじゃない?
って思いながらも、笑いが止まらなかった。
現代社会の中で妙に世間ズレしている子供達をシニカルに斬り捨て(笑)、
父親の愛情を感じることの出来なかったウィリーと、貧しい家庭環境でも愛情に包まれてまっすぐに成長したチャーリーを軸に、家族の愛がラストへと導く。
ブラックなジョークやパロディも目一杯盛り込まれていて、子供には少し毒が強すぎるかも?
大人が十分に楽しめるファンタジー作品だ。
現在公開中で、評判の高いこの映画を、観てきた。
この映画は、「WILLY WONKA & THE CHOCOLATE FACTORY」という70年代に作られた映画のリメイクで、
さらに原作は初版から40年以上も経った今でも子供達から愛されている本のベスト3にランクインしてるんだとか(映画「チャーリーとチョコレート工場」オフィシャルサイト より)。
- ロアルド・ダール
- チョコレート工場の秘密
チャーリーの家は、今日食べるものにも困るような貧しい家庭だ。
でも、若い夫婦が4人のおじいさん、おばあさんの面倒を見て、幼いチャーリーは心のまっすぐな優しい少年だ。
それに対して、ジョニー・デップが演じている世界一のチョコレート工場を持つ、成功者のウィリー・ウォンカ。
幼い頃に父親と別離してから、それがトラウマとなり「ペアレンツ」という言葉に対するアレルギー反応を持ち、
15年以上前に従業員から工場の秘密を持ち出されてからというもの、人間を信用することのできなくなったという
自分の世界に閉じこもって生きている変わり者。
こう書くと、クリスマス・キャロルのような意地の悪い偏屈なおやじかと想像するところだが、
世間の感覚からズレまくっている、究極に変わっているオタクなキャラクターに作り上げてしまったところがすごい。
さすがティム・バートンとジョニー・デップのゴールデンコンビという感じ。
自分の発明を嬉々として紹介し、自分も手を叩いて喜ぶような、子供のように純粋なウィリー。
一方で傷つけられるのが嫌で、人とは深く交わりたくない繊細な男を、ジョニー・デップが非常にコミカルに演じている。
カリブの海賊に続いてまたまたコミカルなジョニーデップだ。
こういう役をやると、彼の存在感と表現力が一際光って見える気がする。
「ネバーランド」も悪くは無かったけれど、今ひとつ面白みに欠けていた気がする。
ああいうベタな2枚目役は、乱暴に言えば誰でもできるので、彼の魅力を生かしきれてなかった気がする、、、。
そしてこのチョコレート工場の中で孤独な男の元で忠実に働くウンパ・ルンパ達。
ストーリー自体には関係ないんだけど、このエンターテイメントがこの映画に華を添えて、常に笑いをさらっていく。
ちょっとそれ、卑怯なんじゃない?
って思いながらも、笑いが止まらなかった。
現代社会の中で妙に世間ズレしている子供達をシニカルに斬り捨て(笑)、
父親の愛情を感じることの出来なかったウィリーと、貧しい家庭環境でも愛情に包まれてまっすぐに成長したチャーリーを軸に、家族の愛がラストへと導く。
ブラックなジョークやパロディも目一杯盛り込まれていて、子供には少し毒が強すぎるかも?
大人が十分に楽しめるファンタジー作品だ。
トスカーナ - シエナ
ドイツを出てスイスを経由しトスカーナまで移動したのが日曜日。
早速次の日、月曜日にシエナの町を訪ねた。
泊まっていたキャンプ場が、シエナの町と鉄道をはさんで反対側の丘の上にある。
前日にキャンプ場を探して走り回っている時に、間違えて町の入り口手前まで行ってしまった。
日曜日の午後だったせいもあるのかもしれないが、
町へと導く細い道路のずっと下の方から町の手前まで、
駐車場はもちろん、路肩や歩道など、隙間という隙間が車で埋め尽くされていた。
キャンプ場から町まで、30分以上掛かるかもしれないけど、歩いて行ける距離だ。
昨日の午後、路上駐車の激しさを目の当たりにしていた私達は、歩いていくことにした。
しかし、ドイツの曇り空と雨の多い天気からは想像もできなかったような、快晴。
快晴、つまり炎天下。
空気が乾燥しているために、日陰はひんやりとしているし、風が肌を冷やしてくれる。
それにしても、延々とアスファルトの道路を山の上の町まで歩くのはしんどかった。
町に入ってすぐのところでポストを見つけた。
ドイツやフランスは黄色なのに、イタリアは赤なんだ。
なんか、日本みたい。
シエナの町の代表的な広場、ピアッツァ デル カンポに行った。
上の写真、噴水の犬の像から流れ出る水を鳩が直接飲んでいる。
犬の表情が、なんとも迷惑そうで笑える。
広場に面して立つのは、古い市庁舎をはじめとする古くて美しい建物たち。
「毎年、夏にこの広場の回りをコースにしてやる、競馬のお祭りがあるんだよ。初めてシエナに来た時(10年くらい前?)、ちょうどそのお祭りが終わった後だった(笑)」
なーんて彼が話してくれたら、あらら、なんとそのお祭り、次の日曜日だった。
このお祭りは、現在ではもちろん観光客のためのとっておきのアトラクションになっているわけだが、
それでも住民にとっても町を上げての一大イベントであり、
またシエナの町の中の字(あざ)対抗で実施される歴史ある競技であり、
騎乗するのはその地区の住人で、各地区が名誉を掛けてそりゃあもう真剣に(?)戦うらしい。
きっと、優勝したチームは一年間、もっとも優れた地区として威張り散らすことが許され、負けたチームは屈辱感を噛み締めながら、来年こそは優勝するぞと心に誓うんだろう。
字(あざ)っていうのはつまり、シエナという大きな都市の中に、いくつかの地区があって、
それは規模は小さいけど一つの村みたいなもので、
これはきっと中世の昔から存在していた単位で、
名前ももちろんあるし、それぞれの地区に動物のキャラクターがあって、
町を歩いていれば、噴水や広場なんかにその地区のキャラクターの動物の像が立っていたり絵が埋め込まれていたりする。
そしてこのお祭りでは、そのキャラクターが入っている地区の旗をなびかせながら、音楽隊とともに、町の中を行進したり、応援合戦を繰り広げたりするらしい。
その地区の旗をなびかせながら行進の練習風景に、偶然出合わせて、撮ったのが上の写真だ。
彼が10年ほど前にこの地を訪れた時は、ちょうどこのお祭りが終わった直後で、
それでも興奮覚めやらぬ音楽+旗隊が、気が向くと隊を組んで町の中へと賑やかに繰り出し来て、かなり印象的だったらしい。
私達は、日曜日までシエナに居たんだけど、結局お祭りには行かなかった。
金曜日から始まったキャンプ場の大大混雑状態を前に、町まで行ってみる気が萎えてしまったのである(笑)。
この日、私達はシエナの町にあるレストランで夕食を食べた。
このレストランは、10年程前彼が一人旅で来た時に、泊まっていたペンションの人から教えてもらって行ったら、美味しかったし美味しかった、という所だった。
このレストランに関して彼が覚えていたのは、
「坂の途中に机を出していて、パラソルを差している所だった」という、たったそれだけで、
この情報だけでレストランを探すのは不可能に近く、
私はほとんど相手にしていなかったのであるが、歩き回っているうちに偶然前を通りかかったのだった。
さて、ここで私は生まれて初めて、『ちゃんとイタリア風』にご飯を食べた。
っていうのは、まず前菜として、ハムなどの盛り合わせを取り(これは彼と一皿を半分ずつ)、
第1の皿はスパゲッティ、そして第2の皿は肉料理を頼んだ。
残念ながらデザートまでは制覇できなかったが、
キャンティのハーフボトルを二人で飲んだ。
この、最初のお皿がパスタで、次のお皿が肉料理っていうの、ローテンブルグで一緒に住んでいたイタリア人のFから何度も何度も話を聞かされて、ちょっと憧れていた♪ので、うれしかった。
これだけ食べて飲んで、二人で27ユーロ(3700円くらい)だったから、イタリアにしてはかなり安いと思わなければならないだろう。
イタリアって、イメージを裏切って、実は結構物価が高いから。
最近物忘れが激しい(涙)ので記録しておきたい私と、『今度シエナに行くので、このレストランの場所が知りたい』という人のために、
まず、ピアッツァ デル カンポからサン ドメニコに向かって歩く。
通りの名前はVia d. Termeで、左にカーブするこの道を端まで歩くと、Via d. Sapienzaにぶつかる。
この角に近いところ、向かって右側にピザ屋があるので、分かりやすい。
ちなみにこのピザ屋も、彼が10年前に教えてもらって食べたことのあるピザ屋で、安くて美味しいそうだ。
さて、Via d. Sapienzaに入ったら、左側を注意して欲しい。小さくて急な下り坂の路地がいくつかある。
そのうちの一本にこのレストランがある。
下り坂にテーブルと椅子を並べているのですぐに気がつくはずだ。
トスカーナ - イノシシ
トスカーナの古い町を歩いていると、至る所で、出会うイノシシ達。
全然知らなかったのだが、イノシシの肉で作ったサラミが名物らしい。
そして、イノシシのサラミを売っている肉屋は、店頭にイノシシの剥製を飾っている。
文字で説明すると結構気持ち悪い感じがするけど、イノシシの頭がメガネを掛けていたり、変な洋服を着てテーブルを囲っていたり、なんともキッチュで笑わされた。
シエナのイノシシ。
鼻メガネでおじいちゃんのような優しいまなざし
フィレンツェのイノシシ。
まだ小さなイノシシ達が、4匹で食卓を囲んでいる。
このキッチュさがなんとも言えない(笑)
ヴォルテッラのイノシシ。
正面から見ると、ニタッと笑っているようにも見えるのだが、
横に飾られたお花となぜか馴染んで精悍な横顔、、、。
全然知らなかったのだが、イノシシの肉で作ったサラミが名物らしい。
そして、イノシシのサラミを売っている肉屋は、店頭にイノシシの剥製を飾っている。
文字で説明すると結構気持ち悪い感じがするけど、イノシシの頭がメガネを掛けていたり、変な洋服を着てテーブルを囲っていたり、なんともキッチュで笑わされた。
シエナのイノシシ。
鼻メガネでおじいちゃんのような優しいまなざし
フィレンツェのイノシシ。
まだ小さなイノシシ達が、4匹で食卓を囲んでいる。
このキッチュさがなんとも言えない(笑)
ヴォルテッラのイノシシ。
正面から見ると、ニタッと笑っているようにも見えるのだが、
横に飾られたお花となぜか馴染んで精悍な横顔、、、。
トスカーナ - 車
もう2週間ほど経ってしまうが、休暇で1週間トスカーナへ行って来た。
シエナにあるキャンプ場に泊まって、毎日周辺の小さな町を訪ねたり、地中海で海水浴をしたり。
休暇、と言いつつも、毎日まじめに(?)数時間の移動を繰り返していた。
その道すがら、あるいは町の中で、毎日のように出会ったのが、フィアット。
思わず、
あ、ルパンだ、ルパンの車だ!
と、はしゃぎたくなったが、どうせ彼には通じないので、やめたが、
うれしくて自然と顔がにやけてしまう。
ドイツでは見かけたことないけど、やっぱりイタリア、なんだね。
感無量。
きっと、西ドイツ人にとっての古いVWビートル、旧東ドイツ人にとってのトラビー(トラバント)、フランス人にとってのシトロエンだったりするんだろう。
愛着を持って大切に乗られているのが伝わってきて、微笑ましかった。
さらに、トスカーナの小さな町でも、クネクネとカーブの続く狭い道路でもマイペースに走り抜けているのが
この3輪だ。
写真のタイプは二人乗りで、軽トラより少し小さいくらいの大きさだが、
もっと小さな、オートバイくらいの一人乗りタイプもたくさん走っていた。
トスカーナの古い都市はみんな山や丘の上に建設されており、さらに中世の頃に作られた路地が入り組んでいるため、小さな3輪自動車は実質的に非常に便利であるのだろう。
フィアットといい、この3輪といい、トスカーナの農村景観や中世の都市景観に自然に溶け込んでいた。
シエナにあるキャンプ場に泊まって、毎日周辺の小さな町を訪ねたり、地中海で海水浴をしたり。
休暇、と言いつつも、毎日まじめに(?)数時間の移動を繰り返していた。
その道すがら、あるいは町の中で、毎日のように出会ったのが、フィアット。
思わず、
あ、ルパンだ、ルパンの車だ!
と、はしゃぎたくなったが、どうせ彼には通じないので、やめたが、
うれしくて自然と顔がにやけてしまう。
ドイツでは見かけたことないけど、やっぱりイタリア、なんだね。
感無量。
きっと、西ドイツ人にとっての古いVWビートル、旧東ドイツ人にとってのトラビー(トラバント)、フランス人にとってのシトロエンだったりするんだろう。
愛着を持って大切に乗られているのが伝わってきて、微笑ましかった。
さらに、トスカーナの小さな町でも、クネクネとカーブの続く狭い道路でもマイペースに走り抜けているのが
この3輪だ。
写真のタイプは二人乗りで、軽トラより少し小さいくらいの大きさだが、
もっと小さな、オートバイくらいの一人乗りタイプもたくさん走っていた。
トスカーナの古い都市はみんな山や丘の上に建設されており、さらに中世の頃に作られた路地が入り組んでいるため、小さな3輪自動車は実質的に非常に便利であるのだろう。
フィアットといい、この3輪といい、トスカーナの農村景観や中世の都市景観に自然に溶け込んでいた。
シベリアの大地と人
もう2年前のことになるが、シベリアのバイカル湖へ行く3週間のエクスカーションに参加した。
これは、主に大学生や研究者などを対象として、植物学、地質学、鳥類学、生態学といったテーマが設定され、シベリアの大学のこれらの分野の教授や研究者が同行した。
実際には、大学生や研究者でなくても関心のある人なら誰でも参加でき、個人ではなかなか行けないバイカル湖に行ってみようというノリのツアーだった。
3週間の行程で、イルクーツクから小さなバス2台で移動、野営を繰り返し、バイカル湖の南半分を回ったことになる。
バイカル湖で体を洗い、
洗濯もバイカル湖、
そして、飲み水や料理用の水も、もちろんバイカル湖から汲む
という3週間だった。
だって、他には何もないから。
シベリアと一言で言っても気候や土壌でサバンナから比較的湿潤な森林地帯まで様々であるが、
まとまりのある森林広がっている場所では、必ずと言っていいほど、森林火災の跡が目に飛び込んでくる。
夏場はほんの2ヶ月ほどしかないとは言え、暑い日は30度を越えることも珍しくなく、雨が降らずに極度に乾燥する地も多いので、自然災害かと思えばそうではない。
地元の人が森に入り、火を放つというのだ。
ロシアの全身は共産主義のソビエト連邦であり、その流れを受け継いで、森林はいまだに国有林のみである。
国有林を伐採するには国家の許可が必要だ。
しかし、ここに特例が認めらており、火事が起こった後の森林に限っては許可なしに伐採が認められているらしい。
これは、延焼や燃えてしまった立木が起こす二次災害を防ぐための安全対策や、森林の更新を促進するための目的があるのだろう。
国有林なら、その森林を管理する役人は居ないのか?
もちろん、いる。
しかし、地元の人たちがわずかばかりのお金を握らせると、黙認しているらしい。
国家公務員とは言え、給料は恐ろしく安い。
だから、いちいち監視などせずに、わずかな袖の下をもらって目をつぶるのだ。
シベリアの貧しさは、想像を絶している。
普通に職を得たとしても、一つの職業だけでは家族を養っていくことができないほど、給料が安いのだ。
だから、多くの人は2つ、3つと職場を掛け持ちしている。
冗談みたいな話だが、平日の昼間、イルクーツクなどの大きな町の中を歩いていると、どんな時間でも道には、あっちの職場、こっちの職場と渡り歩いている人が、忙しそうに行き交っているのだ。
そんな人達の多くが、ハーフタイムの職場でなく、フルタイムの職場を掛け持ちしている。
どうりで、窓口が閉まったままでいつ再開されるか分からなかったりという事態が起こるわけだ。
シベリアではとにかく、何をするにも延々と待たされる。あてもなくいつまでも待つ覚悟が必要なのだ。
これはあくまでもイルクーツクのようなシベリア有数の大都市の話であり、仕事があるだけマシである。
シベリアの農村部の生活は悲惨だ。
もともと痩せた土地であるので農業や漁業で生活を立てることはできない。
せいぜい家族の食べる分を生産する程度である。
これといった産業も無い。
若者や働き盛りの年代の多くは失業。
それでも最近、ドイツを中心とする西ヨーロッパからの観光客が増えた。
日雇いで観光ツアーバスの運転手をしたり、家や部屋を観光客に貸したり、といった、不定期な臨時収入だけが収入源となっていることも少なくないのだ。
そんな彼らが、求めて森へ入り、火を放ち、燃えた立木を伐採し、切り出したままの原木として買い叩かれ、わずかばかりの収入を得ているのだ。
そしてこの原木を、中国がタダ同然に買い取り、製材所できれいな木材製品に仕上げて、
日本に輸出している。
お金が落ちているのは、シベリアではなく、中国だ。
この構図のままでは、シベリアの農民はいつまで経っても貧しいままなのである。
昨今、熱帯雨林の破壊ばかりが取りざたされている。
日本が熱帯雨林地方の大規模な森林破壊の片棒を担いでいると、国際的な批判はとどまるところを知らないが、目と鼻の先のシベリアでも、経済大国、先進国としての日本が、森林乱伐を後押ししている。
シベリアは言うまでもなく東の大国ロシアの一部であるが、
ヨーロッパ圏に首都を構え、白人中心で国を運営している政府は、極東の不毛の地などに関心はないらしい。
これらの話しはみな、私の憶測ではなくてイルクーツク大学の教授や研究者が語ってくれたことだ。
森林管理官が倫理観が働くだけのまともな給料をもらうことができれば、
シベリアの地に製材所があり、地元の人が職を得て、木材輸出で地元の経済が多少でも潤う方向に改善されれば、
森林資源の持続可能な利用という概念に目を向ける余裕が、少しは出てくるのかもししれない。
これは、主に大学生や研究者などを対象として、植物学、地質学、鳥類学、生態学といったテーマが設定され、シベリアの大学のこれらの分野の教授や研究者が同行した。
実際には、大学生や研究者でなくても関心のある人なら誰でも参加でき、個人ではなかなか行けないバイカル湖に行ってみようというノリのツアーだった。
3週間の行程で、イルクーツクから小さなバス2台で移動、野営を繰り返し、バイカル湖の南半分を回ったことになる。
バイカル湖で体を洗い、
洗濯もバイカル湖、
そして、飲み水や料理用の水も、もちろんバイカル湖から汲む
という3週間だった。
だって、他には何もないから。
シベリアと一言で言っても気候や土壌でサバンナから比較的湿潤な森林地帯まで様々であるが、
まとまりのある森林広がっている場所では、必ずと言っていいほど、森林火災の跡が目に飛び込んでくる。
夏場はほんの2ヶ月ほどしかないとは言え、暑い日は30度を越えることも珍しくなく、雨が降らずに極度に乾燥する地も多いので、自然災害かと思えばそうではない。
地元の人が森に入り、火を放つというのだ。
ロシアの全身は共産主義のソビエト連邦であり、その流れを受け継いで、森林はいまだに国有林のみである。
国有林を伐採するには国家の許可が必要だ。
しかし、ここに特例が認めらており、火事が起こった後の森林に限っては許可なしに伐採が認められているらしい。
これは、延焼や燃えてしまった立木が起こす二次災害を防ぐための安全対策や、森林の更新を促進するための目的があるのだろう。
国有林なら、その森林を管理する役人は居ないのか?
もちろん、いる。
しかし、地元の人たちがわずかばかりのお金を握らせると、黙認しているらしい。
国家公務員とは言え、給料は恐ろしく安い。
だから、いちいち監視などせずに、わずかな袖の下をもらって目をつぶるのだ。
シベリアの貧しさは、想像を絶している。
普通に職を得たとしても、一つの職業だけでは家族を養っていくことができないほど、給料が安いのだ。
だから、多くの人は2つ、3つと職場を掛け持ちしている。
冗談みたいな話だが、平日の昼間、イルクーツクなどの大きな町の中を歩いていると、どんな時間でも道には、あっちの職場、こっちの職場と渡り歩いている人が、忙しそうに行き交っているのだ。
そんな人達の多くが、ハーフタイムの職場でなく、フルタイムの職場を掛け持ちしている。
どうりで、窓口が閉まったままでいつ再開されるか分からなかったりという事態が起こるわけだ。
シベリアではとにかく、何をするにも延々と待たされる。あてもなくいつまでも待つ覚悟が必要なのだ。
これはあくまでもイルクーツクのようなシベリア有数の大都市の話であり、仕事があるだけマシである。
シベリアの農村部の生活は悲惨だ。
もともと痩せた土地であるので農業や漁業で生活を立てることはできない。
せいぜい家族の食べる分を生産する程度である。
これといった産業も無い。
若者や働き盛りの年代の多くは失業。
それでも最近、ドイツを中心とする西ヨーロッパからの観光客が増えた。
日雇いで観光ツアーバスの運転手をしたり、家や部屋を観光客に貸したり、といった、不定期な臨時収入だけが収入源となっていることも少なくないのだ。
そんな彼らが、求めて森へ入り、火を放ち、燃えた立木を伐採し、切り出したままの原木として買い叩かれ、わずかばかりの収入を得ているのだ。
そしてこの原木を、中国がタダ同然に買い取り、製材所できれいな木材製品に仕上げて、
日本に輸出している。
お金が落ちているのは、シベリアではなく、中国だ。
この構図のままでは、シベリアの農民はいつまで経っても貧しいままなのである。
昨今、熱帯雨林の破壊ばかりが取りざたされている。
日本が熱帯雨林地方の大規模な森林破壊の片棒を担いでいると、国際的な批判はとどまるところを知らないが、目と鼻の先のシベリアでも、経済大国、先進国としての日本が、森林乱伐を後押ししている。
シベリアは言うまでもなく東の大国ロシアの一部であるが、
ヨーロッパ圏に首都を構え、白人中心で国を運営している政府は、極東の不毛の地などに関心はないらしい。
これらの話しはみな、私の憶測ではなくてイルクーツク大学の教授や研究者が語ってくれたことだ。
森林管理官が倫理観が働くだけのまともな給料をもらうことができれば、
シベリアの地に製材所があり、地元の人が職を得て、木材輸出で地元の経済が多少でも潤う方向に改善されれば、
森林資源の持続可能な利用という概念に目を向ける余裕が、少しは出てくるのかもししれない。