ホタル舞う夜の空 -16ページ目

モネの睡蓮

これだけ、世界中に同じタイトルの絵がいくつもあるシリーズというのもあまり無いのではないだろうか?
なんと250点もあるそうだ。

私が今まで出会った「睡蓮」達の中で忘れられないのは、
スイスのバーゼル郊外にある私立美術館、バイエラー財団美術館にある1点だ。

美術商であるバイエラー氏個人のコレクションを、財団化して美術館として一般に公開している。

モネの巨大な睡蓮の絵を飾るために、特に入念に設計されたという展示室。

奥は一面ガラス張りで自然光が差し込む。
そのガラス面に直角な片側の壁一杯に、睡蓮が飾られている。

絵からガラスへと目を移すと、外側には美術館の庭園が見える。
そして建物際には水面がしつらえてあるという懲りよう。

この絵を飾るために完璧なまでに周到に用意された展示室。

展示スペースはゆったりしていて、
見る者は時間が過ぎるのも忘れて絵の世界に沈み込み、
モネの庭園に吹く柔らかな風の香りを感じることができる。



海遊♪さんのブログにも、モネの睡蓮に関する記事があります!

乱(1985年)

東宝
監督:黒澤 明
出演:仲代達矢、寺尾 聰、根津甚八、隆 大介、原田美枝子、ピーター

穏やかな美しい春の日。

若い頃は情け容赦なく諸国を打ち破り、戦国の世を生き抜いてきた猛将が、突然、隣国の将や3人の息子を前に、引退宣言をするところから物語ははじまる。

偉大な父を尊敬し、どこまでも忠実であるように見えた息子達が、一転して権力をめぐって闘争をはじめる。

ただのボケた老いぼれと成り果てたかつての猛将は、ボロキレのような姿をさらして、荒地をさまよい歩く。

黒澤明の作品を観るのは、7人の侍に続いて2つ目だ。

始まった瞬間、お決まりのように、賢く身の程を知る者が勝つ、というパターンかと思いながら観ていったが、これは違った。

かっこよくない。いわゆるヒーローモノとは違う。
、、、救いがない。

そこが、良かった。

しかし、「7人の侍」の方が、後味が良いと思う。

見終わったとき、『諸行無常』という言葉が、頭の中にはっきりと刻まれた気がした。

原田美枝子の狂気の演技が利いている。
周りに踊らされ、目の前のことに夢中になって、おちていく男たちよりもよほど見応えがある。

女は強かで怖い。


黒澤明の作品は、ドイツでも人気がある。
「7人の侍」は特に有名だ。
私はこっちに来るまで観たことなかったので、驚いた。

ドイツ人と犬

散歩していて、見かけた看板。

ある家の門に貼ってあった。





要注意!

彼の機嫌が悪いこともある!

敷地に立ち入るときは、自己責任で!

もしも豪華客船が沈没したら?

様々な国民性を比較するギャグがある。

これももうずいぶん前に、確かドイツ人から聞いた話なんだけど、ディテールはあんまり覚えてないので、適当にアレンジする。

ドイツ人、アメリカ人、イギリス人、日本人などの大勢の老若男女が豪華客船で旅をしていた。
タイタニックではないが、航行中のミスで船に致命的な損害が出て、航行の続行は不可能、しかもあと1時間ほどで船が沈むという事態が起こった。
しかし、なんということか、船には救命ボートが乗客全員分積載されていなかった。

船長をはじめとするクルーは、頭を抱えた。
とにかく、まず女性と子供を救命ボートに誘導することにする。
多くの男性にはあきらめて海にでも飛び込んでもらうしかないが、パニックになるのはなんとしても避けたい。

・・・・・・・・・ さて、どうしよう? ・・・・・・・・・

ドイツ人には、船の損失状況や救命ボートの装備、乗客の数などを、それぞれの責任者がいちいちデータを出して数字を見せて説明し、最終的には自分達でディスカッションさせる。

イギリス人には、「ジェントルメン、ここは我々の子供達や女性たちに将来を託し、我々男性は潔く海へ飛び込もうじゃないか」と、静かに礼儀正しく語りかける。

アメリカ人には、「GUYS!偉大なアメリカ合衆国の男たちよ!女や子供達を守るために、俺達はヒーローになるんだ!君達の遺志は、君達のジュニア達がきっと継いでくれる!!」と、英雄気分を盛り上げる。

そして最後に日本人には、
固まって状況を見守っている グループの後ろへ近づき、そのうちの一人に、
「あっちでは、みなさん、もう飛び込んだらしいですよ」
と小さな声で耳打ちする。

イタリア人のギャグ

NHKのイタリア語講座で一躍有名人になったジローラモさんが書いた本に書かれていたギャグ。
読んだのはもう6年以上も昔なので、詳細はあんまり覚えていない。
ので、適当にアレンジするが、大体こんな内容だった。


世界大戦真っ只中、イタリア人とドイツ人の兵士がアメリカ軍に捕虜として捕まった。

椅子に座らされ、後ろ手に縛られて、アメリカ軍の兵士から作戦について厳しい取調べを受けた。

さて、最後まで口を割らなかったのは、イタリア人か、ドイツ人か?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

答えはイタリア人。

しゃべり好きなはずのイタリア人がなぜ??

理由は、『手を縛られていて動かせなかったのでしゃべれなかった』
曰く、イタリア人は手を動かさないとしゃべれないそうである。



ジローラモさんの一番お気に入りのギャグなんだそうだけど、
奥様(日本人)のお友達相手にこれをやると、
みんな意味が分かんなくて引いちゃうから、絶対やめてって奥様に止められていると、語られていた。



ジローラモさん、
私、コレかなり好きです。すっごく笑いました。


追記:pinoさんの「イタリア人 ~手~」 を読んで納得!

労働者を大切にする国

今日の午後、
大学の外国人局と、市役所に行く用事があったので、ついでに大学図書館に返却しなければならない本を何冊も持って行った。

うちの研究室は街の中心から少し離れたところにあるので、
誰かが街に行く時は同僚に「街に行くよ、なんか用がある?」と声を掛け合うくらいなのだ。
実際はそこまで大変では無いんだけど、みんな、用が無ければ人であふれる街には行きたがらない。

外国人局での用事はあっという間に済んだ。

『ちょっと遠回りだけど、役所とは反対の方向にある大学図書館に先に行って、本を返却していこう。
そうすれば後は手ぶらだから』

そう思って、大学図書館まで行き、ドアに体当たりする。

ドイツのドアってすごく重いのだ。
日本に居る時のように腕だけで開けようとすると、ドアの重みで押し返されて、ドアに挟まってしまったりする。

冗談ではない。
何度恥ずかしい思いをしたことか。

だから私は、ドアを開けるとき、腕と足を同時にドアにつけて体重を掛けてエイヤッと開ける。

今日も、いつものように満身の力をこめて体当たり。

ぬっ??

なんと、今日はドアがびくともしない。

『おかしーなー』

と、思いつつ再度挑戦するも虚しく、ドアはうんともすんとも言わない。

そこでようやくドアに張られた張り紙に気付いた。

今日は職員遠足のため、大学図書館は一日閉館です

日本の図書館のような、休館時の返却口なんてモノは存在しない。
結局持ってきた本をそのまま持ったまま、街のあっちの端からこっちの端へ、そしてまた別の端へとウロウロする羽目になってしまった。


大学図書館ってとっても大きな組織だから、他の部署の人と知り合ったり話をする機会って大切だと思う。
だから職員揃ってたまに遠出するのは、就業環境の向上や職員間のコミュニケーションを促進する上でとっても良いことだし、私も賛成。

毎晩は10時まで、多くのドイツ人の常識を破り土曜日でさえ6時まで開いている、学生の強い味方、大学図書館。
私もマスターコースに所属していた頃はずいぶんお世話になった。
毎日信じられないほどたくさんの利用者があって、働いている皆さんもさぞかしストレスがたまることだろう。
忙しい学期がようやく終わって、一息つきたい、それはよく分かる。

うちの研究室も1学期に1回、みんなで遠足に行くしね。

でも、今日は週のド真中、水曜日!

遠足なんて、土曜日に行け(怒)

笑うのさえ忘れてしまった

先日のDB(どいちぇ・ばーん、ドイツ鉄道)の話で思い出したので、今日もまた、公共交通ネタを。

私は普段、自転車や路面電車で移動するため、
バスに乗ることはあまり無い。
バスに乗るとしたら、郊外にある大型ショッピングセンターやメッセ会場に行く時くらいだ。

ある日、私はバスでIKEAに向かっていた。

街の中心地に程近い交差点に差し掛かり、真中を少し過ぎたところで、バスが停止した。

片側2車線で中央分離帯もある道路と、駅前を通るこれまた片側2車線の道路との交差点だ。

くどいようだが、
バスは街の中でも数少ない大きな交差点に入り、半分以上渡り終わって、頭の先が反対側の道に入りかかったところで停車した。

最初は、前の道路が渋滞でつかえているのかと思った。
しかしバスはなかなか発車しない。

そのうち、運転手が後ろに向かって何か怒鳴った。

私にはそれが何だか聞き取れなかったが、
私よりも後ろに座っていた他の乗客が、何やら怒鳴り返した。

するといきなり、バスがバックし始めた!

なんと運転手、曲がるべき交差点を間違えてまっすぐ進入してしまった。

交差点の真中を過ぎたくらいでそれに気付き、交差点をバックで戻っている

しかも、乗客の一人に後ろを見るように頼み、誘導してもらって、、、。

ちなみにこのバス、東京で走っているような普通サイズのバスではない。
2台が蛇腹で連結されている、2両編成の長ーいバスなのだ。

日本では、専門の誘導員(バスガイドや車掌)が外に出て誘導しない限り、大型バスはバックしてはいけないことになっている。
・・・日本では。

ましてやここは交差点だ。
普通自動車だって、交差点でバックしてはいけないはず。
少なくとも日本では、、、。

あまりのことに呆気に取られ声も出せない私を尻目に、
バスの運ちゃんは無事にバスが曲がれるところまでバックし、何事も無かったかのように交差点を曲がって走りつづけたのだった。

昼下がりで、交通量が少なく、クラクションを鳴らして抗議するような他の車が無かったことは、運が良かったとしか言いようがない。

ドイツ人は几帳面で真面目で時間に正確で、決められたルールはきちんと守る。だから日本人と似ている、なんて、一体誰が言い出したことなんだろう。
私の印象では、ドイツ人はやっぱりヨーロッパ人。
そりゃあ、フランス人やイタリア人やスペイン人から見れば、日本人に近いのかもしれないが、
所詮は、ラテン系民族と比較するとすれば、ということに過ぎない。

笑って許してあげよう、1度なら

lottaさん の「ふざけないでくさいっ! 」と、「Sorryの話の続き
どっちもドイツらしくってとっても面白かったので、TBです。


私は小さな街に住んでいるので、日常的に利用する公共交通手段は路面電車とバスくらいだ。
そして貧乏人なので、どいちぇ・ばーん(ドイツ鉄道、DB)のお世話になることは、滅多に無い。

そんな私が、遠い遠い北の町で行われるセミナーに参加すべく、
頑張って早起きして、8時5分前発のICE*に乗り込んだ。

*ICEとは、日本でいう新幹線のような存在でしょうか。しかしほとんどの区間で在来線と線路を共有しているため、スピードは遅いし、時間に正確でもありません。当たり前のように遅れます。そのくせ、乗車賃は新幹線並に高いです。


そのICEが、なんと、次の停車駅を通り過ぎちゃった・・・。

早起きは三文の得♪

いつもならボォーッと乗っていて気付かなかったかもしれない。
たまたま、座席予約を取っていたのとは違う車両に乗ってしまい、
さらに途中でICEが頭同士で接続されていたため行き来ができず、次の駅で車両を移ろうと待っていたのだ。

私のすぐ脇には、前方に接続されている列車を検札し終わって、同じく後方の列車に乗り移ろうと待っていた車掌が居た。

私は一瞬、何が起こったのか理解できず、

『あぁ、この駅は通過するのか、、、ん?でも車掌さんがこの駅で乗り換えろって言ったよなぁ・・・』

なんて、のん気に考えていると、
その駅で降りなければならない女性客が、私の横でまず声を上げた。

「ちょっと、私この駅で降りなきゃいけないのに、一体どうしたの?」

車掌さんは苦笑いをして答える。

「停車するの、忘れたみたいですね」

「・・・それで、、、どうなるわけ?」

「戻らなきゃいけませんね。

でもね、、、ICEは通常バックできないんですよ。

だから、

運転手がまず気動車のエンジンを止めて、
外に出て、ICEの一番後ろまで行って
エンジンを掛けて、
逆方向に発車させなければならないかもしれません。

と言っても、駅のホームだって、ただ開いてるわけじゃないから、そっちの調整もしなくちゃいけないし・・・、

ちょっと時間が掛かると思います

運転ミスをしたのはこの車掌ではなく、運転手だから、彼の口から『申し訳ありません』の言葉が出ないことは、言うまでも無い。

しかしこの時は、怒るよりも、あまりのことに呆気に取られていた。

しばらくして、

駅を通過してしまいました。戻りますので少々お待ちください」 ←やっぱり謝ってない

という
運転手からのアナウンスが入ると、車内から笑いが起こり、手を叩いて面白がる人も多かった。

多くの人がこの状況を楽しんでいた

話好きのドイツ人は、こうして飛び切りの話題、それも他人のマヌケな失敗話が転がり込んでくると、手放しで大喜びする習性がある。

という私も大喜びで、いつ運転手が窓の外を通りかかるかと、期待でワクワクしながら待ち受けていた。

周囲の人々と

こんなこと初めて経験した

と、口々に言い合っていたら、

それを聞きつけた車掌さんがボソッと

「そうですか、何回かありますけどね・・・」


何度もそんな目にあったら、ムカつくかも。


しっかりしろ、DB!
ただでさえ料金がバカ高い上に、遅れることが多すぎるせいで、不信感が高まっているんだから。


さてさて、実際には、車掌さんが心配していたよりもICEは臨機応変で、
運転手はジョギングする情けない姿をさらすこともなく、無事バックで駅構内に戻っていったのだった。
そして15分程度の遅れで、通常の運行に戻った。新幹線が数分遅れてもニュースになるような日本とは大違いで、列車が時刻表どおりに動くと喜ばれる国だ。

みんなに笑われながら、長ったらしいICEの脇を、延々ととジョギングする運転手の姿を、見てみたかったような気もするけど、それじゃあまりにかわいそうか、、、。


追記
しかしそんなドイツ人がよく言うのが、
「でも、イギリスよりはもっとヒドイ!」
である。
さて、判定は?
pinoさんの記事、「欧州の鉄道事情」

「うて」 と 「うーて」

pinoさんの『カタカナ、英語表記の無理』 を読んで、私にも身に覚えが・・・。

ドイツ語の発音は、日本人にとって基本的にあまり難しくない。
ローマ字読みそのままで結構いけるからだ。

語学学校に長く居なかったため、文法の正確な説明はできないが、
単語のはじめの方に入っている母音は長く伸ばすというルールがある。
これを無視してしまうために、せっかく正しい単語を使っているにも関わらず通じない、という事態が起こる。

例えば
Theaterという単語。
ドイツ語を知らない人でも、多くの日本人は「シアター」という英単語で知っている。

しかし、これをそのままドイツ語の読みに直して「あたー」と発音しても、理解してもらえない。
aにアクセントをおいて、「てあーたー」となる。

音が長くなるhが入っていれば問題なく読めるが、母音だけの場合は慣れるまでは気付かないものだ。

絶対に正しいと思っている単語が通じないと、結構あせる。
簡単な単語であればあるほど、言い換えて説明するのも難しく、舞い上がってしどろもどろになってしまう。


ドイツに来たばかりの頃、数日間一人で観光したことがあった。
新しい町について、ガイドブックを頼りにホテルを探していた時のこと。

ホテルの住所は「Habsburger Strasse」

『かの有名なハプスブルグ家の通りかぁ』

と、ちょっとウキウキしながら地図上で通りを探す。
しかし、いくら地図で見ても見つからない。

すると、通りがかりの親切な男性が英語で声を掛けてくれた。
たどたどしいドイツ語で、その通りの場所を質問する。

「『はぶすぶるがー・しゅとらっせ』を探してるんです。」

「へ?何だって?」

「・・・はぷすぶるがー・しゅとらっせ・・・」

「???知らないなあ・・・ アルファベットのつづりは?」

なぜそんな有名そうな名前の通りが知られていないのか?
ガイドブックに、この街に実在しない通りの名前が載っているのか?
もしかして私は全然違う街に来てとんちんかんにホテルを探しているのか?

今から考えればまったく下らないが、言葉が満足にできない上に、頼る友達もいなくて、たった一人で新しい町に来た私は、自分で認識しているよりも、ずっと凹みやすくなっていた。

何が起こっているのか理解できずに、
呆然としながら、印刷されている住所を見せる私。

・・・・・・・・・。

「あぁ、はーぷすぶるがー・しゅとらーっせ!!」

Gott sei Dank!ありがたや(小学館「独和大辞典」より)


こんな思い出ならいくらでもある。


友達にUteという女性が居た。

別の友達と話をしている途中で、彼女のことを思い出して話し出した私、
「あ、そう言えば、うてがね、」

「・・・ うてって何?」

(何?じゃなくて、せめて誰?って聞いて欲しい、、、)

「『うて』だよ、うて、ほら君のすごく仲いい友達の女の子!」

「へ?うて・・・??
何それ・・・
知らない・・・・・・
名前?友達?
・・・女の子?

・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・

・・・・・・ あぁぁぁ、うーて!なんだー。

(爆笑)

で、彼女が何?」


相手が外国人だということを百も承知の上で、
少々発音が違うくらいで何でわかんないかな?とよく思った。

短い『う』と長い『うー』を違う音(違うつづり)として認識する人たち。
発音が違うとまったく違う単語として認識されてしまう、
というか、そんな単語は聞いたことが無いと言われてしまう(笑

しかし、よくよく考えてみると、外国人に「とよーたー」と言われて、
「へ?・・・・・・ あぁ、とよた、ね」
と返事をする自分が居た。

神と信仰と教会と

ルームメイトのDの地元の知り合いの話だ。

彼女はカトリック教会の幼稚園の先生。
結婚し、二人の小さな娘がいる。
小さな谷の奥の方の丘の上に一軒家を持ち、子供達を伸び伸びと育てている。

その彼女のパートナーが、病気になった。

神経系の病気で、完治することは無い病気。
発病や進行には大きな個人差があり、この先どうなるか、まったく予想ができない。
彼女のパートナーは、発病から数年で自分では満足に動くことさえできない状態になってしまった。

子供達の世話、パートナーの介護、家事から家計まで、文字通り家族の生活すべてが彼女の肩に掛かっている。
パートナーの健康保険だけではとてもすべてをまかないきれない。

これまでハーフタイムで働いていた仕事をフルタイムに変えてもらうように掛け合った。
彼女の学歴や経験から、フルタイムの仕事とは、幼稚園の園長のポジションになる。

しかし、ここで幼稚園側から待ったが掛かった。

彼女のパートナーは一度離婚をしており、彼女とは再婚だった。

カトリック教会では結婚とは神との間に結ばれる神聖な契約であり、離婚は許されない。
だから彼らは、教会での結婚式をあきらめ、役所での結婚式しか挙げていない。

そして今、『離婚経験者であるパートナーと(教会式で無いとはいえ)結婚し、生活を共にしている彼女は、園長にはなれない』 というのだ。

さらに、『現在のパートナーと離婚すれば、園長職に就ける。彼女自身は教会式に結婚していないから未婚とみなされ、問題ない』 と追い討ちが掛かる。

幸せな家庭を築いたところへ襲った、パートナーの発病、不治の病という困難な状況を抱えて、
それでも家庭を守りきろうと精一杯立ち向かっていこうとする人間に対し、
フルタイムの仕事が欲しいなら離婚しなさいとは、一体なんという仕打ちだろうか?

信仰とはそもそも「神を信じて、教えを守り、正しく生きる」行為のはず。
神・信仰=教会でないのは、よく分かっているが、
これが、神の言葉を市民に伝える役目を担う教会の仕事なんだろうか?

大体において、神の子イエス・キリスト自身が、生涯独身でありながら(と言っても33歳までだけど)、マリア・マグダレーナという愛人が居たことで知られている。
さらに、彼の愛人は名前は知られていないけどその他にも複数居たということが伝えられている。
にもかかわらず、『離婚は神に背くから禁止』だなんて、言い残したとは思えない。
キリストのように、神との契約を結ばないパートナーシップなら、複数でも居たって構わないって言うのか?

この当事者の彼女自身は、この小さな谷にある(閉鎖的な)小さな村に生まれ育った、敬虔なカトリック信者である。

この村には他に幼稚園はなく、彼女が他の幼稚園に職を求めるとすれば、少し離れた都会まで出なければならない。
彼女が毎日長時間掛けて通うか、家族みんなで引越しするか、だ。

他の職を探すにしても、失業率が年々高まっているドイツで、家族を養っていけるだけの職が地元に見つかるとは考えられない。

自分が生まれ育った村の、豊かな自然の中で子育てをしている彼女には、都会へと引っ越すと言う考えはない。
かといって、毎日長時間を通勤に当てるのは、物理的に無理である。

八方塞で彼女は決心した。

『この閉鎖的な村で良い結果が出るとは思えないけど、公の場に持ちこもう、
どうせダメなら、やれるところまで戦ってやろう』