守覚法親王 過ぎぬとも【後編】 | わたる風よりにほふマルボロ

わたる風よりにほふマルボロ

美しい和歌に触れていただきたく。

*:..。o○ ○o。..:*

梶間和歌プロフィール小説

 

歌集『生殖の海』


歌をやり取りする

facebookグループ

 

オンライン講座「歌塾」

*:..。o○ ○o。..:*

new現代短歌新聞2021年4月号

作品掲載new

 

newnote企画

「源氏で紡ぐ和歌便り」

2021年4月分掲載new

*:..。o○ ○o。..:*

 

 

聞郭公(ほととぎすをきく)といふことを

 

過ぎぬともこゑのにほひは猶とめよほととぎすなくやどのたち花

 

守覚法親王

玉葉和歌集夏371

 

 

訳や語釈、これまでの解説は
昨日の記事をお読みくださいね。

 

 

 

守覚法親王は式子内親王の

1歳下の同母弟。

 

亡くなったのも

式子の没年の翌年なので、

享年も式子と同じ

数えの五十三歳です。

 

生没年ともに1年違い、

同時代人も同時代人ですね。

 

 

日本史の授業でお馴染みの

以仁王は、

式子の2歳、守覚の1歳下の

同母弟です。

 

彼らの母である

藤原成子(しげこ/せいし)

後白河天皇の即位前(雅仁親王)

彼がのちのち即位するであろう

などと誰も思わなかった時期に

雅仁の5人の子女を

年子で産んでいます。

 

 

夫婦関係が良いから子が多い

とは必ずしも言えませんが、

不妊治療などない時代、

する事をある程度するから

その結果として

子が産まれるわけで、

 

年子で5人も子をもうけた

夫婦仲は睦まじかった

と捉えるのが自然でしょうね。

 

 

 

以前は休子内親王も

成子所生とされてきましたが、

 

史料研究の結果

それは否定され、

成子所生は守覚ら5人である

というのが現在の定説。

 

 

休子の誕生は

雅仁親王の予想外の即位の

あとなので、

 

もし休子が成子の子であれば

雅仁の即位後も成子が

雅仁の寵を受け続けていた

可能性を示すのですが、

 

現実にはそうとは言えなそう。

 

 

休子の母が

成子以外であることは、

ふたりの関係が切れたことの

証明にはなりませんが、

 

“ふたりの関係が

それまでどおり続いたこと”は

少なくとも証明されない

 

ということにはなります。

 

 

雅仁親王が即位した時、一歳年上の成子は三十歳になっていた。

(略)

思いがけなく即位し、新しい一歩を踏み出した後白河天皇は、

年上の龍潜時代の古女房とは関係を改め、新しく后を迎えて、天皇としての後宮を整えようとしたのであろう。

 

 

 

 

守覚について詳しく語られた

図書ではありませんが、

 

上記、奥野陽子氏の

『式子内親王』には

 

両親から

式子やその同母姉弟に

引き継がれた個性などを

解説する箇所があります。

 

表れ方は異なりますが、

近しい個性をそれぞれ持ち

それぞれの立場で発揮した

姉弟だったのだと察せられます。

 

 

和歌の道に足跡を残したのは

式子と守覚のふたり。

 

両親が和歌に堪能で

その才が子に引き継がれた

というよりは、

 

例えば父の

果たし遂げんと欲する事あらば、敢て人の制法に拘らず、必ず之れを遂ぐ(玉葉 寿永三年三月十六日条)

といった資質が子のうちの2名に

少なくとも引き継がれ、

和歌という分野において表れた、

 

という穏やかな解釈が

成り立つようですね。

 

 

この記事の【前編】

 

 

過ぎぬともこゑのにほひは猶とめよほととぎすなくやどのたち花

 

 

*:..。o○ ○o。..:*

 

いまの水準、いま以上の水準で

和歌活動を続けるための

ご寄付を募っております。

 

あくまでご無理のない範囲で、

ご検討よろしくお願いいたします。

*:..。o○ ○o。..:*

 

 

 

和歌・短歌みくじとして遊べる

LINE公式アカウント

友だち追加

 

梶間和歌の作品の掲載された

「現代短歌新聞」2021年4月号

 

梶間和歌の評論の掲載された

『短歌往来』2020年4月号

 

「現代短歌社賞」応募作8首抄

掲載された『現代短歌』

2020年1月号