守覚法親王 過ぎぬとも【前編】 | わたる風よりにほふマルボロ

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聞郭公(ほととぎすをきく)といふことを

 

過ぎぬともこゑのにほひは猶とめよほととぎすなくやどのたち花

 

守覚法親王

玉葉和歌集夏371

 

 

 

【現代語訳】

 

あれが

過ぎ去ってしまったとしても、

その声のにおい、名残だけは

変わらずここにとどめておけよ、

ほととぎすの鳴く庭の橘よ。

あれの鳴いた時に

ともに漂っていた

お前のにおいが、その記憶の

よすがとなるのだから。

 

(訳:梶間和歌)

 

 

【本歌、参考歌、本説、語釈】

 

過ぎぬとも:

 過ぎて行ってしまったとしても。

 「ぬ」は完了、確述の助動詞、

 「とも」は逆接の仮定条件。

 

猶:変わらず、なお

 

にほひ:美しさ、余情

 

宿:家、または庭

 

ほととぎす:

 その声が称美の対象であり、

 また境を越えて行き来する鳥

 という概念もあり、

 恋の対象によそえて

 和歌で用いられることも多い。

 

たち花:昔の恋や昔のことを

 思い出すよすが。

さつきまつ花橘のかをかげば昔の人の袖のかぞする

詠み人知らず 古今和歌集夏139

 

 

 

『守覚法親王集』34、

「郭公」題で2首詠まれたうちの

最初の歌です。

 

 

とはいえ、この歌での

呼び掛け、命令の対象は

「たち花」。

 

歌の心としては

これでよいのかな?

 

「ほととぎすを詠むべき題なのに

 橘に呼び掛けている、

 題の心から外れている」

なんて評はなされないのかしら。

 

橘をよすがとして思い起こす

対象が

ほかならぬほととぎすなので、

これでよいのでしょうか。

 

 

題の心などを考えず

この歌自体を読むならば、

余情の広がる美しい歌ですよね。

 

三句切れの優しい呼び掛け、

結句の穏やかな体言止め。

 

 

 

守覚法親王は式子内親王の

1歳下の同母弟。

 

実は、亡くなったのも

式子の没年の翌年なので、

享年も式子と同じ

数えの五十三歳です。

 

生没年ともに1年違い、

同時代人も同時代人ですね。

 

 

日本史の授業でお馴染みの

以仁王は、

式子の2歳、守覚の1歳下の

同母弟です。

 

 

そんなに長い記事では

ありませんが、

続きは明日にします。

 

 

過ぎぬともこゑのにほひは猶とめよほととぎすなくやどのたち花

 

 

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