わざわざ書いた記事を検索する気にもなれないので、『以前』としか言い様が無いが、煙草について書いた。
当時の日本はタスポカードが導入されるタイミングだった。
併せて値上げの話も浮上したもんで、ヘビースモーカーな四十郎としては正直苛々しっ放しだった。
今と変わらぬ、そんな感情の赴くままに駄文を更新した記憶がある。

その時から政権は交代したが、未だ世論は愛煙者を煙たがる方向で暴走し出している。

あの当時の国家元首はチンパンジーによく似た人間だったが、原猿のアイアイかメガネザル辺りに背広を着せて並べばどちらが人間か判別に苦しむような、そんな今の国家元首様もわが国民の健康を第一義に訴えて、故にというか案の定というか、煙草の増税にかなり積極的らしい。

タスポカードは公言通り作っていない為、ニコチンが切れたら四十郎はコンビニを利用している。
銀が3枚、銅が2枚。或いは銅貨だけ32枚。
お釣要らずで店とレジに優しいお買い物運動は日々実践されている。
英世、もしくは漱石を出す時には、銅貨2枚をさり気なく用意する心配りも忘れちゃいない。
だが、近々硬貨は無用になるかもしれない。
煙草一箱に付き、英世か漱石が必ず一人は必要になるような規模で、国は値上げを目論んでいるらしい。
特にデフォルトの一箱20本に変化はない。
例の如く価格だけを安易に吊り上げるものだ。
高くて買えずに困る位なら吸いなさんなと、禁煙の機会を国家主導でくださるわけだ。

ほぼ強制的に。

煙草を止めると健康になるし金まで貯まるという理屈は、喫煙者からグゥの音さえも奪う。

まぁ、いきなり英世というのはさすがに無いだろうし、500円位に落ち着かせる為の1000円アピールかもしれない。
何であれ値上げは恐らく避けられないようだ。
愛煙者の静かなる団結はよりいっそう強くなる代りに、悲壮な覚悟で紫煙から訣別する者も後を絶つまい。

煙草を止めればきっと健康になる。
健康になればきっと長生きできる。

そんな前向きな思い込みは本人の身体にとって、きっと良いことには違いない。
たとえ当人の経済的な事情こそが、禁煙のきっかけであったとしても。
英世であれ、漱石であれ、僅か半日も保たず煙に変えるのなら中々に覚悟がいる筈だ。
少なくとも四十郎にはそれはかなり厳しいし、本数を減らすなどとチマチマ未練たらしいことをするくらいなら、いっそ絶煙も辞さないだろうと少しは考えたりもする。

だが、それでよしんば身体が健康に近付いても、精神衛生上はどうなのだろうか。

見事に仕事を終えた達成感、見事に妻とのセックスをやり遂げたと言える満足感(最近は無いからこの辺では本数を節約出来てるなぁ)、見事に上手いラーメンを汁の一滴も残さず飲み干してお代を済ませた後の満腹感。
そんな見事な自分を完成させるツールとしてくゆらせてきた紫煙は、己に欠くべからざるアイテムだと思っていた。
ガムでは代替は効かないだろうし、飴玉でもきっと役不足だ。
不健康の塊のような紫煙だが、実は要所で心体のバランスを取っているのでは無かろうか。

それを捨てる事で得られる健康は、捨てない事で縮む寿命に果たして勝ると言えるのだろうか。

否と、断定的に言い切りたいものだが、煙草を吸う行為は単に習慣として染み付いただけのモノに過ぎない事を、スモーカーの誰もが知っている。

貧乏揺すりの変わりに、指が煙草を挟むだけのことだ。
咥える煙草が舐める飴玉になかなか変えられないのには、それほど大層な理由は無い。
ならばさっさと止めればいいのだが、元は国家が売っていた合法的麻薬との付き合いもかれこれ30年以上になるだけに、そう単純には踏み切れない。

『健康を損なう可能性があります』
だから『吸いすぎには注意しましょう』
箱の意匠に埋没したそれらの無意味な警告文は自粛への効果なぞ甚だ懐疑的だし、今も重度の中毒患者はそこかしこをうろついて辺り構わず毒煙りを撒き散らす。
ヤニだらけの歯を時折見せて談笑し、煙草の残り香を辺りにばら蒔く。
吸わない人間までも肺癌の危機にさらしながら、でも平然と紫煙を吐き出す我々は、実際迷惑極まりない存在なのだろう。
全く申し訳ないと口では如何様にもお詫びを述べるが、実際、屁とも思っちゃいない。
オツムが緩いのか神経が元より無いのか、四十郎を含めたスモーカーは、如何に詰られようとも、今もシャツの胸ポケットにお気に入りの煙草を忍ばせている。

多分、財布の中身が寂しくて、その泣けなしの漱石で飯か煙草かの二者択一を求められたとしても、きっと後者を選択為るのだろう。

中毒患者とはきっとそんなものだ。

20100303
■教育改革国民会議の議事要旨

ソース:首相官邸公式サイト
http://www.kantei.go.jp/jp/kyouiku/1bunkakai/dai4/1-4siryou1.html

・子どもを厳しく「飼い馴らす」必要があることを国民にアピールして覚悟してもらう
・家庭教育について対話できる土壌をつくるため、企業やテレビと協力して古来の諺などを呼びかける
・「ここで時代が変わった」「変わらないと日本が滅びる」というようなことをアナウンスし、ショック療法を行う
・名刺に信念を書くなど、大人一人一人が座右の銘、信念を明示する
・遠足でバスを使わせない、お寺で3~5時間座らせる等の「我慢の教育」をする
・地域の偉人の副読本を作成・配布する
・学校に畳の部屋を作る
・学校に教育機関としてのシンボルを設ける
・有害情報、玩具等へのNPOなどによるチェック、法令による規制
・バーチャル・リアリティは悪であるということをハッキリと言う
・団地、マンション等に「床の間」を作る
・警察OBを学校に常駐させる
・文部省、マスコミが1、2週間程度学校で過ごす
・教育基本法を改正を提起し、従来の惰性的気風を打ち破るための社会的ショック療法とする

<小学生>簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
<中学生>簡素な宿舎で約2週間共同生活を行い肉体労働をする
<高校生>満18歳で全ての国民に1年ないし2年間の奉仕活動を義務づける

〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜〜

これらは現実世界で、しかもリアルタイムに近い中で、それなりに地位も名誉もある方々が議論し、考え付いた事らしい。

教育改革というなかなか尤もらしい言葉で偽装されてはいるが、これが教育という言葉をあてがうに相応しいかどうか、地位も名誉も無い四十郎でも判断がつく。

この、それなりの方々が国民の税金をもらいながらしかめっ面して討論を重ねた末に思いついたものは、教育という言葉の意味とは全くリンクしていない。

この方々に残された日々は、恐らくはあまり多くはない。
だからこんな事を宣うのだという気はないが、まるで自分達が過ごした戦時中の「教育」を隠れ蓑にした洗脳の時代を懐かしみ其処に立ち返ろうとしているかのような諸々の提案は、それが真剣に論じられた結果だと言われるほどにゾっとする。
自由過ぎる現在を憂い、改めて不自由な時代に時間を戻す事で「自由」のありがたみを知れとでも云いたいのだろうか。

我が国の元首様もそうだが、ピントは合っているのだろうか?

こんな人達ばかりだから、我々はせめて自分や家族、手の届く範囲だけでも守りたいと願うし、そのためならなりふり構わず行動もする。
それが結果、他人を顧みないのだとワイドショーのコメンテーターに罵られようともだ。

目の前に焦点を合わせようとすればするほど、そうなるように思う。
その時、どこがボヤけるのかは言わずもがなというやつか。

ならば悲しいかな、我々もピントは合って無いのかもしれない。

20100507
リアルタイムで見ることは叶わなかったが、冬季オリンピックの目玉であろう女子のフィギュアスケートは、キム・ヨナ選手の圧倒的な力量の前に誰一人掠りもしなかったようだ。
国を背負っての参加だ。
そりゃあもう、どの選手にも計り知れない重圧があったろう。
誰もが金色のソレを焦がれるが、ソレは自らを掛ける人を選ぶ。
これが毎年開催されるイベントとかなら『来年こそは・・・、』とか言えるのだろうが、この雪辱を晴らすには今から更に4年の月日が必要になる。
個人的にはそんな舞台に出れただけでも大したもんだと思うのだが、何せ4年に一度のワールドワイドな祭典なのだ。
にわか愛国者も湧き出してくるのだろう。

ことフィギュアスケートに関しては、韓国を代表するキム・ヨナ選手と、日本を代表する浅田真央選手の二人が能力的にも突出しており世界は二人の演技とその結果に注目する。
その結果は、プレッシャーを克服して自分の持てる力を出し切った韓国代表の胸に金色のソレが誇らしげに飾られる事となった。
四十郎も日本人だけに我が国の代表を応援したいところだが、相手の方が尽く我が国の代表選手を上回っていたのだから、その現実は受け入れれば良いとも思う。
『悔しいです』と唇を噛み、涙を流した浅田選手を思えば、一体誰がそれ以上の何を言えるというのか。

だが、この結果に納得出来ないと、外野が騒いだ。
採点は不適当だとか、金で買ったメダルではないかと。
もっともらしい声だけを手当たり次第に寄せ集めて、声高にネットで騒ぎ立てた。
そんな中傷に韓国代表を送り出した人々も黙ってはいなかった。
仮に逆の立場なら日本人も同じように、湧き上がる非難の声に耐えたろうか。

果して韓国の愛国者は聞き捨てならない声に激昂し、結果、某巨大掲示板のサーバーダウンを意図的に仕立てる行為に及ぶ。
一種のサイバーテロではある。一向に某巨大掲示板には繋がらない時間が延々と続いている。

こうなるともうオリンピックがどうとかフィギュアスケートがどうとか言う話とはまるで無関係の下らない罵り合いにな成り下がったように思う。
実際、竹島は韓国の領土だとか対馬は俺らの領土だとか、例によって例の如き詰りあいが繰り広げられている。
結局そんな話がしたかったようにも思う。
ある意味、オリンピックの結果はダシでしかなかったような、そんな話だ。

彼等愛国者はこんな行為が、キム・ヨナ選手がその卓越した能力と精神力で勝ち得た世界最高の称号にさえ泥を塗る行為とは考えないのだろうか。
彼等にしてみれば自国の代表だからこそ、彼女を蔑む声には納得できよう筈もないといったところなんだろうか。

何であれ未だ、ちょっとだけ迷惑で、しかし殆どの人にはどうという事の無いテロ行為は続いているようだ。

知るほどにため息しか出ないような、下らない行いは、キム・ヨナ選手や、国を代表して参加した総ての選手をきっとウンザリさせる事だろう。
どちらも同じ程度なのだ。民度にまるで差は無い。
そもそも百分率を持ち出すまでも無く、『民度』という定規を当てて測る類いの話ではない。

バンクーバーでのオリンピックは幕を閉じたが、出来ればこの、社会とまるで無関係な処で繰り広げられる、永遠に勝ち負けの決まらない小競合いはこのまま続いて欲しいと思う。
少なくとも四十郎は困らないし、貴方にしても暇つぶしの一つが無くなる位の話で、生活に影響する事など無い筈だ。
デスクワークの合間に書き込んでいたと言うなら、生産性が高まる分、社会にとっては寧ろメリットの方が大きい。

何も生まない事にさえ気付かないままPCに張り付く、そんな人間ならどちらの国にとっても無要な部分であろうし。
精々両国の自薦代表者の方々には頑張って頂きたいものだ。

20100303
特にその人が間違ったことを言っている訳では勿論無いのだ。

道徳に基づく正論なのだが極論でもあり、それは『口喧嘩』で勝つ為だけの理屈のようにも思えるが間違いでは無い。

『そりゃあそうだろうけど、そこまで言うのもどうかなぁ?』

と言うのが、その人の発言に対する万人の感想なのでは無いだろうか。

四十郎が生理的に受け付けない顔とは、例えば『やく み◯る』っぽい顔の人とか、『やく み◯る』本人のような顔をお持ちの方になる。

それは帽子の有無は特に無関係で、あの目とか尖らせた口元とか、或いは鼻の作りとか顔形とか、要は全体的にダメなのだ。

幸いなことに仕事柄、あの人が出ているTV番組を見なくて済むし、あの人の描く漫画も記憶に残る類いのものではまるで無いだけに、日々の生活に不快な部分や支障を来すと言った事は無い。

ただ、あの顔を全く見なくて済んだり、あの口元から発する声を聞かなくても良いという状態が果てしなく永く続くかと言えばそうでも無い。

最近では朝青龍の電撃引退とか、国母選手の身だしなみ問題辺りで、あの人のコメントが採用され、記事の中にあの人の言葉が混じっていたりする。

酷く個人的なお願いをするなら、漫画家なら漫画で印象付けをされたら如何かと思う。
スポーツ新聞辺りで、いしいひさ◯ちの絵柄によく似た漫画で。
コメンテーターとしてカメラの前に立つ事も副職としてお持ちなのかもしれないが、ならば漫画家という肩書きで出張るのも如何なものかと思う。

国技としての相撲の頂点を極めた男としては、あまりにも品格が無いと言う仰りようは如何にも正しい。

国技であり勝負事でもある相撲の世界に身一つで遥々モンゴルから連れてこられ『朝青龍』の名を戴いた男は、御存知のように日本人ではない。

国技であり且つ勝ち負けが大事な世界でもある相撲で、日本人には持ち得ない身体能力を持ち、最高位を勝ち得た男には誰より勝ちに拘る気持ちが有ったし頂点に座す気概もかなり強かった。
だからこそあそこまで強くもなれたに違いない。

スポーツとして考えれば、それはすこぶる健全な事のように思えるんだが、どうだろうか。

正面から見て『強さ』が映るなら、背中に廻れば『不遜』や『傲岸』を見るものだ。

それが際立つ事を四十郎は悪いとは思わない。
そういうどこか危うい『強さ』が、勝負事で要求される『強さ』のように思えるからだ。
だが、分かりやすい勝ち負けを競うものであると同時に『品格』という分かりにくく曖昧なものも問われるのが、『国技』としての『相撲』らしい。

その競技に参加するのが日本人だけなら、『品格』を言われた時に何となく感覚的に分かるものなのかも知れない。
だが、『朝青龍』を名乗った彼が目指したのは恐らくはスポーツとしてのチャンピオンであり、それを角界では『YOKODUNA』と呼ぶもんだ位の認識だったのでは無いかと思う。

そのギャップが埋まるかと言えば、なかなか難しいようには思う。
『国技』を標榜したいのであれば、そもそも外からの人材を求めるべきではないだろう。
スポーツとしてチャンピオンシップを競うものであるなら、日本人の血に無闇に拘るものでは無いだろう。

その辺りは『自称漫画家』は特に言わない。
言っていたのかも知れないが印象には残されず、厳しい言葉だけにスポットが当てられているのかも知れない。
そういうキャラクターにされているのだろう。
あの顔と風貌ならこんなキャラクターであるべきだと言う制作者側の思惑もあるのかもしれない。

分かりやすいと言う事は、大衆に伝える上では大切な事だからだ。

喋るべきでは無い言葉は、予め編集でチェックされて喋らなかった事になっているのかも知れない。
国技であることに理解を示せと、異国から来た男にとっては無理難題に近い事を云う方が、求められるコメンテーターのキャラとして立つだろうし。

そんな分かりやすい事情はさておき。
四十郎は『朝青龍』が嫌いではない。
あのやんちゃだがどこか憎めない、人たらしな『顔』が良い。

電波に乗せるには些か『品』の無い眼つきをお持ちの、あの『自称漫画家』よりはナンボか好きだ。

20100220
最近はとんと見なくなったが、昔は阪急梅田の駅辺りに『彼ら』はいた。
『魂を清めます』とか言って手翳しを始める男女だ。
そんな彼らには明らかに異様なオーラが纏りついていた。
阪急梅田の中央出口から階段を降りた辺りというのは、待ち合わせに適したロケーションだけに常に結構な人混みだ。
老若男女が入り乱れている中に混ざる『彼ら』の周りには不思議とどす黒い空気が立ち込めていたように覚えている。
『彼ら』以外の誰の皮膚もがその面妖な気配を悟り、自らに警戒を促したものだ。
サクラと呼ぶのが適切な『誰か』の頭に手を翳し、ブツブツと何かを唱えたり、或いは無言のまま目を閉じて祈る。
世俗の垢に塗れた人々に張り付く『汚ならしい何か』を、翳す平手と唱える呪文で『清めて』頂いているらしい現場を、四十郎も何度か見た。
もう随分と昔むかしのお話だし、その報道を聞いて最近そういえば見なくなったと気が付いた。
『清め』るには不浄な魂が多すぎるのかと思っていたが、この手の宗教には『時代』は関係ないらしい。

この平成の日本で、『手を翳せば難病も治る』などと言われたなら、一般常識を持つ者はそれを信じるのだろうか。
我が子が病院に担ぎ込まれ、適切な治療を施さねば命の保証がないという極限下にあって実の両親がその申し出、適切な治療を却下したという。
両の親が陶酔する『神』の教えに、現代医学の施術内容が反するからだ。
親達は苦しむ我が子に、ただ手を『翳す』。
彼らにとってはその行為だけが子を救う『適切な治療』に他ならない。
幼いその手を握りしめるでもなく、喘ぐ我が子に向けてただ手を『翳す』事を選んだのだ。

当たり前の結末だが、子供は絶命した。

そして『適切な治療』を阻害した事で、両親は我が子を殺した咎を問われてもいるという。
見殺しにしたと誰もが思うこの行為だが、親にとっては唯一我が子を救う手段だったはずだ。
心のどこにも一点の曇りも無く、一心不乱に手を翳して内なる力だかなんだかで、我が子を死の淵から救い上げようとしたことには疑いがない。
それが余りに痛々しい。
我が子を虐待の末に殺してしまう親とは異なり、恐らくは子に向けて溢れんばかりの愛情が彼らにはあったはずだ。
歪な神を無条件に受け入れた結果なのか、自分の勝手な都合だけをごり押しする不届きさ故なのか、なるべくして幼い命は贄となった。

子を失った親達は、それでも祈ることを多分止めることは無いだろう。
むしろそれは以前にも増してより強くなる筈だ。
そうすることだけが、罪深き自らを救う手段なのだから。

そんな祈りを聞き届ける神なぞいないと分かって尚の話だろう。

20100209
ウチの長女はこの春、小学校に上がる。
長男と同じ小学校だ。
一緒に登校することになる日が迫ることを彼女はかなり楽しみなようだ。
だがその反面、3年の間通い続けた幼稚園から去る日も同時に近付くことを思い、寂しさは日増しに膨らむ。
夢の場合、叶う喜びは失う寂しさと等しく重い。
そんな道理の表と裏に小さな心を揺らす彼女を端から見ている今日この頃だ。

さて、彼女も早5歳になるのだが、去年の七夕に『将来の夢』というヤツを幼稚園で書いてきた。
その夢をこんな場で、しかも当人の許可もなく晒すのは申し訳ないが、あれこれ説明したところで5歳の幼児に解ろう筈も無い。

『アイドルになりたい』が、彼女の夢らしい。

ヒラヒラの服が着れるから?
いろんなお化粧をしてもらえるから?

その理由はこちらで勝手に推察するだけだが、とにもかくにも『アイドルになる夢』は彼女がその5年目の人生に想い描く未来の姿だ。

実際似たような夢を見る幼児なぞ掃いて棄てるほどに居ることだろう。
どうすれば夢は結実するのか。
どうすれば現実にアイドルになれるのか。

その具体的な方法を幼児である彼女らは知る由も無い。

そんな幼児を我が子に持つ親として自分はどんな助けを彼らにするべきかと考える方もいるかもしれない。

幼児趣味の歪な成人男子を挑発するために我が子を裸にし、その写真をネットを媒介に売りさばくという発想の起点は、単に今より『もっと金が要る』という大人の事情であって、子供の見る『夢』とはまるでどこもリンクはしていない。

親同士の付き合いには何かと金が要るという。
例えば連立って訪れるランチに、例えばささやかな自尊心を大袈裟に着飾り隠す為の流行りの服に、例えば親であることをぼやかす為にする厚化粧の品々に。

そこに子供が立ち入る隙間は無い。
むしろその存在は邪魔で価値の無いモノでしか無かったかも知れない。

メディアはそんな親を鬼畜と呼び、何も分からぬ幼い我が子を騙す行為を非難した。

だが実のところ恐らく子供も分かっていたのではないかと四十郎は思う。

自分は置き去りにされていると。

だがたとえそんな者が親でも、縋る以外に生きてはいけないのが子供なのだ。
だから自衛に目覚めた本能が命じるのだろう。
ならば彼らが望むように振る舞う必要があると。
そうしていれば自分も取り敢えずは安全を確保できると考えるのだろう。
性なぞ芽生えてはいないが、自分のさせられている事が不自然だとは分ったはずなのだ。
アイドルになる為だからと言われたところで、それと裸になって股を広げることとはまるで無関係だとも。
それらが分ったところで、親の命令に抗う理由も無いままに、親が構えるデジカメの前で肌を晒したのでは無いだろうか。
そうする事で僅かな小遣いを得た親が喜ぶことを知っている。
自分の好きなお菓子も買ってくれる。
真に受けた振りをする十分な理由が子供にもあったのだ。

これは事件として世間に知れた。
親同士の金の取り合いが拗れた事がその発端らしい。
捕まった親たちは、倫理を説かれ、反省もしているらしい。
自分達がした事がどういう事で、子供達の成長や未来に何をもたらすことになるのかを、平易な言葉で語られた事だろう。
親としての自覚も、その時初めて促されたのではないかと思う。
自分の立場を理解した親もいれば、理解した振りをしてその場を逃れようとした親も、いる事だろう。

そして彼女達の子供は学習する。

アイドルになる方法は分からなくても、手っ取り早く、好きなお菓子を買う方法はある事を。

20100207
最近はとんと見なくなったが、昔は阪急梅田の駅辺りに『彼ら』はいた。
『魂を清めます』とか言って手翳しを始める男女だ。
そんな彼らには明らかに異様なオーラが纏りついていた。
阪急梅田の中央出口から階段を降りた辺りというのは、待ち合わせに適したロケーションだけに常に結構な人混みだ。
老若男女が入り乱れている中に混ざる『彼ら』の周りには不思議とどす黒い空気が立ち込めていたように覚えている。
『彼ら』以外の誰の皮膚もがその面妖な気配を悟り、自らに警戒を促したものだ。
サクラと呼ぶのが適切な『誰か』の頭に手を翳し、ブツブツと何かを唱えたり、或いは無言のまま目を閉じて祈る。
世俗の垢に塗れた人々に張り付く『汚ならしい何か』を、翳す平手と唱える呪文で『清めて』頂いているらしい現場を、四十郎も何度か見た。
もう随分と昔むかしのお話だし、その報道を聞いて最近そういえば見なくなったと気が付いた。
『清め』るには不浄な魂が多すぎるのかと思っていたが、この手の宗教には『時代』は関係ないらしい。

この平成の日本で、『手を翳せば難病も治る』などと言われたなら、一般常識を持つ者はそれを信じるのだろうか。
我が子が病院に担ぎ込まれ、適切な治療を施さねば命の保証がないという極限下にあって実の両親がその申し出、適切な治療を却下したという。
両の親が陶酔する『神』の教えに、現代医学の施術内容が反するからだ。
親達は苦しむ我が子に、ただ手を『翳す』。
彼らにとってはその行為だけが子を救う『適切な治療』に他ならない。
幼いその手を握りしめるでもなく、喘ぐ我が子に向けてただ手を『翳す』事を選んだのだ。

当たり前の結末だが、子供は絶命した。

そして『適切な治療』を阻害した事で、両親は我が子を殺した咎を問われてもいるという。
見殺しにしたと誰もが思うこの行為だが、親にとっては唯一我が子を救う手段だったはずだ。
心のどこにも一点の曇りも無く、一心不乱に手を翳して内なる力だかなんだかで、我が子を死の淵から救い上げようとしたことには疑いがない。
それが余りに痛々しい。
我が子を虐待の末に殺してしまう親とは異なり、恐らくは子に向けて溢れんばかりの愛情が彼らにはあったはずだ。
歪な神を無条件に受け入れた結果なのか、自分の勝手な都合だけをごり押しする不届きさ故なのか、なるべくして幼い命は贄となった。

子を失った親達は、それでも祈ることを多分止めることは無いだろう。
むしろそれは以前にも増してより強くなる筈だ。
そうすることだけが、罪深き自らを救う手段なのだから。

20100209

そんな祈りを聞き届ける神なぞいないと分かって尚の話だろう。

杜若四十郎 時刻: 18:46



iPhoneからの投稿

新年、である。
身の回りの何が変わるという訳でもない事を、喜ぶべきか哀しむべきかで少しばかり複雑な感情を覚えるが、何を思おうと構わず時間は前へと進んだ。
2009年は、今始まっている。

四十郎はと言えば、昨年の予言通りに『ガキの使い』を流し見しながら、積んでいた模型にチマチマと手を入れている。
ヘタの横好きと自覚しながらも、ただ作る事だけに気持ちを向けつつダラダラと過ごす、この時間。
我ながら贅沢極まりない使い方が出来るこの時間というのは一年の内でもそれほど多くはない。
年が明けたとか新年だとかより、まとまった休みを過ごせる事だけがとにかく嬉しい。
年末年始なんざ、それでいいようにも思う。
誰にも少しは息抜く時間になるだろう。

せっかくの休みなんだから、とりあえずダラダラ過ごそうじゃないですか。

色んな事は昨日から持ち越したままなのだろうけど、持ち越すほどの事なら、今すぐどうにかなるもんでもなかろう。
ならば、構うこたぁないから、餅でもかっ喰らいながら、酒でもガブ呑みしながら、のんびりしようじゃないか。

休みは休むということが、四十郎の抱負だ。

多分この年の世間は、何一つとして収まりがつくことはない。
その次の年か、さらにその数年先までも、世間は何も好転はしないし、変化も無い。
だからと言って、今まで通りの仕事量で日々を過ごせるという事も無いだろう。
誰もが、去年以上を求められるハズだ。
気付く者は留まり、気付かない者は席を失う。
そんな年が、この先しばらくは続く筈だ。

時間の価値なり使い方なりに、力点が置かれる一年だ。
サラリーマンにとっては、労働基準監督署との闘いになるほどの労働量となろう(笑)。

だからこそ、休むときは休む。
それが出来るような時間と目標管理が大切って事になる。

堅苦しくなったが、まぁ、何であれ今は休みだ。

ダラダラしようじゃないか?

2009/01/01 18:45 au
『安くて量があって腹に溜まるなら、それは最善の選択である。』

などとは誰も云わないだろうが、『昼飯』を外食に求める人にとっては、たぶん重要な指針に成りうる言葉として、誰もが腹に納めているには違いない。

以前、メガマックという食品が店頭に並び、そこそこは売れたらしい。
恐らくは物珍しさが理由だったのだろう。
今でも店頭のメニューにあるのかどうかは存じ上げない。
メニューにあった頃でさえ、実のところ喰ったこともないが。

四十郎の個人的な嗜好を語るが、『マクドナルド』は殆ど不味い。
ただ油にまみれているため、そこそこは腹に溜まる。
溜まるのと腹持ちが良いのとは等号では結ばれないが、溜まるというのは個人的には重要なポイントではある。
それが昼食時なら尚更だ。
それによほどの空腹時なら、味を楽しむ余裕なぞ生まれるべくもない。
ただガッついて、腹に溜まればそれでいい。
それでいいのだが、それてもやはり『マクドナルド』は不味いのだ。
だからよほど選択肢が無い状況でなければレジ前に並ぼうとは思わない。
そんなマクドナルドが満を持して発売したのが『クオーターパウンダー』だ。
何とそれを目当てに1000人ものハンバーガーマニアが店頭に並んだらしい。
個人的によく知る大阪は中央区の東心斎橋あたり。周防町と呼ばれていた場所周辺である。
さして道幅も広くは無い場所に、1000人もが列を為すのだからよほどの期待度があったのだろう。
何でもとにかく肉がデッカいらしい。
美味いか不味いか以前に肉がデッカいらしいのだ。
空腹時に効果的なんじゃないかとは思う。
何といっても1000人が並ぶくらいのモノなのだ。
そのくらいデッカいんだ。
『マクド(関西風の呼称)』は概ね不味いと敬遠していた四十郎だが、1000人が食い求めるソレにはちょっと興味が湧いた。
ほんの一瞬、ではあったが。

実は、並んだ1000人様はマクドが用意したエキストラらしいことが、各報道で露見したのだ。

マクド側はその姑息極まりない工作を、悪びれもせずアンケートだと口にする。
派遣会社に金を払い、1000人ものエキストラを集めさせ、噂の『クォーターパウンダー』をご試食していただいたのだそうだ。
試食出来なければ、バレないようにして捨てることまで、指示は行き届いていたらしい。
アンケートと宣伝の二つを兼ね備えた見事にバカげた戦略である。
ならばデッカい肉が自慢の新商品のアンケートを取るからタダで喰えますよと、そう店頭で喚かせれば良いではないか。
1000人もが集まるかどうかは知らないが、ビッグカメラ前の交差点辺りで寝起きしているホームレスやらはやってきてくれる。
ナンパ橋で客引きをしているホストやスカウト。
ガールズバーの呼び込みをする彼女らも、或いは参加してくれるかもしれない。
寒風吹き荒ぶ中でも辛抱強く、列を為してくれるのではないか、何せタダなんだから。
救世軍の炊き出しみたいなもんだ。噂を聞きつけ、ホームレスなぞは仲間も続々集まってくれることだろう。
意外と的確に、デッカい肉の味も評してくれるのではないか。
リピーターにはたぶんなり得ないのがネックだろうが。
だから、敢えて時給1000円で派遣会社に人を集めさせたのだと、マクドナルドの広報部は言うかも知れない。
全国展開する巨大ファーストフードチェーンだけに、アンケートの規模も1000人くらいは必要なのかもしれない。
1000人程度のアンケートがどれほどの意味が、その大企業にとって有るのかは皆目見当が付かないが。

だが、サクラを雇って話題性を打ち出したかったのだろうと見られてもしょうがないような気もする。
アンケートそのものが、後付けの屁理屈と取られるような行為にも思える。
そもそも打ち出す新商品に自信があるならわざわざこんな偽装をするだろうか。
競合他社の商品より本当に美味いと胸を張れるなら、それは口伝てに広がったりするものじゃないのだろうか?
例えばロッテリアの絶品チーズバーガーなぞは、嘘偽り無く美味い。
美味い『らしい』と言う話を読んで興味本位で食いに行った。
正直誇大な表記だと、食す前から胡散臭く思っていたのが、二口も食うと疑念は吹き飛んだ。
些か値段は高いかもしれないが、あれは本当に美味い。
少なくとも四十郎には絶品だった。

話が逸れたが、
その店で懸命に働く者にとっては、今回のエキストラというのはどう映るんだろうか?
サクラを仕込まなければ売れないような商品を置いている店で働く気分とはどんなもんだろう?

ぜひ伺いたいものだ、何ならアンケートでもしようじゃないか?
それまでに嫌気の差した店員が随分居なくなるかも知れないが、1000人くらいは残るんじゃないだろうか?

2008/12/29 17:49 au

100年に1度の金融危機が、今まさに始まろうとしている。
今世紀が始まって早々に、いきなりクライマックスが来たわけだ。
これが映画なら、なかなか緊迫した冒頭であり、『掴み』も十分なんだろうが、これは現実でありフィクションではない。
とはいえ、第三次産業に属する四十郎などにはこの危機がまだピンと来ない。
先ずは製造業と、そこに従事する総ての労働力が、この『災害』を前に立ちすくんでいる。
この未曾有の事態を『災害』や『災禍』と語ると途端に抗い難いもののように思えるが、これは自然に起きたものでは無論無く、人が起こし、人によって拡大していく類のものだ。

こんな金融恐慌を、世界は一度体験している。

その時かの大国は『ニューディール』と後年名付けられた支援策を取った。
失業率70%の社会に対し雇用安定の為に、政府が自由主義経済に介入するのが、『国家再生』の鍵とされた。
歴史をなぞれば、この政策の後に世界規模での大戦が起きて、その戦争による軍需の増大がアメリカ経済復興のきっかけとなったわけだ。
21世紀の『新たな政策(ニューディール)』にも国家の経済介入は不可避なんだろうが、現時点では絵空事ばかりが与野党間で交わされ、国家元首は漢字も読めないときつるから(笑)、或いは政府が一番危機感が薄いのではと国民の『不安』は殊更に煽られるばかりだ。
そうやって打つべき手を打てずにいる間にも、路頭に迷う人間の数は各地で倍々に増えている。

先月発表された予測では来年3月までに職を失う派遣社員は国内で3万人に上るとなっていた。
意外と少ないな、というのがその数字に対する四十郎の第一印象だ。
だがよく考えるなら派遣社員だけで3万人なのだから、期間工や正規雇用も含めると実際その4倍くらいの就業人口が恐らく職を追われるか、職場そのものを失うのだろうと考えてみて空恐ろしくもなった。
それが先日、12月26日付けの朝日新聞夕刊に拠れば、派遣の首切り『3万人』は『8.4万人』に変わっている。
IBMやソニーといった外資系は無論だが、あのトヨタ自動車が売上不振を理由に大量の派遣や期間工を解雇したり工場を閉鎖した事で、競合他社も倣う理由を見出したことが、僅か1ヶ月で2倍以上という加速をつけたのだろう。
派遣だけでその数字だ。勿論それは全てではない。
失業率が公表レベルでさえ二桁のカウントを始めるのも、さして遠い未来では無いはずだ。

職を失う者の中で大半を占めるであろう『派遣社員』という立場の人々の去就も、連日ニュースでも取り上げられている。
既に自動車製造業とそこに関わる企業の大半が、予見される赤字の補填を派遣社員や期間工といった調整可能な人件費の大幅な削減に求めた。
年の瀬に何十万人もが路頭に迷うという現象は、耳目を集めるのに十分過ぎる話題だ。
予測されたこの冷徹にして、しかし分かりきった結果に対して、識者は国の無策を非難し憐れみの声を向けるが、『派遣社員』を選択した当事者の自己責任だとか、想像力が欠落しているからだと突き放す市井の声も当たり前のように聞こえてはくる。
派遣社員で構成されるユニオンは職場と住処の供給を声高に求めたり、経営者の資質を詰る。
確かに安易な首切りで生産調整を図る事は長い目で見れば得策ではないのかもしれないが、当面そうしなければ利益率を悪化させると解りきっているのだから、経営者としてまず為すべきことは人員整理にあると四十郎は思う。
融資あっての経営なのだから、目先の利益率の上下にこそ意識を集中させ最善の手を打つことは実に健全で真っ当な話だ。
それでもまだ遣り繰りする余裕はあるのだろうと、共産党党首様なぞは大企業を攻めるが、実際どこも程度の差こそあれ自転車操業に近いだろうし、よしんば余裕があったとしても、ならば尚更に不況下にあっても揺らがない企業体質を市場にアピールする為に、余分な肉は削ぎ落とす必要が在るはずだ。
それを詰るのはどうにも筋違いに、四十郎には思えてしまう。

失礼な物言いになるが、職を寄越せだの住処を与えろだの、挙げ句に経営者を無能呼ばわりするなど、切られた彼等は何故そんなにも悠長なのだろう。
事ここに至っても尚、何をするでもなく皆で群れて妬んで喚いているだけに見える。
デモをするだけで『何か』は好転すると、本当に思えてしまうのだろうか。
互いに慰めあいながら、個人的な問題の解決さえ赤の他人の財布(国民)に委ねるのか。
職も住処も、誰かに用意してもらわなくてはいけないものなのか。
明日への危機感が、本当にあるのなら選り好みするまでも無く、仲間を押しのけてでも仕事を探すべきではないのだろうか。

『派遣』という立場は雇う側からみると、利益に連動して或る程度の調整が可能な流動的経費というポジションに映る。
増産すべき時にはボリュームを上げればいいし、生産を抑止すべき事態が来れば極端な話全員を解雇しコストを0にすることも可能な、使い勝手の良い労働力。
生産拠点を絞るからと、トップダウンで発せられるその唐突な下知に抗うことが出来ない派遣会社と、そこに属する者達。
物を知らない四十郎には、派遣という立場は酷く不利なものに映る。
よくもそんな不自由なポジションに収まろうと思うものだとも、だ。
正社員の需要が減り、やむを得ず派遣社員に登録したという人も多いだろう。
個々にいろいろな理由はあろうが、雇う側にすればそんな理由は顧みる必要がない。
それが臨時に雇われ、ある期間が過ぎれば必ず『居なくなる者』の立場だ。
だからこそ、与えられる仕事はさしたる技術や経験などを必要としない、いつでも誰でもが取って変われる仕事となる。
その挙げ句に悠長に周りを妬み、来る日も炊き出しに並ぶというのか。
そんな明日さえ甘んじて受け入れてしまえるものか。
だからこそ、派遣という手段しか見いだせなかったのではないかと思えてならない。

それをゆとり教育の功罪だと、多分言い出す者もいるだろう。
その言いようは強ち的から離れてはいない気もする。

たぶん我々はこんなにも弱くも脆くもなったのだ。
生きるということに切実になれずにいたのだ。

正規雇用を競争と言うなら、そこからドロップアウトした彼等派遣社員は、これから新たに生存を賭けた『戦争』のスタートラインに立つ事になる。
同じ立場の者同士での戦争だ。
明日生き残る為に今度こそ、自分や他人と闘わなくてはいけないだろう。
この戦争からもドロップアウトするというなら、それは生きることそのものを放棄することに他ならない。
生きようとする誰の日々もが闘いだ。
だからこそ『明日』に値打ちもあるのだろう。

2008/12/27 22:55 au