わざわざ書いた記事を検索する気にもなれないので、『以前』としか言い様が無いが、煙草について書いた。
当時の日本はタスポカードが導入されるタイミングだった。
併せて値上げの話も浮上したもんで、ヘビースモーカーな四十郎としては正直苛々しっ放しだった。
今と変わらぬ、そんな感情の赴くままに駄文を更新した記憶がある。

その時から政権は交代したが、未だ世論は愛煙者を煙たがる方向で暴走し出している。

あの当時の国家元首はチンパンジーによく似た人間だったが、原猿のアイアイかメガネザル辺りに背広を着せて並べばどちらが人間か判別に苦しむような、そんな今の国家元首様もわが国民の健康を第一義に訴えて、故にというか案の定というか、煙草の増税にかなり積極的らしい。

タスポカードは公言通り作っていない為、ニコチンが切れたら四十郎はコンビニを利用している。
銀が3枚、銅が2枚。或いは銅貨だけ32枚。
お釣要らずで店とレジに優しいお買い物運動は日々実践されている。
英世、もしくは漱石を出す時には、銅貨2枚をさり気なく用意する心配りも忘れちゃいない。
だが、近々硬貨は無用になるかもしれない。
煙草一箱に付き、英世か漱石が必ず一人は必要になるような規模で、国は値上げを目論んでいるらしい。
特にデフォルトの一箱20本に変化はない。
例の如く価格だけを安易に吊り上げるものだ。
高くて買えずに困る位なら吸いなさんなと、禁煙の機会を国家主導でくださるわけだ。

ほぼ強制的に。

煙草を止めると健康になるし金まで貯まるという理屈は、喫煙者からグゥの音さえも奪う。

まぁ、いきなり英世というのはさすがに無いだろうし、500円位に落ち着かせる為の1000円アピールかもしれない。
何であれ値上げは恐らく避けられないようだ。
愛煙者の静かなる団結はよりいっそう強くなる代りに、悲壮な覚悟で紫煙から訣別する者も後を絶つまい。

煙草を止めればきっと健康になる。
健康になればきっと長生きできる。

そんな前向きな思い込みは本人の身体にとって、きっと良いことには違いない。
たとえ当人の経済的な事情こそが、禁煙のきっかけであったとしても。
英世であれ、漱石であれ、僅か半日も保たず煙に変えるのなら中々に覚悟がいる筈だ。
少なくとも四十郎にはそれはかなり厳しいし、本数を減らすなどとチマチマ未練たらしいことをするくらいなら、いっそ絶煙も辞さないだろうと少しは考えたりもする。

だが、それでよしんば身体が健康に近付いても、精神衛生上はどうなのだろうか。

見事に仕事を終えた達成感、見事に妻とのセックスをやり遂げたと言える満足感(最近は無いからこの辺では本数を節約出来てるなぁ)、見事に上手いラーメンを汁の一滴も残さず飲み干してお代を済ませた後の満腹感。
そんな見事な自分を完成させるツールとしてくゆらせてきた紫煙は、己に欠くべからざるアイテムだと思っていた。
ガムでは代替は効かないだろうし、飴玉でもきっと役不足だ。
不健康の塊のような紫煙だが、実は要所で心体のバランスを取っているのでは無かろうか。

それを捨てる事で得られる健康は、捨てない事で縮む寿命に果たして勝ると言えるのだろうか。

否と、断定的に言い切りたいものだが、煙草を吸う行為は単に習慣として染み付いただけのモノに過ぎない事を、スモーカーの誰もが知っている。

貧乏揺すりの変わりに、指が煙草を挟むだけのことだ。
咥える煙草が舐める飴玉になかなか変えられないのには、それほど大層な理由は無い。
ならばさっさと止めればいいのだが、元は国家が売っていた合法的麻薬との付き合いもかれこれ30年以上になるだけに、そう単純には踏み切れない。

『健康を損なう可能性があります』
だから『吸いすぎには注意しましょう』
箱の意匠に埋没したそれらの無意味な警告文は自粛への効果なぞ甚だ懐疑的だし、今も重度の中毒患者はそこかしこをうろついて辺り構わず毒煙りを撒き散らす。
ヤニだらけの歯を時折見せて談笑し、煙草の残り香を辺りにばら蒔く。
吸わない人間までも肺癌の危機にさらしながら、でも平然と紫煙を吐き出す我々は、実際迷惑極まりない存在なのだろう。
全く申し訳ないと口では如何様にもお詫びを述べるが、実際、屁とも思っちゃいない。
オツムが緩いのか神経が元より無いのか、四十郎を含めたスモーカーは、如何に詰られようとも、今もシャツの胸ポケットにお気に入りの煙草を忍ばせている。

多分、財布の中身が寂しくて、その泣けなしの漱石で飯か煙草かの二者択一を求められたとしても、きっと後者を選択為るのだろう。

中毒患者とはきっとそんなものだ。

20100303